「長束正家」算術と治政に優れ、豊臣政権の財政を担う
- 2019/01/10
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財政面の事務に秀でた才能をもっていた長束正家。彼は豊臣秀吉に仕える五奉行の末席に名を連ね、秀吉亡き後は家康と対立し、敗れて滅びました。しかし、正家の子らは処罰されずに生き残り、さらには家康の孫にあたる三代目将軍・徳川家光とも親交が厚かったといわれています。
そこにはどのような経緯があったのでしょうか?今回は事務処理で手腕を発揮するだけでなく、困っている人たちを救済することにも尽力した長束正家の生涯についてお伝えしていきます。
そこにはどのような経緯があったのでしょうか?今回は事務処理で手腕を発揮するだけでなく、困っている人たちを救済することにも尽力した長束正家の生涯についてお伝えしていきます。
丹羽 長秀の家臣から秀吉の直臣へ
はっきりとわかっていない正家の出生
正家の出生についてははっきりとわかっていません。有力な説としては、もとは水口氏であり、正家の父親である水口盛里は、居城であった近江国の水口城が落城したために、栗太郡長束村に移り住んで長束の姓を称したとされています。永禄5年(1562)、長束盛里の長男として正家は生まれました。出身地については、近江国他、尾張国という説もあります。
当初は織田信長の重臣である丹羽長秀に仕えており、その高い算術の能力を認められ、この時すでに1万石の地行を得ていたと伝わっています。丹羽長秀は信長に信頼され重用された人物で、軍事面、事務面と幅広く活躍しました。おそらくその中で、正家も多くのことを学び、経験し、力を磨いていったのでしょう。
秀吉が直臣に引き抜く
天正13年(1585)になると、信長亡き後、その後継者の座を狙う秀吉を支援していた長秀が病没してしまいます。長秀亡き後は丹羽長重が後を継ぎましたが、越中征伐の際に家臣に佐々成政に内通していた者がいたとして軍律違反に問われています。そして所領の大半と正家ら有力家臣を召し上げられてしまうのです。秀吉の奉公衆に抜擢された正家でしたが、丹羽氏への忠義の心は忘れておらず、財政上の不正があったと長重が秀吉に糾弾された際には、その疑いを晴らすべく、自身が管理していた帳簿を提出しています。
そして、その算術能力、事務能力の高さを秀吉に認められ、正家は秀吉の直参となり、豊臣氏の蔵入地の管理や太閤検地の実施を担当することになりました。こうして正家に大きな出世の道が拓かれたのです。
五奉行のひとりに数えられるまで出世
本多忠勝の妹を正室に迎える
この頃の秀吉が抱えていた最も大きな問題が、秀吉に次ぐ勢力を誇っていた家康への対応でした。天正12年(1584)には小牧・長久手の戦いで両者は激突しています。勝敗は決していませんが、家康は互角以上の戦いぶりをして秀吉を唸らせました。なんとか家康を家臣として取り込みたい秀吉は、天正14年(1586)に実妹である朝日姫を家康の正室として送り出し、さらに生母である大政所を岡崎城に送っています。そしてついに家康も折れ、大坂城に赴き秀吉の配下となるのですが、この時、豊臣・徳川の親交をさらに深めるべく、正家は家康の重臣である本多忠勝の妹・栄子を正室に迎えました。
天正17年(1589)には長男である長束半右衛門助信が生まれています。正家と栄子の仲は睦まじかったようで、慶長5年(1600)にも男子が生まれました。
優れた治政で手腕を発揮
正家は事務処理といった裏方役でいかんなくその才能を発揮しています。天正14~15年(1586~87)に行われた九州征伐では、蔵米の徴収や配分を分担しました。天正18年(1590)の小田原征伐では、兵糧奉行として20万石の兵糧の輸送に成功しています。小田原一帯の米3万石を買い占めることで、小田原城に籠る兵士を飢えさせる兵糧攻めにも貢献しています。
小田原征伐では支城攻めでも活躍しており、石田三成が大将を務め、正家が副将を務めて成田長親の忍城を攻めました。この時の功績によって、正家の弟である長束正隆が秀吉の直参に取り立てられています。
さらに正家は農村の統治においても手腕を発揮します。文禄3年(1594)の2月には、戦乱によって荒廃した農村の再建や、土地を捨てて逃散した農民の還住策を提案し、実践しました。また、伏見城の築城・造営にも貢献しています。
文禄4年(1595)には、これまでの正家の功績が認められ、近江国水口城5万石を拝領しています。正家は父が失った水口城を取り戻したのです。そして豊臣五奉行の末席に名を連ねるまでに出世することになります。


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