【日本史入門】弥生時代とは? 各時期区分の特徴、違い等がスッキリわかる!

 弥生時代は、日本列島で水稲農耕(米作り)が始まってたくさんの小さな国ができ、やがて国々がより大きな国へと統合されていった時代です。もっとも、米作りの開始から中国の歴史書に登場するような国の形成までの間には、600年とも1000年以上ともいわれる時の流れがあります。

 ここでは、弥生時代の各時期区分の特徴や文化的な特色を通して、弥生時代を通じて日本列島がどのような変化が起きたのか解説します。

弥生時代とはどんな時代か

 弥生時代は北部九州で水稲耕作が始まり、人々の間に階層が生まれた時代です。また、鉄器や青銅器が使われるようになりました。

 「弥生時代」という名称の由来は、明治17年(1884)に東京都の弥生町遺跡で見つかった壺型土器です。この土器は、縄文土器とは異なる特徴を持っていたことから「弥生式土器」と名付けられました。のちに、この土器が使われた時代に農耕が行われていたことが明らかになり、弥生土器が使われた時代を「弥生時代」と呼ぶようになりました。

 ちなみに、弥生町遺跡で見つかった壺型土器は、形状や装飾などの特徴から弥生時代後期のものと位置付けられています。

弥生時代の時代区分

 従来、弥生時代は紀元前200年代から紀元200年代の600年間を指し、各地の遺跡から出土した土器や青銅器などの特徴をもとに前期・中期・後期という時代区分が採用されていました。

 しかし、最新の科学的調査や発掘調査の成果により、現在では弥生時代の開始を紀元前900年代後半とし、時代区分は早期・前期・中期・後期と4つの区分が提唱されています。

※研究者によって対応させる実年代には差異があります。ここでは一例を挙げます。

  • 弥生時代早期(※縄文時代晩期後半)…紀元前900年代後半頃~紀元前700年代前半頃
  • 弥生時代前期…紀元前700年代前半頃~紀元前300年代後半
  • 弥生時代中期…紀元前300年代前半頃~紀元1世紀前半
  • 弥生時代後期…紀元1世紀後半頃~紀元250年頃

弥生時代の始まり

 「弥生時代の始まり」とは、水稲農耕が始まった時期を指します。水稲農耕は中国の長江下流域から朝鮮半島を経由し、九州北部に伝わったとする説が有力です。

 福岡県・板付遺跡や佐賀県・菜畑遺跡では、縄文時代晩期の土器とともに水田跡が見つかっています。縄文時代晩期後半には水稲農耕が始まっていたことがわかり、縄文時代晩期後半に並行するかたちで「弥生時代早期」という時代区分が提案されています。

 従来、板付・菜畑両遺跡の水田跡とともに出た土器には、紀元前5世紀という実年代が充てられていました。しかし、2003年に国立歴史民俗博物館がAMS法という最新の炭素14年代法を用いて、再度これらの土器の年代を調べた結果、従来よりも500年ほど遡り、紀元前10世紀頃の実年代が与えられることになりました。

 上記の時代区分は、AMS法を反映させた実年代になっています。

弥生時代の終わり

 「弥生時代の終わり」は「古墳時代の始まり」でもあります。二つの時代を分けるのは、列島各地に現れる巨大な前方後円墳の成立です。

 弥生時代にも、すでに地域の大きな王墓は出現していましたが、墓や棺のかたち、副葬品の内容は地域によってさまざまでした。一方、古墳時代になると、ヤマト王権と手を結んだ地域の支配者の墓は前方後円墳で統一され、棺や副葬品などのあり方も共通するようになります。

 現時点における弥生時代最大級の墳墓は、弥生時代後期に築造された全長約80mの岡山県・楯築墳丘墓(円形に二つの突出部を持つ形)です。続く古墳時代前期の前方後円墳のように、全長が100m、200mといった巨大なものは現時点では見つかっていません。

 また、3世紀前半には、ヤマト地域を中心にいくつかの地域で、前方後円墳の前方部を短くした、ホタテ貝のようなかたちの墓が現れます。前方後円墳が成立する前段階のものと考えられますが、弥生時代の墳墓と見るのか古墳時代の「古墳」の見るのか意見が分かれています。

弥生時代の特色

 弥生時代、水稲農耕を九州北部にもたらした中国大陸、あるいは朝鮮半島の人々は、青銅器や鉄器、機織り技術なども日本列島に持ち込みました。また、亡くなった人を葬るための埋葬施設も大陸由来のものが伝わりました。

水稲農耕

 縄文時代晩期後半=弥生時代早期に九州北部で始まった水稲農耕ですが、各地の遺跡から見つかる水田跡の状況を見ると、その他の地域では開始時期がかなり遅れたと見られています。近畿地方では北部九州から約300年、南関東では約600~700年遅れて水稲農耕が始まったと考えられます。

 このことは、縄文時代から弥生時代への移り変わりに地域差があり、厳密な意味で「弥生時代早期」を設定できる地域は、九州北部など一部の地域に限られていることを示しています。

 水田は低湿地に作られることが多かったようですが、鉄製農具が普及するにつれて微高地にも作ることができるようになりました。静岡県登呂遺跡では、水量を調節するための水路を備えた田が見つかっています。

青銅器

 銅と錫の合金である青銅でできた青銅器の登場も、水稲農耕と並ぶ弥生時代の大きな特徴です。青銅器には銅剣・銅矛・銅戈・銅鐸といった種類があり、いずれも中国大陸が発祥です。

 中国大陸では銅剣・銅矛・銅戈は武器でしたが、日本列島では祭祀具として使われるようになります。形は時間とともに大型化・扁平化し、武器としては使えないようなかたちに変化しました。

 銅鐸は、中国大陸で家畜の首につけていた鈴が日本列島で「鳴らす楽器」として変化したものといわれています。銅鐸もまた時間とともに大型化し、鳴らして聴く楽器から見る祭器へと変わっていきます。

 ところで、銅矛・銅剣・銅鐸には、出土地域に以下のような傾向が見られます。

  • 銅矛…九州北部から四国
  • 平形銅剣…瀬戸内地域
  • 中細形銅剣…山陰
  • 銅鐸…近畿から東海

 各青銅器の分布は、それぞれひとつの文化圏や政治勢力を表していると考えられています。一方で、島根県の荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡や佐賀県の吉野ヶ里遺跡から銅鐸が出土しており、互いの文化圏に交流があったことがうかがえます。

道具類

 水稲農耕が始まると、耕作に必要な鋤や鍬などの木製農具も作られます。鉄が朝鮮半島からもたらされると、農具に鉄の刃先がつけられるようになり、生産性が向上しました。

 稲の収穫には中国大陸系の石庖丁で稲の穂首を刈っていましたが、鉄の普及とともに鉄鎌が使われるようになり、稲穂の根を刈り取る根狩りへと変化しました。また、木材を加工するための工具や、機織り道具も水稲農耕とともに日本列島に持ち込まれます。

 弥生時代に用いられた弥生土器は、縄文土器に比べて薄手であることに加え、形の種類が増える点が特徴です。縄文土器のおもな形が煮炊き用の深鉢と盛り付け用の浅鉢であるのに対し、弥生土器は煮炊き用の甕、貯蔵用の壺、盛り付け用の高杯・鉢と器の役割が縄文土器よりも細かく分かれています。

墓制

 縄文時代では、亡くなった人の身体を曲げて葬る「屈葬」が一般的でした。住居の近くにある広場や貝塚などに「土壙」とよばれる穴が掘られ、埋葬されていました。このような墓を土壙墓とよびます。

 その後、弥生時代になると、死者の身体を伸ばした状態で葬る「伸展葬」が増えます。伸展葬は中国大陸で用いられた埋葬方法で、水稲耕作とともに日本列島に伝えられたと考えられています。

 弥生時代においても、縄文時代と同様に遺体は土壙に埋葬されますが、伸展葬に合わせて土壙の形は長方形になります。また、木の板を組み合わせた木棺墓や、板状の石を組み合わせた箱式石棺など、伸展葬に適した新たな埋葬施設も朝鮮半島から伝わりました。

 弥生時代の墓制は、地域・時期によって異なった特徴があります。地域ごとの特徴をまとめると以下のようになります。

九州北部

甕棺墓…2つの大きな甕の口を合わせて棺にしたもので、前期から中期に多く作られました。甕棺墓の中には豪華な副葬品を持つものと持たないものがあり、前者は王墓と考えられます。

支石墓…地下に木棺や箱式石棺、甕棺などを埋葬し、地上に数個の支石を置いた上に板状の天井石を乗せたもの。朝鮮半島南部から伝わり、前期から中期にかけて作られました。

山陰地方から北陸地方

四隅突出型墳丘墓…方形の四隅に細長い突出部を持ち、墳丘側面に貼り石をめぐらす墳丘の墓。中期後半ごろから弥生時代の後期まで作られ、時代が新しくなるにつれて一辺が数10mの規模のものが出現します。

近畿地方

方形周溝墓…方形の墳丘の周囲に溝を掘ったもので、埋葬施設には木棺墓や箱式石棺墓などが用いられています。方形周溝墓は前期後半に近畿地方で成立し、東西に普及していきます。

北関東から南東北地方

再葬墓…一度、埋葬または風葬した遺体から遺骨を取り出し、壺や甕に入れて再び埋葬すること。縄文時代晩期から弥生時代中期まで見られますが、関東では中期後半に方形周溝墓の普及とともに衰退します。

弥生時代の社会の進展

 水稲農耕の開始をきっかけに社会の階層分化が進むと、各地に小さな国ができました。土地や富をめぐり、国々は争い合いますが、やがて複数の国をまとめる邪馬台国のような大きな国が出現します。

水稲農耕がもたらした社会の変質

 水稲農耕の広がりとともに生産性が向上し、人々の生活は安定しました。しかし、余剰生産ができると集団の中や集団間に富の不均衡が生まれ、その差が身分の違いとなって現れました。

 また、集団間が土地や水利をめぐって争い合うようになります。九州から関東地方では、集落を守るため、周囲に濠をめぐらせた環濠集落が発達します。佐賀県の吉野ヶ里遺跡では弥生時代最大級の環濠集落が見つかっています。

小国の発生

 弥生時代中期になると、水稲農耕を行う集団同士の水利関係などを取りまとめる首長(王)が現れ、首長を中心とする小国が各地に生まれたと考えられます。中期に当たる1世紀ごろのものと見られる福岡県・須玖岡本遺跡の甕棺墓の中に、銅鏡や銅剣、ガラス玉などの副葬品を持つものがあり、首長の墓と思われます。

 また、中期の日本列島の様子は、中国の正史である『漢書』『後漢書』で以下のように記されています。

・『漢書』地理志
紀元前後の頃、日本列島に住む人は倭とよばれていて百余国に分かれており、漢が朝鮮半島に置いた楽浪郡に朝貢した。

・『後漢書』東夷伝
紀元57年、倭の奴国の王が後漢の光武帝に朝貢し「漢委奴国王」の印綬を与えられた。また、紀元107年には倭国王帥升らが後漢の安帝に160人の生口を献上した。

 これらの史料から、倭国にあった小国が中国王朝に朝貢していたことがわかります。

倭国大乱と邪馬台国

 弥生時代後期に当たる2世紀後半の倭国の様子について、『後漢書』東夷伝には「倭が大いに乱れ、互いに争って国を治める者がいない(倭国大乱)」とあります。

 この頃、九州北部から大阪湾にかけての瀬戸内海沿岸地域に「高地性集落」とよばれる集落が現れます。高地性集落は、海抜100mを超える丘の上や山頂などに作られた軍事的な性格の強い集落です。高地性集落と「倭国大乱」を関連付ける説もありますが、近年は倭国大乱の時期よりも古い時期につくられたものが多いという指摘もあり、今後の研究の進展が待たれます。

 中国の正史『魏志』倭人伝には、倭国大乱後の倭の様子について「邪馬台国という国があり、もとは男子を王として7、80年続いていたが、倭国が乱れて何年も争いが続いたので、共同で卑弥呼という一人の女子を王に立てた」と記しています。卑弥呼を女王に立てた邪馬台国は、30ほどの国を従えていました。

 卑弥呼は呪術に長けており、その力で人々を従わせていました。紀元239年には魏の明帝に使者を派遣し、「親魏倭王」の称号と金印紫綬を賜っています。卑弥呼が亡くなると、大きな墓が築造されて葬られました。その後、男の王を立てたが国中が服さず、争いが起きたため、一族の女性である壱与を立てると国が治まりました。

 紀元266年には、壱与と思われる人物が中国の晋王朝に朝貢したことが『晋書』に見えますが、その後、倭国の記事は中国の正史から消えてしまいます。なお、邪馬台国の所在地は現在もわかっていません。『魏志』倭人伝に記されているルートの解釈によって九州北部説と近畿説があり、論争が続いています。

北海道と奄美・沖縄の様子

 水稲農耕は九州北部に伝わり、少しずつ東へと広がっていきました。水稲農耕が広がった地域が「弥生時代」に入る一方、北海道と奄美・沖縄の島々は水稲農耕が定着せず、弥生文化とは異なる文化の様相を呈していました。

続縄文文化

 北海道も本州と同じく、縄目模様を用いた縄文土器を使う縄文時代を迎えました。しかし、その後は水稲農耕が伝わらず、縄文時代と同様の暮らしをさらに発展させました。北海道における弥生時代から飛鳥時代まで(7世紀頃)に並行する時期を「続縄文文化」とよびます。

 この時代の北海道の人々は、水稲農耕は行わず漁労や採集中心の生活を送り、縄文土器と同様に文様のついた土器を使っています。しかし、本州と交易を行い、鉄器などの金属器を手に入れて漁労や採集に使う道具を発達させていきました。

貝塚文化

 奄美や沖縄諸島は、本土の縄文時代から平安時代までに相当する期間を貝塚文化とよびます。呼称は貝塚が多いことに由来します。

 この時代の奄美・沖縄の人々は水稲農耕を行わず、漁労や貝類採集の生活を送っていました。貝塚文化の後期初頭は本土の弥生時代に並行し、弥生土器が伝播しているものの、水稲農耕を受け入れた形跡はみられません。

おわりに

 弥生時代は水稲農耕の始まりとともに、人々の間に身分の差が生まれ、国が形成される時代です。この時代のことを書いたものは中国王朝の正史しかなく、その記録はわずかなものです。頼りとなるのは全国の遺跡から見つかる遺構や遺物であり、新発見とともに従来の定説が覆ることもしばしばあります。

 今後も新たな成果とともに、水稲農耕の受容のされ方や古墳時代への移行期の様相など、書き換えられる可能性があるでしょう。

参考文献・サイト
『図説 日本史通覧』帝国書院
『もういちど読む 山川日本史』山川出版社
https://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/hajimari03.html
http://www.makimukugaku.jp/info/iseki.html
https://www.city.kurashiki.okayama.jp/5509.htm
https://www.sankei.com/article/20220110-LE7SPPIRX5MGHEZW5GENYXGKY4/
https://www.akarenga-h.jp/hokkaido/jomon/j-04/
http://www.historist.jp/word_j_o/entry/029722/

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  この記事を書いた人
戦ヒス編集部 さん
戦国ヒストリーの編集部アカウントです。編集部でも記事の企画・執筆を行なっています。

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