「小早川隆景」すべては毛利のために。宗家を支えた元就三男の生涯

毛利、というとどうしても毛利元就の強さばかりが目につきますが、その子どもたちも優秀な武将でした。なかでも、三男の隆景は黒田官兵衛も一目置く知将として知られています。

官兵衛だけでなく、天下人・秀吉にも重用された隆景ですが、それほど優秀であるにもかかわらず毛利の一家臣であることを貫き通します。大大名となるだけの器もチャンスもあったのに、なぜ毛利家を支えるわき役に徹したのか。その生涯をみていきましょう。

小早川家の養子になる

隆景が生まれたのは天文2年(1533)。父・元就が大内の家臣となり、吉田郡山城(現在の広島県安芸高田市吉田町)主となって10年が過ぎたときのことでした。

幼名は徳寿丸。母は嫡男の隆元、次男の元春を生んだ正室の妙玖(みょうきゅう/法名。実名はわかっていない)です。


毛利氏は天文9年(1540)、元主君である尼子氏に攻められ、吉田郡山城に立て籠もって戦います。この戦は大内からの援軍も到着して勝利。この吉田郡山城の戦いは、安芸国の小領主にすぎなかった毛利元就が勢力を拡大するひとつの契機となりました。

中国を統べる112万石(実際は200万石はあったといわれる)の大大名となる過程で元就が取り組んだのは、婚姻や養子縁組戦略でした。徳寿丸の二番目の兄・元春は母の実家である吉川へ。そして徳寿丸は安芸国の東端、瀬戸内に水軍を擁する小早川家の養子になります。

渡りに船だった養子縁組

「養子縁組戦略」とはいうものの、徳寿丸が小早川家に入ったのは元就がゴリ押ししたからではありません。吉田郡山城の戦いの翌年、竹原小早川家の当主であった興景(おきかげ)が23歳の若さで亡くなりました。興景には跡取りの男子がいなかったため、誰かを養子に迎える必要がありました。そこで白羽の矢が立ったのが徳寿丸です。興景の妻が元就の姪であったため、親戚筋の徳寿丸が選ばれたのでした。

というわけで、この養子縁組は元就が勢力拡大を考えているときに転がり込んできた話だったのです。徳寿丸は天文13年(1543)、数え12歳で竹原小早川家の当主となり、「隆景」と名乗るようになります。

今度は沼田小早川まで継ぎ、宗家の当主に

またまた幸運が続きます。竹原小早川家は小早川家の分流に過ぎませんでしたが、ほどなくして隆景は嫡流の本家・沼田(ぬた)小早川家も継ぐことになったのです。

沼田小早川の当主・正平が戦死し、その子である繁平は病で失明。目の見えない当主では……ということで、竹原小早川家の当主となり家中でも評価が高かった隆景が繁平の妹と結婚することに。こうして、本家の沼田と分家の竹原を統合する形で、隆景は小早川のすべてを手中におさめたのでした。

こう説明するときわめて平和的に進んだように見えますが、実際は「繁平が盲目になっても家臣が支えていける」と主張する派閥もあったようです。が、これは隆景が当主となったあとで粛清されています。

あまり表には血なまぐささが見えてきませんが、背後の毛利がかなり強引に事を進めたことがうかがえます。

すでに知将の片鱗を見せた少年期

さて、知将と名高い隆景は、少年のころからその優秀っぷりで周囲を驚かせていたようです。

たとえば、毛利の主君・大内氏は家臣の陶晴賢(すえはるかた/もとは隆房)のクーデターで乗っ取られてしまいますが、隆景はこれを事前に予言していたというのです。

長兄・隆元は大内の人質になっていた期間がありますし、弟である隆景も大内家と関りがあったのでしょう。隆景は「大内は滅亡する。陶隆房の諫言を聞こうともせず、寵臣である相良武任(さがらたけとう)の声ばかりに耳を傾けているから」と言ったというエピソードがあります。

なぜ滅びるのか、大内家中の状況を判断したうえで発言しており、他家のことであってもしっかり分析していることがわかります。

毛利両川体制で毛利宗家を支える

隆景は、元就・隆元・輝元の宗家三代にわたってこれを支えています。次兄・元春も他家の吉川家の養子として出ていきましたが、隆景はこの元春とともに毛利家を支える両翼としてはたらくのです。

毛利元就の晩年の1568年頃の毛利勢力図
父元就の晩年の1568年頃の毛利勢力図

父よりも先に亡くなる隆元、若くして家督を継いだ輝元。そして毛利の行末を案じて亡くなる元就。隆景と元春は、とくに輝元の代になってからこれを導く存在として力を発揮します。

毛利、および小早川と吉川の両川(どちらにも名に「川」がつくことから)は力を合わせ、毛利両川(もうりりょうせん)体制で勢力を拡大。強大になった所領を守っていくこととなります。

小早川の水軍

次兄の元春の所領は現在の北広島町でした。同じ安芸とはいえ吉川は島根に接しており、山陰のおさえとして働きます。対するに、隆景の所領は海に接した現在の竹原市・三原市のあたり。こちらは山陽を担当していました。

小早川家の所領は瀬戸内沿岸ということもあり、強力な水軍を所有していました。さらに、瀬戸内海の厳島を舞台にした弘治元年(1555)の厳島の戦いにおいては、瀬戸内海を支配していた村上海賊の引き入れにも尽力しています。毛利直轄の水軍とあわせ、海戦で大きく貢献しました。

「三矢の訓」の逸話

「三本の矢」とも呼ばれる有名な逸話があります。臨終の元就が隆元・元春・隆景の三人の子に矢を一本ずつ渡し、「一本なら簡単に折れるが、三本重ねれば簡単には折れない。三人で力を合わせて毛利を守りなさい」という教訓です。

毛利三本の矢の逸話イラスト

「三本の矢」は広島を本拠地とするプロサッカークラブ「サンフレッチェ広島」の名前の由来にもなっているほど、地元では有名な逸話です。

  • 「サン」⇒ 三本の矢の「三」を意味
  • 「フレッチェ」 ⇒ イタリア語の「矢」の複数形

この逸話は江戸時代に作られたものであり、元就が三人に宛てて書いた『三子教訓状』の14か条がもとになっています。実際に矢を渡して語り聞かせたわけではありません。この教訓状において何度も繰り返されるのが、兄弟が協力して家を守っていくということ。三兄弟はこの教えを堅く守り、元就が願ったとおり協力して家を守っていきました。

隆景にはこれと別の書状も送られています。「どんなことがあっても堪忍しなくてはならない」という内容のもの。元就は家の主が家臣を失うことほど苦しいことはないといい、家臣に見放されないよう注意しなさい、と教えます。

これは小早川家の当主としての心構えを言っているようであり、また輝元を教え導く存在として釘を刺しているようにも思えます。宗家の主たる輝元が家臣から見放されることがないよう、立派な主君として育てるように。そしてお前は何があろうとも輝元を支えるように。そういう意味が込められているのではないでしょうか。

実際、これ以降の隆景の生き方を見るに、父の教訓が常に芯の部分にあったことは疑いようもありません。20歳年下の甥っ子・輝元を厳しい目で見守りながら、宗家の主として尊重しました。

元就亡き後、毛利の窓口として秀吉と関わる

父・元就が亡くなると、隆景は元春とともに輝元を補佐します。元春は主に「武」の軍事方面を、隆景は外交など「知」の面で活躍しました。

「中国大返し」追撃に待った!

織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変。秀吉はこのとき中国攻めで備中高松城を包囲している真っ最中で、信長のそばにはいませんでした。主君の死の知らせを聞いたのが変の翌日、天正10年(1582)6月3日のこと。

すぐさま京へ引き返して敵を討ちたい秀吉は、いままで頑として和睦の条件を譲らなかったにもかかわらず、さっさと和睦をすすめて京へ向かってしまいます。毛利方が信長の死を知ったのは、和睦がなって備中高松城主・清水宗治が切腹したあとのことでした。

これを知った兄・元春は怒り、すぐに秀吉を追撃して討とうと提案します。今秀吉を討てば、毛利が天下をとれる。しかし、隆景はこれに待ったをかけました。信長が死んだことも、まだ確定してはない。そして秀吉に勝てるとも思わなかったのでしょう。

確実に勝てるなら天下への道は見えますが、そうでないならリスクが大きい。秀吉を討ち損ねれば、さっき和議を結んで誓約を交わしたものを反古にしてしまうことになるので、当然毛利は責められる。今ここで秀吉を攻めるよりも、邪魔をせず帰してやることで恩を売ったほうが良い。

隆景は先々のことを見据え、冷静に判断したのです。

義理を重んじた隆景はこれ以降、豊臣政権下で重用されることになります。ただ、もし討っていたなら天下をとることができたのに、隆景はチャンスを逃した愚か者である、という評価もあります。

こうして秀吉は無事に京へ入り、山崎で光秀を滅ぼします。同年、元春はフラストレーションを発散できなかったため秀吉への怒りが収まらなかったのか、「やってられるか」とばかりに隠居してしまいました。以後、隆景は毛利家の窓口として秀吉と付き合っていくこととなります。

毛利を支える一家臣であることを貫いた生涯

実質、秀吉の天下取りに手を貸した形になった隆景。備中高松城の戦い以来、黒田官兵衛とはお互いに認め合う仲、そして秀吉には一目置かれます。以降、隆景の養・元総(もとふさ/隆景の異母弟)を人質に出すなど、豊臣との関係は良好に続きました。この元総は秀吉の一字を賜り、「秀包(ひでかね)」と名乗るようになりました。

「大名にしてやろう」と言われても

秀吉は毛利を支える一翼である隆景の抱え込みに動きます。天正13年(1585)、四国征討でのこと。このとき隆景も毛利の一員として秀吉軍の一隊を率いており、論功行賞として伊予35万石を与えよう、と言われます。

伊予一国。現在の隆景は毛利の一家臣にすぎないので、伊予を手にすれば一気に出世して大名になることができます。秀吉としては、隆景を大名にして毛利から引き離して自身の直属の家臣にすることが目的だったと思われます。

深謀遠慮の知将、隆景はもちろんそんな意図はお見通し。一国を賜るのはありがたいが、それなら主君である輝元を介して賜りたい、と言ったのです。「私はあくまでも毛利の家臣です」ということ。秀吉はこれを承諾。隆景は輝元から賜る形で伊予を手にしました。

毛利宗家の血を守るため

秀吉は毛利の力を削ぐ隙を虎視眈々と狙っています。今度は、自身の養子である秀俊(のちの秀秋)を輝元の養子にしてはどうか、と提案したのです。このころ秀吉の実子が誕生しており、不要になった養子を他家へやろうと考えたのです。

黒田官兵衛からもたらされたこの話、隆景はまた思案します。

毛利と秀吉につながりができれば安泰かもしれないが、宗家に他家の血が入れば、内側から壊されてしまうおそれもある。隆景は、この養子縁組はなんとしてでも避けたかった。

そこで隆景は、先んじて動くことで回避します。正式に打診がある前に、「秀俊どのを私の養子にほしい」と願い出たのです。まだ実子がいなかった輝元には別の養子を用意しての行動でした。隆景にも実子がなかったので、秀吉としても悪い話ではありません。

こうして隆景が自らを犠牲にする形で、秀俊は小早川家の養子になったのです。

隆景の死後、小早川家は滅んだけれど…

晩年の隆景は、文禄の役でも碧蹄館の戦いで明軍を撃退するなどの活躍を見せました。末期の豊臣政権下では五大老のひとりとなり、慶長2年(1597)に病死。

隆景亡き後、小早川家は養子の秀秋が継ぎますが、関ケ原合戦においては西軍を裏切って東軍に味方。西軍の総大将であった輝元は中国120万石の大半を奪われ、周防・長門の29万8千石に減封されてしまいます。

奇しくも毛利縮小のきっかけをつくったのは養子の秀秋。もし隆景が生きていたら、と「たられば」考えてしまいますが、どうしようもありません。小早川家は、秀秋が急死したことで無嗣断絶。関ケ原の功で得た所領も改易され、滅びてしまいます。

小早川秀秋の肖像画(高台寺蔵)
小早川秀秋の肖像画(高台寺蔵)

ただ、別の視点から見れば隆景は毛利の名を守ったともいえます。もしあのまま秀秋が輝元の養子になっていたら……。関ケ原合戦当時、輝元が健在なので東軍も秀秋をどうこうしなかったかもしれませんが、それでも不安要素にはなったでしょう。隆景は秀秋を自身の養子にしたことで、毛利宗家を守った、ともいえるでしょう。


【主な参考文献】
  • 桑田忠親『毛利元就のすべてがわかる本』(三笠書房、1996年)
  • 小和田哲男『毛利元就 知将の戦略・戦術』(三笠書房、1996年)
  • 河合正治 編『毛利元就のすべて』(新人物往来社、1996年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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