「毛利輝元」関ヶ原で西軍総大将に担がれ、父祖の築き上げた勢力の大半を失うハメに
- 2019/05/29
毛利元就は一代で安芸の小領主から中国を統べる大大名へとのし上がった知将です。ただ、自分亡き後の毛利家については常に案じていました。三人の息子、隆元・元春・隆景は「兄弟で協力して毛利を守るように」という父の教えどおり立派に家を守りましたが、それは次の代までは続かなかったようです。
元就の孫にあたる毛利輝元(もうり てるもと)は豊臣政権では五大老のひとりに数えられた有力大名でしたが、関ケ原合戦で判断を誤り、所領の大半を失ってしまうことになるのです。その人生を幼少期から追ってみましょう。
元就の孫にあたる毛利輝元(もうり てるもと)は豊臣政権では五大老のひとりに数えられた有力大名でしたが、関ケ原合戦で判断を誤り、所領の大半を失ってしまうことになるのです。その人生を幼少期から追ってみましょう。
【目次】
11歳で父・隆元を亡くし家督相続
輝元は天文22年(1553)、毛利隆元の嫡男として吉田郡山城で誕生しました。母は隆元の正室・尾崎局(法名:妙寿)です。幼名は「幸鶴丸(こうつるまる)」といいました。父・隆元は輝元誕生前に毛利家の家督を相続していましたが、祖父の元就は隠居後も実権を握っていました。隆元が弟の吉川元春や小早川隆景に比べて印象が薄いのも、元就の陰に隠れていたという理由が大きいでしょう。
その父・隆元は、永禄6年(1563)に急死しています。輝元はわずか11歳にして毛利家の家督を相続することになりました。といっても、隆元の代と同じように実権は元就が握ったため、幼い輝元が先頭に立って何か決断を下すような場面はありません。
その2年後、永禄8年(1565)に13歳で元服すると、将軍・義輝から「輝」の偏諱を賜って「輝元」と名を改めています。当初は「義」の字を賜るはずでしたが、恐れ多いと謙遜して「輝」になったとか。
同年には従兄弟の元長(元春の子)とともに初陣を果たし、名実ともに武士となり当主として働いていくことになります。
祖父・元就や叔父たちによる養育
そうはいっても、毛利には元就をはじめ叔父の元春、隆景もおり、国を運営していったのは彼らでした。幼くして父を亡くした輝元は元就に養育され、ふたりの叔父たちにも厳しく当主として教え導かれました。叔父ふたりの接し方はかなり厳格なものだったようですが、それはひとえに立派な当主として成長することを願ってのものでした。
本格的な毛利両川体制へ
元亀2年(1571)、毛利を一代で中国一の大大名にした元就が亡くなります。19歳の輝元は名実ともに毛利家の当主に。ここからは引き続き元春・隆景のふたりが輝元を支え、以前にもまして三家が協力して舵をとるようになります。いわゆる「毛利両川体制」が本格化するのは元就が亡くなったあとからでした。信長・秀吉との戦い
輝元は元春・隆景の補佐のもと、過去には毛利の主家であった尼子氏、大内氏らとの戦いに勝利し、祖父や父の代以上に所領を広げていきます。それまでは近隣の国との戦いが主でしたが、天正元年(1573)に将軍・義昭が京を追放されて以降、状況は変わります。このころ輝元は備前、讃岐まで侵攻の手をのばしていましたが、その範囲は同じころ西方面に進出していた織田信長の勢力と近づいてしまいます。
天正4年(1576)、京を追われた義昭が毛利を頼ってくると、いよいよ信長との対立は避けられなくなりました。石山合戦(天王寺合戦など)において、輝元は信長と対立する石山本願寺に兵糧を送って味方。さらに、毛利は一時播磨の別所や摂津の荒木などとともに勢いをつけ、信長勢力がある畿内にまで進みます。
信長の命で秀吉が中国攻めに乗り出すと、今度は毛利が押し返される立場に。天正10年(1582)、秀吉による水攻めで2か月にも及んだ備中高松城の戦いが特に有名です。このとき、毛利は元春や隆景とともに援軍を出していましたが、和睦の条件でお互い譲り合わず、戦いは長引いていました。
和睦がまとまったのは6月4日のこと。あれだけ長引いた協議がまとまったのは、信長が本能寺で討たれたためでした。毛利には「中国大返し」をする秀吉を追撃するという選択もありましたが、隆景の判断により見逃します。
秀吉が信長に代わって天下をとると、輝元は天正16年(1588)に上洛してこれに従い、従四位参議に任官。さらに羽柴姓を賜りました。
広島城を築城
話を中央から国許へもどしましょう。毛利家は元就の時代からながらく吉田郡山城を拠点としていましたが、天正17年(1589)、輝元は本拠地を太田川河口デルタに移すことを決めます。城は天正19年(1591)に完成。信長の安土城以降主流となった立派な天守と城下町のある近世城郭です。輝元が新たな城建築を決断したのは、初めての上洛で秀吉の大坂城など豪奢な城郭を目にしたことも影響されてのことでしょう。広島といえば元就ですが、今も残る広島城(原爆投下後に再建)を築いたのは孫の輝元でした。
豊臣五大老のひとりとして
豊臣政権下で、輝元は中国7か国と伯耆三郡、備中の合計112万石の知行目録が与えられています。秀吉との間はとくに隆景を窓口とし、良好な関係が築かれました。文禄・慶長の役で毛利勢は主力として活躍し、文禄4年(1595)、輝元は従三位権中納言となって「安芸中納言」と呼ばれるようになります。
叔父の隆景は秀吉に重用され、晩年には五大老の一角を担っていましたが、慶長2年(1597)に死去。同年に空席となった穴をうめるべく、秀吉は輝元を五大老のひとりに任命します。
こうして輝元は徳川、上杉、前田、宇喜多と並ぶ豊臣政権下の有力大名として位置づけられることになりました。
関ケ原合戦で西軍総大将にまつり上げられる
秀吉の死後、家督は子の秀頼に譲られましたが、五大老筆頭の徳川家康と石田三成とが対立を極めます。これが発展して慶長5年(1600)に関ケ原合戦が勃発。西軍を指揮した石田三成・大谷吉継は、「輝元を西軍の総帥にするのがよい」と主張します。毛利に仕え、外交を担当した安国寺恵瓊(あんこくじえけい)はこのころ三成と近しく、輝元の説得にあたりました。
毛利家中においては徳川に賛同する者もありました。小早川秀秋、吉川広家らです。秀秋は単純に家康への恩義で徳川に好意的でしたが、広家はさすが両川の片翼・元春の息子。天下分け目の戦の大局を見ており、冷静に判断していました。
広家は恵瓊が輝元を抱き込もうと説得していることを知ると、当然反対しました。絶対に大坂城に入ってはならないと釘を刺そうとしますが、しかし時は遅く……。輝元は大坂城に入ったあとでした。輝元は西軍の総大将にまつり上げられてしまったのです。
広家はそれでもあきらめず、「家康と兄弟の契りを交わしたことを忘れてはならない。よく考えて毛利のために行動するように」と文を送っています。
戦の結果は、広家が予想したとおり東軍の勝利に終わりました。輝元は総大将という立場ではあるものの、大阪城から出ることなく、関ケ原で戦うことなく終えます。しかし、それでも家康は輝元を西軍の総帥とみなしたのでした。
吉川広家の必死の行動で毛利家は存続
家康は関ヶ原合戦の後、戦後処理として西軍に属した多くの武将たちを改易(所領没収)もしくは減転封(石高減の国替え)処分にしています。大坂城に入って西軍総帥となった輝元も処分から逃れることはできませんでした。家康の処分は、所領すべての没収。広家は東軍勝利を確信していたため、西軍として出陣しながら家康に内通し、陰の工作が功を奏して防長2国が与えられることになりました。
が、毛利宗家の所領がすべて没収されると知ると、家康に懇願して毛利家の存続を懇願。これが聞き届けられなければ自分の首を差し出す覚悟だったといいます。
中国112万石 → 周防・長門36万9千石へ
家康や黒田長政と内通して裏工作をし、命を投げうつ覚悟で哀訴懇願した広家の必死の行動が家康の心を動かしました。広家が賜るはずだった山口の防長二か国は輝元に渡ることに。112万石から36万9千石への大幅な減封となりましたが、毛利家は首の皮一枚つながりました。なお、もともと防長は表高29万8千石だったといいます。一気に四分の一まで給料をカットされてしまったに等しい毛利は徹底的に検地を行い、その結果、53万9千石以上あったとか。これを幕府に報告しましたが、「敗者の石高にしては多すぎる」という理由で表高は36万9千石とされました。
晩年、江戸時代の輝元
自らの行動により父祖の所領を大幅に失った輝元。拠点としていた広島城には福島正則が入り、山口まで追いやられてしまいます。輝元は戦後処理で引っ越すと、隠居して剃髪、「幻庵宗瑞」と名乗り、嫡男の秀就(ひでなり)に家督を譲りました。もっともこれは形式的なもので、実権はそのまま輝元が握っています。秀就はまだ6歳であったため、後見が必要であったという理由もあります。その後、萩城を築城して藩政にあたりました。
大坂の陣(1614~15)では、家康に従って出陣したものの、気持ちは相変わらず秀頼に傾いていたようです。陰で家臣の内藤元信に「佐野道可」と偽名を名乗らせて豊臣軍に送り込むなど、最後まであきらめの悪いところがあったのでした。これはのちに家康の知るところとなり、怒りを買ってしまいます。
そんな輝元も、寛永2年(1623)4月27日に萩で死去。72歳でした。
【主な参考文献】
- 国史大辞典(吉川弘文館)
- 桑田忠親『毛利元就のすべてがわかる本』(三笠書房、1996年)
- 小和田哲男『毛利元就 知将の戦略・戦術』(三笠書房、1996年)
- 河合正治 編『毛利元就のすべて』(新人物往来社、1996年)
- 利重忠『元就と毛利両川』(海鳥社、1997年)
- 岸田裕之『毛利元就 武威天下無双、下民憐愍の文徳は未だ』(ミネルヴァ書房、2014年)
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