「長宗我部信親」父元親に将来を期待されながらも戸次川で壮絶な討死をはたす
- 2019/08/06
土佐国の豪族から、競合勢力を滅ぼし、吸収して土佐国の統一、さらに四国統一まで成し遂げたとされる英雄・長宗我部元親。ただし、豊臣秀吉に降伏した後の晩年には、後継者争いによって長宗我部氏衰退のきっかけを作ってしまいます。
元親が晩年になって勢いや冴えを失ってしまったのは、嫡男である長宗我部信親の死に原因があるようです。はたして、元親から大きな期待を受けて育った信親とはどのような人物だったのでしょうか?
元親が晩年になって勢いや冴えを失ってしまったのは、嫡男である長宗我部信親の死に原因があるようです。はたして、元親から大きな期待を受けて育った信親とはどのような人物だったのでしょうか?
名門・土岐一族の血脈
信親は土佐の豪族・長宗我部元親の嫡男として、永禄8年(1565)に誕生しました。当時の長宗我部氏は土佐国の一勢力に過ぎませんでした。一方、信親の母親は、将軍・足利義輝の家臣である石谷光政の娘です。石谷氏は将軍家に代々仕えた奉公衆という家柄で、光政は義輝の側近として活躍しました。
石谷氏の家督は娘婿である斎藤頼辰が養嗣子として継いでいます。頼辰の弟が明智光秀の重臣・斎藤利三であり、元親はこの縁を頼って幕府や織田信長と交流を深めています。
石谷頼辰は義輝、光秀と主を変えていますが、光秀が秀吉に討たれた後は土佐国の親族である元親を頼り重く用いられ、その娘は信親の正室に迎えられています。つまり、信親は母親が石谷氏であり、正室もまた石谷氏ということです。ちなみに石谷氏も斎藤氏も明智氏も土岐氏の一族であるため、信親にも光秀や利三らと同じ土岐氏の血が流れているということになります。
信親の容姿と人柄は?
信親の容姿については、色白で柔和、ただし身長は6尺1寸(およそ1メートル85センチ)あったと記されていますから、かなりの偉丈夫です。父親である元親も若い頃は色白でおとなしかったことから姫若子と呼ばれていましたから、元親のDNAを強く受け継いでいたのでしょう。性格についても、言葉は少なく礼儀正しく、冗談を話すこともあるが、調子に乗るようなことはなかったようです。厳しくなりすぎずに家臣たちに接したことから、国人自ら敬い、懐くこと父母のようだったと記されています。人望にも恵まれていたということです。
嫡男ということもあり、元親はことの他、信親に期待をしていました。ちなみに信の一字は烏帽子親である信長から拝領したものです。もともとは弥三郎と名乗っていましたが、天正3年(1575)に元親が信長に烏帽子親になってほしいと依頼し、信長から「信」の一字とともに、左文字の名刀と栗毛の馬も与えられています。
この時点では信長と元親の関係は良好で、四国の儀は元親の手柄次第で好きに切り取って構わないという朱印状を元親は信長から受け取っています。ただし、その後の信長は心変わりし、我が子である神戸信孝に四国を支配させようと画策し、三好氏と結託して長宗我部氏の領土に攻め込もうとするのです。
父の意向で徹底した英才教育を受ける
元親の信親への期待の大きさは、その徹底した英才教育にも表れています。元親は自分の子供たちに豊岡城下で手習いや文学を学ばすため、吸江庵の眞蔵主や忍蔵主を講師に招いています。元親は教育の重要性をしっかり認識していました。その中にあって、嫡男信親に対して別格の教育を施すのです。
武芸においては、槍や長刀を大平市郎右衛門から学ばせました。真道流とありますが、正確には新当流だと考えられます。太刀は須藤流、さらに精参流を伊藤武右衛門から学ばせました。弓矢については城内に言丸という弓場を設けて、近沢越後守を指南役として小笠原流を学ばせています。
ちなみに武芸だけではありません。太鼓は京都から似我惣左衛門・惣十郎親子を招いて師匠とし、同じく上方から牛尾玄笛の弟子である小野兼丞を招いて笛を学ばせ、飛鳥井曽衣を招いて蹴鞠を学ばせ、堺から勝部勘兵衛を招いて鼓を学ばせています。
さらに謡の師匠には藤田弟子宗印、碁の師匠には大平捨午音を招きました。おそらく絵画についても学んでいたはずで、信親作と伝わる「白鷺図」が高知県立歴史民俗資料館に収蔵されています。
幼い頃からかなりマルチな才能を発揮し、周囲を驚かせ、元親を喜ばせたのではないでしょうか。元親の自慢の息子であり、それを聞いた信長は養子に迎えたいと考えたほどでした。
わずか22歳で討ち死に
勝瑞城攻めで抜け駆け?
天正10年(1582)、信長は神戸信孝を総大将にした大軍で阿波国の三好康長を先鋒として、長宗我部氏の領土に侵攻しようと準備しましたが、まもなく本能寺の変が勃発して横死し、四国攻めの計画は頓挫してしまいます。阿波国の勝瑞城に入っていた康長は逃亡しました。信親はこの隙に阿波国の一宮城、夷山城を攻略し、勝瑞城を制圧しようと進言しましたが、病になっていた元親は8月まで待つよう指示しました。しかし、信親は小姓組を率いて出陣して阿波国の海部城に進み、元親の弟である香宗我部親泰を頼ります。
この好機を逃さないよう、父親の代わりに自分が総大将となって阿波攻めをしようとしたのです。元親はその意欲を大いに買いましたが、味方も戦争続きで疲弊していることもあり、用意を整えてから戦うように伝令を出して諭し、信親は岡豊城に戻っています。実際に元親は8月に出陣し、9月には勝瑞城を落として阿波国を制圧しました。
信親の抜け駆けのような戦いは阻止されてしまいましたが、信親は元親がいなくても敵を討ち果たせるという自分の武勇にも自信を持っていたことを物語っているエピソードです。
死闘となった戸次川の戦い
その後、信長の後継者である秀吉の勢力はどんどんと拡大し、四国にも征伐軍を送り込んできました。圧倒的な兵力の前に降伏するしかなかった長宗我部氏は、制圧していた讃岐国、阿波国、伊予国を取り上げられ、土佐一国のみの領有を許されることに。さらに天正14年(1586)、薩摩国の島津氏が、豊後国の大友氏の領土に侵攻。秀吉は大友氏の救援要請に応え、仙石秀久を主将として元親・信親親子、また長宗我部氏と長く戦い続けた宿敵である十河存保を援軍として派遣します。
彼らは鶴ヶ城を救出するため戸次川に布陣。川を渡って攻撃しようとする秀久、存保とその不利を説く元親でしたが、最終的に押し切られて出陣し、島津氏の伏兵に襲われて壊滅状態に陥りました。
元親は家臣の説得で落ち延びますが、信親は中津留川原に踏みとどまって島津勢と激突。信親は4尺3寸(およそ1.6m)の大長刀を振るって8人の敵を討ち、さらに太刀を抜いて6人を討ち果たしましたが、最期は力尽きて鈴木大膳に討たれています。
このとき信親はまだ22歳でした。元親は意気消沈して土佐国に戻り、島津氏と交渉してその遺体を引き取り、高野山の奥の院に葬っています。
おわりに
愛する嫡男の戦死に精神的なダメージを受けた元親は、だんだんと冷静な判断ができなくなり、その後の後継者を巡る問題で、大切な家臣を何人も処刑していくのです。もし信親が生きて家督を継いでいたのなら、長宗我部氏は滅ぶことなく、土佐藩主として江戸期にも存続していたかもしれません。
【参考文献】
- 山本 大『長宗我部元親(人物叢書)』(吉川弘文館、1960年)
- 平井上総『長宗我部元親・盛親:四国一篇に切随へ、恣に威勢を振ふ』(ミネルヴァ書房、2016年)
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