「長宗我部元親」土佐の出来人と謳われるも、四国統一は幻だったのか?

  • 2020/07/22
  • ※本記事は一部にプロモーションを含みます
 戦国時代、四国という「島」をひとつの国家としてまとめ上げようとした男がいました。土佐の風雲児、長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)です。

 「ちょうそかべ」という独特の響きを持つ名字、そして「土佐の出来人」という異名。歴史ファンにはお馴染みの名将ですが、実は彼の人生は、常に「常識を覆す逆転」と「巨大な時代の波」との戦いでした。

 幼少期には「姫若子(ひめわこ)」と嘲笑されるほど軟弱だった少年が、いかにして四国全土を震撼させる猛将へと変貌を遂げたのか。そして、目前まで迫った「四国統一」の夢はなぜ潰えたのか。激動の生涯を、当時の情勢とともに深く掘り下げていきます。

逆境からの再興:元親誕生と家督相続

 長宗我部氏は、土佐国(現在の高知県)において「土佐七雄」と呼ばれる有力豪族のひとつでした。本拠地は高知平野を見下ろす要衝・岡豊城(おこうじょう)です。

 しかし、元親の祖父・長宗我部兼序(かねつぐ)の代に悲劇が襲います。同じ七雄である本山氏・大平氏・吉良氏らの連合軍に攻められ、岡豊城は落城。兼序は自害し、一族は滅亡寸前に追い込まれました。この時、遺児であった元親の父・国親(くにちか)は、土佐国司である一条氏を頼って亡命します。

 一条氏の仲裁もあって、やがて岡豊城へ帰還を果たした国親は、雌伏の時を経て地道に勢力を回復。その再興のさなか、天文8年(1539)に長男として生まれたのが、のちの元親でした。

土佐国司の一条氏、および土佐七雄の拠点マップ
土佐国司の一条氏、および土佐七雄の拠点マップ

 元親の幼名は弥三郎。母は美濃の斎藤氏の娘と伝わります。「美濃のマムシ」斎藤道三の娘という説もありますが、時系列的には道三が斎藤の名跡を継ぐ前の婚姻と考えられるため、おそらく別人と思われます。


 若い頃の元親は、軟弱な性格で色白の容姿から「姫若子」と揶揄されるなど、家中での評判はあまりよくなかったようです。

 このままでは長宗我部家の未来は暗い――。誰もがそう確信していた頃の永禄3年(1560)、元親の初陣となる「長浜の戦い」が訪れます。出陣を前に元親は鑓の突き方も知らなかったため、家臣の秦泉寺豊後に尋ねる始末。「敵の眼を突け」と教わったといいます。

 しかし、いざ合戦が開始すると、元親の内に眠る野獣が目覚め、50騎ほどで敵中突撃を敢行、2人を討ち取る功をあげたといいます。その豹変ぶりに人々は驚愕し、いつしか彼は「姫若子」ではなく、畏怖を込めた「鬼若子」、あるいは「土佐の出来人」と呼ばれるようになるのです。

 この初陣から間もなく父・国親が病死。名声を勝ち取った元親は、盤石の信頼をもって家督を継承しました。


土佐統一への長く険しい道(15年間の死闘)

 当主となった元親の当面の目標は、まずは足元の「土佐一国の平定」でした。しかし、その道のりは決して容易なものではなく、実に15年の歳月を要することになります。

※参考:元親の四国統一過程における要所マップ。色塗エリアは土佐国。

宿敵・本山氏との決着

 最初の大きな壁は、祖父の代に城を奪った宿敵・本山氏でした。

  • 1560~62年:国沢城・大高坂城・秦泉寺城・久万城・高森城・神田城・石立城などを次々に攻略
  • 1563年: 朝倉城・吉良城を攻略。元親の弟・親貞が同城に配備され、吉良氏の名跡を継ぐ
  • 1564年:本山茂辰が病死。本山氏は本拠の本山城を捨てて瓜生野城に籠城
  • 1568年:本山氏を完全降伏させ、長年の因縁に終止符を打つ

 上記において、本山氏を降すまでに数年の空白期間がありますが、これは「一条氏への軍事支援」「安芸氏へ備えるための軍備強化」そして「土佐神社の再興」などの理由などがあげられます。

 また、本山氏との戦いの期間中、元親は美濃の斎藤利三の妹(または石谷氏の娘)を正室に迎えています。この縁が、のちに織田政権とのパイプとなるのです。


安芸氏を滅ぼす

 続いて元親は、一時和睦していた安芸氏との戦いを再開させます。

 永禄12年(1569)、東土佐の雄・安芸国虎(あき くにとら)の安芸城を包囲。国虎を自害に追い込むと、残る支城も次々と攻略して東土佐を版図に収めました。戦後には、弟の香宗我部親泰(こうそかべ ちかやす)を安芸城に配置しました。


恩人・一条氏との決別と「四万十川の戦い」

 最後に土佐統一の妨げとなっていたのは、かつて父を救ってくれた恩人・一条氏(当主は一条兼定)でした。

 両者は友好関係にありましたが、永禄12年(1569)11月に、長宗我部氏が一条氏の高岡郡蓮池城を攻め落としたために、関係は破綻。さらに天正2年〈1574)には、一条家中で内紛が勃発。家中で悪評を買っていた兼定が九州に追放されると、元親はこれを好機と捉え、土佐全域への支配を強めました。

 翌天正3年(1575)、復権をめざす一条兼定が九州の大友氏の支援を受けて土佐へ逆上陸。これを迎え撃ったのが「四万十川の戦い」です。

 長宗我部軍は一条勢を難なく撃破。兼定は伊予へ逃れ、ここに元親の「土佐統一」が完成しました。


四国統一の野望と「織田信長」との外交

 土佐を掌中に収めた元親は、すぐさま視線を四国全土へ向けます。天正3年(1575)の秋頃には、四国進出の端緒として三好氏の支配する阿波国の海部城を奪取。ここに弟の香宗我部親泰を守備させて阿波南部の軍代としました。


信長に急接近

 元親は土佐統一の後まもなく、織田信長に四国進出のことを伝えたといいます。

 当時の日本中央部では、信長が将軍・足利義昭を追放し、天下人に王手をかけていました。元親は賢明でした。四国を切り取るには、中央の覇者である信長との協調が不可欠だと見抜いたのです。

 ここで活きたのが、妻の縁でした。妻の実家(斎藤利三 or 石谷氏)が明智光秀の家臣であったことから、元親は光秀を介して信長と誼を通じたのです。のちに嫡男・弥三郎の元服に際して、信長から一字を賜り、「信親(のぶちか)」と名乗らせることに成功しています。

 また、時期は不明ですが、元親は「四国は切り取り次第(四国は自分の実力で奪った分は領土として認める)」と、信長の朱印状を与えられたといいます。信長という最強の後ろ盾を得た元親は、文字通り破竹の勢いで侵攻を開始します。

三国同時経略

 天正4~5年(1576~77)には、阿波国の要所・白地を攻略し、さらに伊予国への侵略も弟・吉良親貞を中心に展開していきます。さらに天正6年(1578)からは讃岐国へも進出したため、阿波・伊予・讃岐の三方面へ同時に兵を出すという、驚異的な作戦展開となりました。

  • 讃岐国:三好方の城を次々攻略すると同時に、天正7年(1579)には、二男の親和に香川信景の娘を娶わせ、婿養子に入れさせたことで、西讃岐の香川氏を従属下に置くことに成功。
  • 阿波国:三好方の岩倉城を奪取して大勝を収め、さらに三好氏の居城・勝瑞城をも一時的に占拠。
  • 伊予国:伊予方面の軍代となった久武親信が天正6年(1578)に南伊予へ出兵

 この時期、信長は毛利氏と敵対していましたが、元親は毛利氏とも密かに良好な関係を保つなど、極めて高度な外交バランス感覚を見せていました。

絶体絶命:本能寺の変という奇跡

 四国統一まであと一歩。しかし、ここで最大の危機が訪れます。それは信長の「心変わり」です。

 天正8年(1580)、本願寺の残党勢力や雑賀衆、淡路国の勢力が四国へ乱入し、三好氏の本拠・勝瑞城が奪い返されてしまい、これにより、讃岐国の国衆が動揺して長宗我部氏から離れる者もあらわれたといいます。

 なぜ本願寺の残党勢力らが三好氏に加担したのかははっきりしませんが、一説に信長が裏で糸を引いたとか…。実際、信長は「四国は切り取り次第」という元親との約束を反故にし、三好康長に阿波・讃岐の攻略を命じているのです。


 信長が心変わりしたのは、一説に何者かが「元親はいずれ天下統一の妨げになり、阿波・讃岐を支配したなら、淡路国にも手を出す」といった旨の讒言を信長にしたとか。これに乗せられて信長は元親に対し「土佐と阿波南半国のみの領有」を命じたようです。

 せっかく奪い取った領地の大半を返還せよという、あまりに理不尽な要求であり、元親には到底受け入れられない話です。

元親:四国は私の手柄で切り取ったのであり、信長様からの恩義ではありません。思ってもみないお言葉で驚きました。

 この拒絶が信長の逆鱗に触れました。天正10年(1582)、信長は三男・織田信孝を総大将として四国攻めを決定。まずは先鋒隊の三好康長が阿波国勝瑞城に入り、長宗我部方の諸城への攻撃が開始されます。

 あわてた元親は態度を軟化させ、5月21日には讃岐と阿波の領地返還を受け入れる姿勢を見せています。「時すでに遅し」でしたが、信孝を大将とする本隊が四国へ渡海する予定だった6月上旬。歴史を揺るがす大事件が起きました。「本能寺の変」です。
 
 信長が明智光秀の手によって討たれたことで、四国征伐軍は霧散。元親はまさに九死に一生を得たのです。


今度は秀吉と対立!

 信長死後、謀反人の光秀はまもなくして羽柴秀吉に討たれ、やがて織田家中は秀吉陣営と柴田勝家の陣営に分かれて対立するようになります。

 一方、難を逃れた元親は、しばらく兵を休めた後に再び軍事行動を起こし、勝瑞城を陥落させて阿波国をほぼ制圧(中富川の戦い)。

 このとき、秀吉は勝瑞城の救援に援軍を送りこんでおり、四国に対する考え方が信長と同じであることが浮き彫りとなりました。つまり、この時点で元親と秀吉は明確に敵対関係となったのです。


柴田勝家に味方し、秀吉に抵抗

 天正11年(1583)には秀吉と勝家の決戦「賤ヶ岳の戦い」が行なわれますが、それに先立って勝家陣営から元親に軍事面で協力するよう要請が届いています。当然、秀吉と敵対する元親は勝家に協力することになり、秀吉を牽制するために軍を動かしました。

 同年2月から三好の支城である讃岐国の石田城を攻めるなどし、4月21日には秀吉が派遣した仙石秀久の軍勢と讃岐大川郡引田で激突し、翌22日には仙石勢を敗走させています。


 また、同じ頃に阿波国でも弟の親泰に木津城を攻略させるなどしました。しかし、一方で同日に秀吉と勝家の戦いの決着がついており、勝家は本拠の越前国北ノ庄城へ敗走し、2日後には自害して果てます。

 こうして織田家の実権を完全に掌握した秀吉は、以後、仙石秀久らにたびたび長宗我部領を攻め込ませていきました。

 この年はまだ長宗我部と毛利氏の友好関係が続いていましたが、伊予国をめぐる長宗我部と河野氏の戦いに関しては、毛利氏は元親に和睦を求めていました。

 同年末、元親は秀吉に懇願していますが、拒否されたといいます。

元親:阿波・讃岐2か国を手放す代わりに伊予国を与えてほしい

秀吉:伊予は毛利輝元に渡す

徳川家康に味方し、秀吉に抵抗

 秀吉に突き放された元親は、秀吉に従う毛利氏もいつ敵対するのかと恐れていましたが、再びこの窮地を脱する機会が訪れます。それは信長二男・織田信雄の存在でした。

 信雄は織田の後継者を望んでおり、秀吉が織田家中を掌握していることに不満を抱いていました。秀吉にしてみても信雄は邪魔な存在でした。

 天正12年(1584)3月、秀吉が信雄の重臣・三家老を味方にしようと働きかけましたが、信雄は内通の疑いで三家老を殺害する事件が起きました。

 これがきっかけで秀吉は信雄討伐を決意。信雄もまた、かつて父・信長の盟友であった徳川家康に接近して味方につけたことで「小牧・長久手の戦い」が勃発することになります。

 さっそく元親のもとにも信雄から連絡が入り、秀吉を背後から牽制することや、毛利輝元を味方にするなどの要請を受けています。

 また、雑賀衆・根来衆も信雄・家康に味方することになり、元親にとっても秀吉の脅威を排除する絶好の機会となったのです。

 この戦役において、元親は四国以外にも淡路・摂津・播磨への出兵を要請されましたが、そこまでの余力はなく、四国統一戦を進めていきます。6月には讃岐の十河城を陥落させ、その後に虎丸城を包囲して讃岐国をほぼ制圧しています。

 残る伊予国では毛利氏が和睦仲介に絡んでいましたが、同年8~9月頃には長宗我部と毛利の関係が破綻。以後、元親は伊予への攻勢を強めていきます。しかし、戦いの結末は、信雄が秀吉に攻め込まれて単独で降伏したことで家康も秀吉討伐の大義名分を失い、終了してしまいます。

 前年の賤ヶ岳の戦いのときと同様、元親は再び秀吉の敵対勢力に加担したものの、秀吉を討ち倒すことはできなかったのです。

秀吉の四国征伐を前に屈する

 天正13年(1585)に入り、秀吉は信雄に味方した根来衆・雑賀衆、および長宗我部氏の討伐を計画します。

 元親は秀吉と粘り強く交渉し、土佐・伊予2か国の安堵と引き換えに嫡男・信親らを人質に差し出すなどの条件を提示し、一旦は秀吉も手を打とうとしたようです。しかし、伊予国は毛利氏が求めていたたため、結局は和睦交渉はまとまらず、秀吉の四国征伐が行なわれることになりました。

 なお、通説では同年の春頃に元親が四国統一を達成したといわれていますが、これは現在では否定的な見方となっています。というのも、阿波の土佐泊城や讃岐の虎丸城を陥落させたという記録がなく、伊予の河野氏も降伏していないとみられているからです。

 秀吉が四国攻めの準備をすすめ、元親も必死に和睦交渉をしている時期であった点を考えると、四国統一の戦いを進めていたというのは疑わしいでしょう。


 話を元に戻しますが、元親は和睦交渉と並行して同年5月には防御体制を整えていました。一方の秀吉は弟・羽柴秀長(=豊臣秀長)を総指揮官として伊予・讃岐・阿波の三方面からの攻撃を計画しており、6月下旬以降、順次軍勢を派遣してきました。

 秀吉はこの戦いにおいて無理に力攻めにせずに水攻めなどを行なっており、最初から長期戦を考えていたようです。多勢に無勢であり、長宗我部勢は徐々に支城を攻め取られていき、7月にはついに降伏。元親の四国制圧は当主となってから実に25年もかかったが、それが秀吉の手により、たった1カ月で崩れ落ちたのです。

長宗我部元親のイラスト

 翌8月には四国の所領配分(四国国分)が行なわれ、秀吉に降伏した長宗我部の所領は土佐一国のみとなり、阿波国は蜂須賀家政、伊予国は小早川隆景、讃岐国は仙石秀久の知行地とされました。

 その後、元親は秀吉に臣下の礼をとるため、10月に上洛して秀吉に謁見し、翌天正14年(1586)正月にも年賀の挨拶に秀吉のもとを訪れています。以後、長宗我部氏は豊臣大名として秀吉の命令に従うことになりますが、土佐国が木材の産地であったことにより、豊臣政権から主に建築用途での材木集めを命じられています。


嫡男信親の死後、四男の盛親を後継者に推す

 豊臣政権下ではじめての軍役は同年の秋頃より行なわれた九州征伐です。先鋒には元親や仙石秀久ら四国勢と、毛利氏などの中国勢が命じられました。

 豊後国で12月に起きた戸次川の戦いでは、四国勢の作戦失敗によって大敗。このとき嫡男の信親が討死するという悲劇にみまわれた元親は信親の後を追って自害しようとしますが、家臣に止められて退却したといいます。


 翌年(1587)には、島津氏が降伏。秀吉は気をつかったのか、信親討死の功として元親に大隅国を与えるとしますが、元親はこれを辞退したといいます。

晩年の元親

 九州平定後、土佐へ戻った元親は、検地など国内整備を進める一方、信親の死で発生した跡継ぎ問題では、二男や三男を差し置いて、四男の盛親を後継者に推したため、家中が大きな騒動に発展します。

 当然、重臣らに反対されるのですが、強引に盛親を後継者として定め、なんと、一門の吉良親実を粛清してしまうのです。


小田原征伐・朝鮮の役に従軍

 天正18年(1590)の小田原征伐のときは、長宗我部水軍を率いて参戦し、はじめに下田城を攻め、のちに北条氏の本拠・小田原城包囲にも参加したとされています。続く朝鮮出兵(文禄の役、1592~93)では、子の盛親とともに朝鮮に渡海しました。

 慶長元年(1596)にはサン=フェリペ号事件に対処し、秀吉によるキリスト教迫害の引き金を作ってしまいます。領内では検地を行い、慶長2年(1597)には盛親と共に分国法である『長宗我部元親百箇条』を制定しています。

 慶長3年(1598)、秀吉が死去すると豊臣家中では徳川家康が台頭し、これに前田利家や石田三成らが反発して政情が不安定になっていきました。元親は伏見屋敷に滞在していたらしく、その間に徳川家康の訪問を受けています。

 その後は土佐に帰国しますが、慶長4年(1599)3月に三男・津野親忠を幽閉しています。これは、何者からか、"親忠が四男盛親の家督相続を不満に思っている" との讒言(ざんげん)があったからだとされています。

 この幽閉直後より体調を崩し、4月に病気療養のために盛親とともに上洛して伏見屋敷に入りました。しかし、病状はやがて悪化して重篤となり、京都や大坂から名医が呼ばれるも快方には向かわなかったようです。

 死の直前、元親は盛親に対し、戦陣において布陣の変更を禁じることを命じました。「桑名弥次兵衛=先陣、久武内蔵助=中陣、宿毛甚左衛門=後陣」ということのようですが、これが盛親に残した遺言となり、波乱万丈の61年の生涯を閉じました。

おわりに

 長宗我部元親は、土佐の軍記物の多くには「慈悲深い人物」として描かれているそうですが、敵方の軍記物だと、「子供を串刺しにして楽しむ」など、残忍な人物として伝えられています。

 実際のところ、どうだったのかはわかりませんが、慈悲の心と残忍な心の両面を持ち合わせていたような気がします。嫡男信親の死後より、残酷なふるまいが多く見受けられるので、信親の死のショックが大きく影響しているのではないでしょうか。

【参考文献】
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  この記事を書いた人
戦国ヒストリーの編集部アカウントです。編集部でも記事の企画・執筆を行なっています。

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