「氏家卜全(直元)」実は美濃三人衆の中で最強?信長も恐縮し、美濃の三分の一を領した男
- 2026/01/30
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氏家卜全(直元)(うじいえ ぼくぜん / なおもと)は、戦国時代の美濃国(概ね現在の岐阜県南部)で「美濃三人衆」の一角として名を馳せた武将です。当初は土岐氏や斎藤氏といった美濃の大名に仕えていましたが、織田信長の攻勢が強まるとその軍門に降り、織田家の重臣として活躍しました。
彼の名は「直元」ですが、出家後に名乗った「卜全」のほうがよく知られています。本稿でもその名で統一し、彼の生涯を辿ります。
彼の名は「直元」ですが、出家後に名乗った「卜全」のほうがよく知られています。本稿でもその名で統一し、彼の生涯を辿ります。
斎藤家に仕え「美濃三人衆」の一角を担う
氏家卜全の生年は定かではありませんが、1500年代前半の生まれと推測され、父は氏家行隆、母は長井利隆の娘と伝えられます。美濃国で土岐氏や斎藤氏に仕えていた卜全ですが、特に斎藤氏の時代には重用されていたようで、6人の「奉公衆」の1人として内政に深く関与。大垣城を拠点に大きな影響力を保持し、やがて稲葉一鉄(良通)・安藤守就とともに「美濃三人衆」と並び称される有力者に成長します。
なお、卜全の本姓は「桑原」でしたが、主君・斎藤義龍が一色氏の姓を獲得した際、義龍は家臣にも名門の姓(一色氏がかつて従えていた家臣の姓)を名乗らせたことで「氏家」を称するようになりました。のちに他の家臣たちは旧姓へ戻すなか、卜全だけは氏家姓を使い続けた点に、彼自身の「氏家」の姓に対するこだわりが垣間見えます。
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やがて主君・斎藤義龍が急死し、子の龍興が当主の座につくと、その指導力不足からか、信長の攻勢に押され始めます。卜全をはじめとする家臣らは警戒を強めるように進言しますが、龍興は聞き入れませんでした。
こうした不満が爆発し、永禄7年(1564)には家臣の竹中重治(半兵衛)らを中心としたクーデター(斎藤氏の本拠・稲葉山城を占拠する事件)が勃発し、卜全もこの動きに同調しています。この騒動自体は城の返還で収束したものの、主従の信頼関係はすでに修復不可能な段階に達していたといえるでしょう。
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龍興を見限って信長に転じる
前述のクーデターでも分かるように、家臣らは龍興の資質に疑問を抱いていました。そこで、卜全ら美濃三人衆は、対立していた信長への接近を図ります。交渉は比較的順調にまとまり、永禄10年(1567)に三人衆が信長へ内応。これを機に信長は一気に美濃攻略を果たし、龍興は亡命を余儀なくされました。信長の家臣となった直元は、この頃に出家して「卜全」を名乗ったとされます。彼ら三人衆は基本的にセットで行動しており、信長の上洛にも同行するなど、外様ながら織田家の譜代である尾張衆と変わらぬ厚遇を受けることになります。
興味深いのは、イエズス会宣教師のルイス・フロイスが「卜全は美濃の三分の一を領有していた」と記している点です。これを文字通り受け取るのは慎重を期すべきですが、三人衆の中でも彼が突出した実力者であった可能性は高いです。実際、元亀元年(1570)の信長の窮地の際、信長が文面で卜全に対して非常に丁寧な謝辞を綴っていることからも、織田家中における卜全の重要性がうかがえます。
最期は武士らしく、殿軍を務めて討ち死
織田政権下で確固たる地位を築いた卜全でしたが、その最期は唐突に訪れます。元亀2年(1571)、信長による長島一向一揆討伐の際のことです。退却する織田軍の殿(しんがり)を任された柴田勝家が負傷したため、卜全が急遽その役割を引き継ぎました。しかし、一揆勢の激しい追撃を食い止める中で、奮戦虚しく討ち死にしてしまうのです。
享年は59歳と伝わりますが、これは『美濃国諸旧記』という後世の軍記物が出典のため、定かではありません。とはいえ、当時の状況や経歴を照らし合わせれば「概ね妥当な年齢」という指摘もあります。
氏家一族のその後は?
大黒柱を失った氏家家は、長男の直通(直重)が継承しました。彼もまた父譲りの才覚があったようで、三人衆の一角として引き続き、勢力を保ちます。『武家事紀』等によれば、直通は天正元年(1573)、朝倉氏に身を寄せていた旧主・龍興を討ち果たすという因縁の功績を挙げたといいます。天正8年(1580)に三人衆の安藤守就が追放された際も、直通は引き続き信長に重用されています。本能寺の変(1582)以降はすみやかに秀吉の軍門に下り、家名は存続したようです。
しかし、その後の運命は過酷でした。直通の跡を継いだ氏家行広が関ケ原の戦い(1600)で西軍に与したため、戦後に改易されて一家は離散。浪人となった行広は大坂の陣(1614~15)で豊臣方に加わるも、敗戦により自害しました。
こうして氏家一族は歴史の表舞台から姿を消すこととなったのです。




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