「安藤守就」野心が災いの元。最期は追放・討死という憂き目に…
- 2019/07/03
安藤(安東)守就(あんどう もりなり)という武将は、「西美濃三人衆」の一員として美濃斎藤氏を支えた重臣の一人です。国内でも深く信頼されていたようで、道三から義龍に代が変わってもなお重要な役割を担いました。
しかしながら、守就は三代目にあたる龍興を信頼しておらず、最終的には彼を見限って織田家の軍門に下ることになるのです。この記事では、そんな守就の生涯を史料や文献をもとに解説していきます。
西美濃三人衆の一角として厚い信頼を受ける
守就は、生年こそ定かではないものの斎藤氏に仕える安藤の家系に生まれました。父は安藤守利ないしは定重、母は岩手重久という人物の娘と伝わっていますが、系図によって父母が異なるためハッキリしたところは分かっていません。美濃国北方の城を居城にしたとされる守就は、斎藤氏の重臣として厚遇されていたようです。そのため、彼は氏家卜全・稲葉良通(一鉄)とともに「西美濃三人衆」として列せられ、道三とその息子義龍の代になっても斎藤家に仕え続けていました。
また、守就の名は対外的にも知られていたようで、天文23年(1554年)には道三の命令で信長の援軍として彼のもとへと派遣されています。ここからも分かるように、彼は信長との内応以前から面識をもっていたのです。
こうして斎藤家では盤石の地位を築いていた守就。しかし、義龍の急死によって跡を継いだ龍興の代になると、これまで対等に渡り合っていた信長の勢力に押されはじめます。
これは若年の龍興に指導力が不足していたためと考えられており、守就をはじめとする家臣らはしだいに主君への苛立ちを募らせていきました。
龍興を見限り、信長のもとへ
永禄5年(1562年)ごろの美濃は、信長による侵攻もなく平和な状態にあったようです。しかしながら、それは信長が国内統治を完了させて美濃に侵攻するまでの準備期間だったことは明らかでした。にもかかわらず「平和ボケ」している龍興に家臣らは怒りを募らせていったのかもしれません。実際、家臣の竹中重治(半兵衛)や守就らが龍興に「政治の在り方を正すべき」と諫言を行なっています。ところが、龍興はこれを全く聞き入れなかったため、彼らは言葉ではなく武力で打って出ることを決断しました。
永禄7年(1564年)、重治が主導して家臣らが稲葉山城の乗っ取りを実行。守就もそれに加担しました。この出来事は龍興にとって予想外のものだったようで、彼を含めた家中が大混乱に陥っている様子が史料から確認できます。
この占領については半年以上の期間におよぶものとなりましたが、守就は事の重大さを受けて出家し、無用斎という名を名乗りました。これ以降、彼は数年間史料から姿を消すことになります。
彼が歴史に現れない間、信長は美濃への攻勢を一気に強めました。これにより斎藤氏の旗色は明らかに悪くなり、西美濃三人衆は信長へ内応の準備を着々と進めていたものと思われます。そして永禄10年(1567年)に彼らは信長への内応を決断。これを踏まえて信長は美濃攻めを敢行し、敗れた龍興は美濃を追われました。
信長に貢献するも、突如追放される
信長の軍門に下って以降、守就は「美濃三人衆」として様々な戦に参戦します。永禄11年(1568年)の信長上洛に伴って京へ向かって以降、同12年(1569年)の伊勢大河内城攻め、元亀元年(1570年)の江北攻め・姉川の戦い、叡山包囲陣などで奮闘し、三人衆は佐久間や柴田といった重臣に相当する地位を確立しています。
元亀2年(1571年)の長島攻めに際しては、同じ三人衆である氏家卜全が退却戦で討ち死にし、守就も負傷するほどの激戦を経験しました。こうした奮戦は信長にも評価され、これ以降も「三人衆」という単位で各地を転戦しています。
しかし、天正8年(1580年)8月、信長は重臣に列せられていた佐久間親子を追放すると、林秀貞・丹羽氏勝とともに守就およびその息子尚就も家を追放されました。
突然の追放に際して、『当代記』では天正元年(1570年)ごろに守就が武田氏と内通していたことを原因としています。ただし、8年も前の内応を今さらになって理由とするのは「言いがかり」的な側面もあるとの指摘もあります。
実際のところ、信長の逆鱗に触れた、あるいは力をつけていく守就のことを警戒した、というような面が本質のようにも感じますね。
かつての仲間に討たれた最期
こうして家を追われた守就はしばらく潜伏していましたが、天正10年(1582年)に本能寺の変勃発に伴い、旧領回復を目指して挙兵しました。しかしながら、彼は他でもない三人衆の一鉄に攻められ討ち死にしてしまいます。『稲葉家譜』によれば享年は80歳で、かなりの高齢であったのは確かです。なお、この攻撃は秀吉の命令によるのもではなく、邪魔者になる恐れがあった安藤氏を滅ぼしたかった稲葉氏単独の判断によるものです。「三人衆」といえども、当人たちは一枚岩でなかったことを示しています。
【主な参考文献】
- 横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興』(戎光祥出版、2015年)
- 和田裕弘『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』中央公論新社、2017年
- 谷口克広『織田信長家臣人名大辞典』吉川弘文館、2010年
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