安藤守就の栄光と没落 信長の功労者がなぜ追放?非情なリストラと衝撃の悲惨な末路
- 2026/02/05
- ※本記事は一部にプロモーションを含みます
戦国という時代は、昨日までの主君を追い落とし、今日からの勝者に膝を屈する「下剋上」が常態化した世界でした。しかし、その荒波を巧みに泳ぎ切ったかに見えて、最後の一歩で足元をすくわれる者も少なくありません。
今回スポットを当てるのは、美濃国(現在の岐阜県)で「西美濃三人衆」の一角として名を馳せ、美濃斎藤氏を支えた安藤(安東)守就(あんどう もりなり)です。彼は斎藤道三・義龍・龍興の三代に仕え、最終的には三代目龍興を見限って織田信長の軍門に下り、信長の美濃制圧を決定づける「鍵」となった人物でした。
輝かしい功績を重ね、信長政権の重臣にまで上り詰めた彼が、なぜ突如として奈落の底へ突き落とされたのか。その生涯を辿ると、組織における「自律心」と、主君が抱く「猜疑心」の危ういバランスが見えてきます。この記事では、そんな守就の生涯を史料や文献をもとに解説していきます。
今回スポットを当てるのは、美濃国(現在の岐阜県)で「西美濃三人衆」の一角として名を馳せ、美濃斎藤氏を支えた安藤(安東)守就(あんどう もりなり)です。彼は斎藤道三・義龍・龍興の三代に仕え、最終的には三代目龍興を見限って織田信長の軍門に下り、信長の美濃制圧を決定づける「鍵」となった人物でした。
輝かしい功績を重ね、信長政権の重臣にまで上り詰めた彼が、なぜ突如として奈落の底へ突き落とされたのか。その生涯を辿ると、組織における「自律心」と、主君が抱く「猜疑心」の危ういバランスが見えてきます。この記事では、そんな守就の生涯を史料や文献をもとに解説していきます。
西美濃三人衆の一角
守就は、生年こそ定かではないものの斎藤氏に仕える安藤の家系に生まれました。安藤守就は斎藤氏に仕える安藤の家系に誕生しました。生年は定かではありませんが、一説には永正元年(1503)頃といわれています。父は安藤守利ないしは定重、母は岩手重久という人物の娘と伝わっていますが、系図によって父母が異なるため正確なところはわかりません。
彼が歴史の表舞台で際立った存在感を示すようになるのは、戦国下剋上の代名詞・斎藤道三の時代です。美濃国北方の城を居城にしたとされる守就は、斎藤氏の重臣として厚遇されていたようで、氏家卜全・稲葉良通(一鉄)とともに「西美濃三人衆」と並び称されました。
道三からその子・義龍へと代替わりしても、守就の地位は揺るぎませんでした。それどころか、守就の娘は「今孔明」と称される天才軍師・竹中半兵衛(重治)に嫁いでおり、身内にも強力な人脈を築いていました。
また、守就は意外なことに、道三時代から織田信長という男を間近で見ていました。天文23年(1554)、道三の命令で信長の援軍として派遣された記録があるのです。
この時、守就の目に若き日の信長はどう映っていたのでしょうか?「織田家、利用するに足る」という計算が、この頃から芽生えていたのかもしれません。
龍興を見限り、信長のもとへ
斎藤家で盤石の地位を築いていた守就。しかし永禄4年(1561)の義龍の急死後、三代目となった斎藤龍興の代になると、安藤守就の運命は大きく転換します。龍興は若く、経験不足であったことに加え、一部の側近のみを重用したため、守就ら宿老との間に深い溝が生まれました。当時は信長による美濃侵攻が激化していた時期。国家存亡の危機にあるにもかかわらず、緊張感を欠く龍興に対し、守就をはじめとする家臣たちは怒りを募らせていったのかもしれません。実際、家臣の竹中重治(半兵衛)や守就らは、龍興に「政治の在り方を正すべき」と諫言を行なっていますが、龍興はこれを全く聞き入れなかったといいます。
「このままでは美濃が沈む…」
そう確信した守就らは、驚天動地の行動に出ます。永禄7年(1564)、娘婿の竹中半兵衛が主導となって、わずか16名(諸説あり)で主君の居城・稲葉山城を占拠したのです。この出来事は龍興にとって予想外のものだったようで、彼を含めた家中が大混乱に陥っている様子が史料からも確認できます。
占領は半年以上の期間におよぶものとなりましたが、守就は事の重大さを受けて出家し、「無用斎」という名を名乗りました。これ以降、彼は数年間は史料から姿を消しています。その間にも信長は美濃への攻勢を一気に強め、斎藤氏の旗色は明らかに悪くなっていきました。守就ら西美濃三人衆の心はすでに信長に傾き、信長へ内応の準備を着々と進めていたものと思われます。
そして永禄10年(1567)、ついに彼らは信長への内応を決断。これを機に信長は一気に稲葉山城を陥落させ、美濃をその手中に収めると、一方で敗れた龍興は美濃を追われることになりました。
守就の「見限り」が、戦国史を大きく動かしたのです。
あわせて読みたい
信長に貢献するも、突如追放される
織田家へ転じた後の守就は「美濃三人衆」として様々な戦に参戦します。永禄11年(1568)の信長上洛に同行したのを皮切りに、同12年(1569)の伊勢大河内城攻め、元亀元年(1570)の江北攻め・姉川の戦い、比叡山包囲などで奮闘。信長が天下布武を掲げて突き進む主要な戦場には常に彼らの姿がありました。
特に元亀2年(1571)の長島攻めでは、同じ三人衆の氏家卜全が退却戦で討ち死にし、守就も負傷するほどの激戦を経験しました。こうした献身的な動きは信長に評価され、佐久間信盛や柴田勝家といった織田生え抜きの重臣たちと肩を並べるほどの地位を得るようになります。
しかし、絶頂期は唐突に終わります。天正8年(1580)8月、信長は突如として重臣の佐久間親子を追放すると、林秀貞・丹羽氏勝とともに、守就と息子の安藤尚就も追放を言い渡されるのです。
追放理由として、『当代記』によれば、天正元年ごろに守就が武田氏と内通していたことを原因としています。ただし、随分と過去の内応を今さらになって理由とするのは「言いがかり」的な側面もあるとの指摘もあります。
現代の感覚で言えば、時効も同然の過去を持ち出されたことになります。実際のところ、信長の逆鱗に触れた、あるいは力をつけていく守就を警戒して疎ましく思ったのが本質のようにも感じますね。
まさかの悲しき最期
地位も名誉も、そして心血を注いだ領土も奪われた守就。しばらく潜伏していましたが、彼の心に宿った「野心」の火は消えていませんでした。天正10年(1582)、本能寺の変によって信長がこの世を去ると、守就はこれを「天命」と捉えます。彼は旧領回復を目指し、かつての栄光を取り戻すべく挙兵。ところが、その前に立ち塞がったのは、かつて「西美濃三人衆」として生死を共にした旧友・稲葉一鉄でした。
あわせて読みたい
一鉄は、秀吉ら中央の権力の動向を敏感に察知し、旧体制の復活を目論む守就を「新時代の邪魔者」として断罪、攻撃することを決めます。そして守就は最期、一鉄の軍勢の攻撃を受けて、懸命の抗戦も虚しく、ついに討ち死にを遂げるのです。
『稲葉家譜』によれば享年は80歳。当時としては驚異的な長寿でしたが、その幕切れはあまりに寂しいものでした。
この軍事行動は、実は秀吉の命令ではなく、稲葉一鉄の独断でした。かつては一枚岩だった「美濃三人衆」でも、乱世の終わりが見えてきた時に、一鉄は未来の保身を選んだ、ということでしょうか。




コメント欄