朝倉景鏡は「獅子身中の虫」か? 裏切りによる生存戦略と、因果応報の最期
- 2026/04/07
- ※本記事は一部にプロモーションを含みます
「獅子身中の虫」という言葉がある。『広辞苑』によると「内部にいて恩恵を受けながら、害をなすもののたとえ」と記されている。この言葉を聞くと、私はどうしても朝倉景鏡(あさくら かげあきら)のことを思い出してしまう。
もっとも、この場合は「獅子」である主君・朝倉義景の方にも大いに問題があったので、「虫」としての景鏡の評判は最悪という訳でもない。私はどちらかというと「獅子」がふがいないので「虫」が大いに繁殖したという側面が大きいと考えている。
さて、名門・朝倉氏の内側では、どんな「虫」が巣食っていたのであろうか。史料の語りに耳を傾けてみよう。
もっとも、この場合は「獅子」である主君・朝倉義景の方にも大いに問題があったので、「虫」としての景鏡の評判は最悪という訳でもない。私はどちらかというと「獅子」がふがいないので「虫」が大いに繁殖したという側面が大きいと考えている。
さて、名門・朝倉氏の内側では、どんな「虫」が巣食っていたのであろうか。史料の語りに耳を傾けてみよう。
※朝倉義景の全体像を知る→「朝倉義景」総合解説ページへ
朝倉景鏡は義景の従兄弟
朝倉景鏡は大永5年(1525)、朝倉景高の子として生まれたという。景高は朝倉義景の父・孝景の弟にあたるため、景鏡は朝倉義景の従兄弟ということになる。もっとも、これには諸説ある。中には南近江の六角氏からの養子ではないかという異説も存在する。なにせ、義景の幼少期は不明な点が多く、守役の名すらわかっていない。六角氏からの養子説もそのミステリアスな背景ゆえに説得力を持つが、今のところ確証は得られていないため、本稿では通説通り「従兄弟同士」として進めていこう。
権謀術数と織田信長との戦い
景鏡は一門衆として、朝倉家中で発言力を強めていったものと思われる。当時の式典の席次を確認すると、かなり上座のほうに位置していることがわかる。また、軍事面でも重用され、戦を好まない当主義景に代わり、総大将として出陣することも度々であった。しかし、景鏡は戦だけではなく、権謀術数に長けたところもあったようだ。『朝倉始末記』には永禄10年(1567)3月、朝倉方の堀江景忠が加賀の一向一揆とともに反乱を企てるも、上手くいかずに能登へ逃れた事件は、景鏡の讒言による陰謀だったと記されている。その後の景鏡の足跡を辿ると、常に虎視眈々と次の一手を狙う、食えない人物像が浮き彫りになる。
もっとも、この讒言説には異論もある。謀反の予兆以前に一向一揆の攻撃が始まっていることや、後に本願寺の顕如から景忠へ感状が送られている点を見れば、景鏡の陥れではなく事実だった可能性も高い。
その真偽はともかく、景鏡は表向きは忠臣として、元亀元年(1570)の「志賀の陣」までは総大将の責務を全うしている。しかし元亀3年(1572)前後、武田信玄と連携して信長を包囲しようとした際、羽柴秀吉に敗退し、信玄から厳しく叱責されるなどの失態が続き、彼の忠誠心は大きく変わったようなのだ。
事実上の裏切り
天正元年(1573)8月、信長が浅井氏の本拠・小谷城を攻撃する。盟友であった朝倉義景は救援を決断し、自らを総大将とした援軍を送ろうとするが、ここで景鏡は出陣を拒否。「度々の出兵に疲弊した」というのが理由だが、実のところはどうか。この時点で、景鏡は義景を完全に見限っていた可能性はないだろうか。結局、義景は単独で北近江へ向かうが、織田軍に大敗し、浅井氏も滅亡してしまう。勢いに乗った信長はこの好機を逃さず、越前への侵攻を開始したのである。
このとき、景鏡は義景に「一乗谷から撤退し、大野郡で軍勢を整える」旨を進言したという。だが、大野郡は景鏡の本拠地である。もはや信長に抗う術を失った義景が、景鏡の膝元に飛び込むことがどれほど危険か、義景は考えなかったのだろうか。
案の定、義景が宿所とした賢松寺を、翌朝に景鏡率いる200騎の軍勢が包囲した。景鏡は義景を自害に追い込み、その首と捕らえた妻子を信長へ献上。自身はちゃっかりと降伏を許されたのである。
やはり景鏡は事前にこのシナリオを描いていたのではなかろうか。奉行職の前波吉継や猛将・冨田長繁といった重臣たちが次々と織田方へ寝返ったのを見て、朝倉家は遠からず滅びると踏んでいたのだろう。
因果応報
本領を安堵された景鏡は、信長から一字を賜り、「土橋信鏡」と名乗ったとされる。朝倉家滅亡以前の生活を維持できたことに、景鏡はほっと胸を撫で下ろしていたのかもしれない。しかし、事態は皮肉な展開を見せる。かつての格下であった桂田長俊(前波吉継)が越前守護代に、富田長繁が府中領主に任じられ、自分を追い越す形で越前に舞い戻ってきたのだ。
景鏡のの胸中はいかなるものだったのだろうか。その後、景鏡は表向きは静観していたが、水面下では越前守護の座を狙い、立ち回っていた可能性も捨てきれない。
だが、その平穏も長くは続かなかった。天正2年(1574)、長俊に不満を募らせた富田長繁が「土一揆」を扇動して挙兵。長俊の一族をことごとく殺害してしまったのである。これには景鏡が両者の不仲ぶりを知っていたとは言え、想定外の事態であったろう。
この反乱は、さらなる混沌を招いた。そもそも信長配下となった富田長繁が一揆を煽動した訳だから、一揆勢は信長方と敵対していたわけではない。しかし、一揆勢は越前内にいる信長方の武将まで攻撃し始めたのだ。それはこの一揆が「一向一揆」に発展してしまったからである。
当時、信長と石山合戦で激突していた一向宗にとって、信長に降った景鏡は格好の標的であった。一向一揆勢に襲われた景鏡は、朝倉氏と近しい関係にあった平泉寺に逃げ込んだ。僧兵とともに一向一揆勢と交戦するも、多勢に無勢。景鏡は壮絶な奮戦の末に討ち死にした。
『朝倉始末記』によれば、わずか3騎での突撃の末の最期だったという。主君を裏切り、生き残りを図った男としては、あまりに皮肉な「因果応報」の幕切れであった。
あとがき
『朝倉始末記』では、景鏡は陰湿な人物であるように描かれているが、私はそうは思っていない。そもそも、彼は最初から裏切りを画策していたわけではなく、ある時期までは真摯に義景を支えようとしていたのではないか。そう仮定すれば、景鏡は最初から「獅子身中の虫」だったわけではないことになる。それに義景は決して暗愚な大名ではない。大陸貿易による収益向上や、ガラス工芸などの新たな産業の開発にも着手するなど、内政面で名君の片鱗を見せてはいる。さらに土岐治英への書状によると、武田氏に仕えた日向宗立から武田流戦術の秘伝を学んだというから、新戦術を貪欲に取り入れようとする姿勢を持っていたということになる。
景鏡もその実力は認めていたはずだ。風向きが変わったのは、義景が愛妾や息子の相次ぐ死以降、軍事・政治に精彩を欠くようになっていった頃からだろう。特に景鏡が不満だったのは軍事に関することと思われる。これに対処すべく、景鏡は次第に自分の領土と自分の身を守ることを主に考えるようになっていった、というのが私の見立てである。
主君と同じく寺に追い詰められ、死を覚悟した瞬間、景鏡の脳裏をよぎったのは、裏切りの後悔か、それとも名門・朝倉を支えきれなかった無念だったのだろうか。
※朝倉義景の全体像を知る→「朝倉義景」総合解説ページへ

コメント欄