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 2019/10/03

「朝倉義景」越前朝倉氏には織田信長を倒すチャンスはあったのか?

朝倉義景の肖像画(心月寺所蔵)

名門である越前朝倉氏の最期の当主は、11代目の「朝倉義景」です。浅井長政と手を結び、織田信長を追い詰めた戦国大名として知られていますが、その最期は実にあっけないものでした。

今回は義景の生涯についてお伝えしていきます。はたして義景には信長を倒すチャンスがあったのでしょうか?
(文=ろひもと理穂)

義景出自の謎

16歳で家督を継ぎ、11代目当主となる

義景の幼少期に関する記録がほとんど残されていないことから、その出自は謎の部分が多いです。他国から養子を迎えたという説もあるほどです。一般的には10代目当主である朝倉孝景の晩年に生まれた子で、母親は若狭守護武田氏の娘と伝わっています。

天文2(1533)年に生まれ、天文17(1548)年に孝景が病没したために16歳で家督を継ぎました。当時の名前は、朝倉孫次郎延景です。

義景が若いということもあり、政務や軍事面は同族の朝倉宗滴(教景)が担っていました。宗滴は戦上手として知られており、知略にも長けていたことから朝倉氏の越前国支配は安泰でした。

天文21(1552)年には、宗滴は長らく音信が途絶えていた長尾景虎(上杉謙信)とも外交を行い、加賀国や越中国での一向一揆の対策のために手を結んでいます。

越前朝倉氏の当主の中でもっとも出世した義景

義景は歴代の越前朝倉氏当主の中でもっとも出世しています。

背景には、父親の孝景が幕府の要請によく応えて近隣の反乱などを鎮圧し、供衆、相供衆と幕府に重用されていたことがあげられます。また、義景が管領・細川晴元の娘を正室に迎えたことも強力な後押しになっています。

天文21(1552)年、義景は室町幕府将軍である足利義輝(当時は義藤)より偏諱を賜り、これまでの延景から義景に改名しました。さらにこのとき、左衛門督の官位を授かっています。

越前朝倉氏の当主は代々、三等官の孫右衛門尉か弾正左衛門尉でしたから、ここでかつての主家であった斯波氏を抜き、一等官まで出世したのです。

この頃にはもはや旧勢力の守護・斯波氏や守護代・甲斐氏の残党も追放されており、越前国は完全に越前朝倉氏の支配下にありました。

他国との争い

加賀国の一向一揆との戦い

そんな越前朝倉氏の前に立ち塞がったのは加賀国の一向一揆です。

弘治元(1555)年7月には宗滴を総大将にして加賀国へ侵攻。南郷、津葉、千足の3城を1日で攻略しています。ただし長期戦になったことと、総大将の宗滴が病に倒れ、そのまま一乗谷で没してしまったことで互角の戦いが続きました。総大将を継いだ朝倉景隆も善戦しますが、決着はつかず、翌年4月には幕府の調停によって和議が結ばれています。

金沢城跡
かつては加賀一向一揆の拠点「尾山御坊」だったという金沢城跡

永禄7(1564)年9月にも朝倉景鏡と朝倉景隆が両大将を務めて加賀国に侵攻していますが、両者が仲違いし、同族で切腹する者も現れてしまいます。ここでは義景自らが出陣し、本折、小松、御幸塚と立て続けに攻略しました。

これは、カリスマ性のあった宗滴が亡くなった後、越前朝倉氏の結束が乱れていったことを示した事件です。

若狭国への介入

永禄4(1561)年には、若狭国守護である武田義統と、その家臣らによる武力衝突が起こりました。義景は朝倉景紀を若狭国に派遣し、守護方を援護しています。逸見氏の城を攻略するなど一定の成果を出していますが、ここから武田氏の求心力は低下し続け、家臣らが丹波国の松永氏と通じて独立状態を築いていきます。

永禄6(1563)年には若狭国三方郡佐柿の栗屋勝久の居城である国吉城を攻めました。しかし若狭国の混乱を鎮めることは難しく、永禄11(1568)年8月には、守護を継いだ武田元明を一乗谷に保護し、勝久や熊谷大膳らを手なずけようと試みるも断られています。

最終的には越前朝倉氏に従おうとしない国衆は、こぞって信長に味方することとなり、逆に越前国制圧のための拠点にされてしまうのです。

足利 義昭との関わり

義昭を一乗谷に迎える

義景が若狭国への介入など他国と戦っている間に、中央では一大事件が起こっていました。永禄8(1565)年、将軍権威の回復を目指す13代将軍義輝が、中央で実権を握っていた三好三人衆らに殺害されたのです。(永禄の変

そんな中、奈良の興福寺にいた弟の一条院覚慶(のちの将軍・足利義昭)だけが危機を回避しました。室町幕府を献身的に支えてきた越前朝倉氏としては、この事態を見過ごすわけにはいかず、義昭の脱出を手伝います。

足利義昭の肖像画(東京大学史料編纂所蔵)
義景や信長らの支援を受け、のちに15代将軍となる足利義昭

義昭はその後、近江国の和田や矢島、そして若狭国、越前国敦賀へと逃避行を続けていき、永禄10(1567)年12月に一乗谷に入って、ようやく安養寺に居住して落ち着きました。

永禄の変で京都を脱出し、上洛まで拠点を転々とする足利義昭の足取り。※ラベルの数字は移動順序

幕府の再興をめざす義昭は、諸国の大名に書状を送り、上洛の軍を動かしてくれるように協力要請しますが、首を縦に振ってくれる者が現れません。頼みの上杉謙信も武田氏や北条氏と対立している最中で軍勢を動かすことができませんでした。

おそらく義景も上洛の手伝いを直接お願いされたでしょうが、京都を支配する三好氏や松永氏に勝てるほどの軍事力はなかったのです。宗滴ほど合戦に優れた人材もいませんでした。

義昭は一向一揆と越前朝倉氏との和睦を成立させ、国境の城(大聖寺や檜の屋など)を破却させることに成功しましたが、それだけでは義景は動けませんでした。

信長を頼る義昭

義景がなかなか上洛の決断をしない間に、尾張国の織田信長は着々と勢力を拡大していました。混沌としていた尾張国を統一し、隣国の英雄・今川義元を討ち、さらに美濃国を制圧したのです。

永禄11(1568)年7月、元服して義秋から義昭に改名したばかりの義昭は、信長が上洛に協力すると聞き、一乗谷から信長の拠点となった岐阜(立政寺)に移ることを決心します。義景は見限られたということです。

このときの義景の心情はどのようなものがあったのでしょうか。ここまで尽くした義昭に裏切られ、義昭と信長に対して憎しみを持ったかもしれません。この年には義景は嫡男と側室を病によって失っており、弱り目に祟り目ということでさらに落胆したとも考えられます。

ただし、『越州軍記』によると、公方様の当国出御なさることめでたきと記されていますので、厄介払いができてほっとしていた可能性もあります。三好氏、松永氏、六角氏などの勢力を破って上洛を果たすことなど信長ごときには無理だという判断もあったでしょう。あきらめてまた一乗谷に義昭は帰ってくるだろうという憶測だったのではないでしょうか。

信長を高く評価していたという宗滴が生きていたのなら、この判断がいかに危険なものなのか見抜いていたことでしょう。しかし、その器量のある人材は越前国にはいなかったのです。

信長との激戦

信長の上洛命令を無視し、対立関係に

義景は信長の上洛は困難だと考えていたでしょうが、信長は電光石火の勢いで六角氏を撃破し、三好氏や松永氏の勢力を追い払って上洛を成功させ、そのおかげで義昭は10月には征夷大将軍に任じられました。

室町幕府と朝廷の両方の信頼を得た信長は、義景に上洛を命じてきます。一乗谷ではすぐに同名衆による会議が開かれましたが、上洛すれば信長に他国を攻める手先としていいように使われ、消耗していくことは目に見えていました。義景は上洛の命令を無視します。

すると元亀元(1570)年4月、信長は3万の兵と逆賊討伐の大義名分を持って越前国に攻め寄せました。朝倉景恒の金ケ崎城が落とされ、さらに一乗谷目前まで迫るという窮地に立たされますが、ここで戦局が一転します。北近江国の浅井長政が信長を裏切り、その背後を襲いかかったのです。

ここで義景が即座に信長を全軍で追撃していれば信長を倒せたかもしれません。しかし、実際は信長退却の10日後になって景鏡の軍勢2万を北近江に向かわせ、何の成果もあげぬまま引き返しています。遅すぎる行動でした。

ちなみにこのときの信長は浅井領の近江朽木を経由し、命からがら京都へ戻ったといいます。

金ヶ崎城は越前国敦賀郡金ヶ崎(現在の福井県敦賀市)。色が濃い部分は越前国

続いて6月には態勢を整えた信長が浅井長政の報復のため、徳川家康の軍勢とともに小谷城を攻めます。このとき義景は援軍として一族の朝倉景健を大将とする軍を派遣しています。いわゆる姉川の戦いですが、越前朝倉氏ではこの合戦を「三田村合戦」と伝えています。

結果は朝倉・浅井連合軍の大敗。横山城と佐和山城を押さえられ、浅井氏の本拠・小谷城は完全に包囲された状態となってしまいます。

姉川古戦場跡
姉川古戦場跡(滋賀県長浜市)

義景はなぜ信長との和睦に応じたのか

それでも義景にはまだ信長に勝つチャンスはありました。それはこの後まもなく本願寺が打倒信長を掲げて挙兵したからです。

9月、その隙を突いて朝倉・浅井連合軍は南下して近江坂本に出陣し、宇佐山城を守備する織田勢と激突。ここで信長の弟である織田信治や重臣・森可成を討ち取るという成果をあげています。

これに慌てた信長が摂津の陣を引き払ってすぐさま帰洛し、向かってきますが、義景らは比叡山に陣取って、信長軍と対峙する作戦にでるのです。

このときの信長は四方を敵に囲まれて絶体絶命の危機でした。ここで反信長勢力が一斉に攻撃していれば織田勢は致命的な損害を受けていたでしょう。しかし、このチャンスにおいて義景は和睦をしてしまいます。

これは将軍である義昭が調停役として登場したことや、冬が近づいていたことで補給が困難になることが予想されたため、と考えられています。

この和睦が信長勢力を再生させ、翌年には比叡山延暦寺が信長によって焼き討ちされてしまいました。義景はここでも重大な判断ミスを犯してしまっています。

越前朝倉氏、滅ぶ

信長と反信長勢力の戦いも佳境に入ります。

元亀3(1572)年10月に 強国である甲斐国の武田信玄が反信長の姿勢を明確にし、織田・徳川領へ怒涛の侵攻。翌元亀4(1573)年には信長と不和状態にあった足利義昭もついに反旗を翻します。

にもかかわらず、朝倉勢の動きはとても鈍くなっていました。同名衆の筆頭である景鏡や、有力家臣の魚住景固らが度重なる出陣に疲れ、休みを希望する事態になっていました。義景の統率力はそこまで低下していたということです。

そして同年4月に信玄が病没したことで、信長は態勢を立て直して巻き返しを図ります。7月には再び抵抗の意思を示した足利義昭を追放。8月には浅井家臣の阿閉貞征が内応した知らせを受けて急遽、浅井討伐のために北近江に出陣するのです。

ここに至ってついに義景自身が家中の反対を押し切って出陣するのですが、地蔵山に布陣したものの、信長が激しい雨の中を大築城と丁野城を攻略したために退却します。

ただ、この退却は信長に完全に見透かされていたようです。信長軍の追撃を受けて刀根坂(現福井県敦賀市)の地で激戦となるも、朝倉軍はまともに統制もとれずにほぼ壊滅状態に。

かろうじて本拠の一乗谷に帰還した義景は、追撃から逃れるべく大野に移るものの、最期は一門衆の景鏡に裏切られて自害しました。その首は京都で獄門に晒され、はくだみにされたと伝わっています。

まとめ

義景には信長に勝つチャンスが何度かありました。しかし判断の甘さからそのチャンスをすべて失ったのです。優れた力を持つ家臣に恵まれていなかった点は不運だったかもしれませんが、義景自身がもっと陣頭に立って指揮をしていれば充分に勝機はあったでしょう。

こうして下克上によって越前国国主まで登り詰めた越前朝倉氏は、下克上によって勢力を拡大してきた信長によって滅亡したのです。


【参考文献】
  • 水藤真『朝倉義景(人物叢書)』(吉川弘文館、1986年)
  • 松原信之『朝倉義景のすべて』(新人物往来社、2003年)



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