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  • 明智光秀
 2019/03/05

「斎藤利三」光秀の家老。本能寺の変の動機にも絡むキーパーソン

太平記英勇伝五十四:齋藤内蔵助利三(落合芳幾作)

明智光秀の家老のひとりに、斎藤利三がいます。山崎の戦いでは先鋒をつとめたとされる武将。光秀が信頼した重臣であり、本能寺の変前夜に謀反の計画を打ち明けたうちのひとりでもありました。

また、利三は長宗我部元親ともちょっとした親戚関係にあり……。長宗我部との関係は本能寺の変の動機にも関わる問題であり、そこに一枚噛んでいる利三は本能寺のキーパーソンともいえそうです。
(文=東 滋実)

斎藤利三の出自

美濃斎藤氏の出身

斎藤利三(さいとうとしみつ)は、斎藤道三に仕えた武将・斎藤利賢(さいとうとしかた)の次男として天文3年(1534年)に生まれました。斎藤道三に仕えたといっても、親戚だったわけではないようです。身分が低い生まれだったという道三とは系統が異なり、利三の家系は美濃斎藤氏の一族だったとか。美濃斎藤氏は、美濃守護であった土岐氏に仕えた一族でした。

後に主君となる明智光秀は土岐氏の庶流の生まれであるとされていますが、もともとつながりのある家系であったらしいことがわかります。

光秀とは親戚?

氏族間のつながりよりももっと近いところに関係があったかもしれません。一説によれば、利三の母は光秀の妹であったとか。伯父と甥の関係になります。

利三の父・利賢の妻は蜷川親順女とされていますが、後妻に明智光継(あけちみつつぐ)の娘を迎えました。光継は光秀の祖父とされている人物です。そうすると、光秀と利三は従兄弟同士ということになります。上で述べた「伯父と甥」関係とは変わってしまいますが、系図によって関係がコロコロ変わることが多いのでよくわからないのです。

また、利三のおばは明智光安(あけちみつやす/光秀のおじにあたる)の室であるとも言われているので、斎藤氏と明智氏の間には密接なつながりがあったと考えられます。

ただ、これらの説は後世に作られた系図によるものなので、確かな証拠はありません。

利三が仕えた武将たち

一般に、光秀の重臣として知られる利三ですが、実は意外と光秀の家臣であった期間は短いのです。光秀との関係が見えるのは天正6年(1578年)ごろから。それ以前に仕えた武将との関係をまとめてみましょう。

松山重治

利三が最初に仕えたとされるのが松山重治(まつやましげはる/新介とも)です。松山重治といえば松永久秀三好長慶に仕えた武将ですね。その後は織田信長に仕えたとも言われていますが、この人に関してはあまり詳しい史料がありません。

斎藤義龍

次に仕えたのが、斎藤道三の長男(長男ではないという説もある)である斎藤義龍です。利三の正室は道三の娘のひとりなので、義龍とは義理の兄弟の関係でもありました。

稲葉一鉄(稲葉良通)

同じく斎藤親子に仕えていた稲葉一鉄。美濃三人衆のひとりですね。利三は稲葉一鉄が斎藤義龍・龍興から離反して信長に寝返ると、それに従って今度は稲葉一鉄の配下につきます。利三のもう一人の妻(継妻)は稲葉一鉄の娘なので、縁戚関係にもありました。

稲葉一鉄の家臣といっても、一鉄は信長に仕えたので、直接的には信長の家臣であり、一鉄の与力となっていた、という方が正しいかもしれません。

光秀に仕え始め、稲葉一鉄・織田信長とひと悶着あり?

利三がどのタイミングで光秀に仕えるようになったかは定かではありませんが、光秀の連歌会の記録から天正6年(1578年)3月10日には光秀とともに連歌会に参加した記録が残っており、このころには近しい関係にあったと思われます。このときにはすでに家臣になっていたとも考えられます。

利三はどうやら仕えていた稲葉一鉄とひと悶着あったようで、逃げ出すようにして光秀の家臣になったらしいのです。一鉄の家臣を強引に召し抱える形になったため、主君・信長ともトラブルに発展しました。

信長がこの件で光秀を激しく叱りつけたという説もありますが、それとは別に『稲葉家譜』には、天正10年(1582年)5月ごろ、すでに光秀の家臣となった利三がまた一鉄の家臣の那波直治(なわなおはる)を引き抜こうとし、一鉄は激怒。信長も直治を返すように光秀に命じ、さらには利三の自害を命じたとか。結局利三の助命はなんとかなりましたが、光秀は信長に何度か頭を打たれたとか。

この件が本能寺の変の怨恨説にもつながっており、利三が間接的に本能寺の変の原因となっているのですが、実際にこれが契機となったかは定かではありません。

丹波黒井城主になる

光秀に仕え始めたのは遅かったものの、丹波攻略においては重臣として力を発揮しました。光秀の家臣団のなかでは、明智秀満と同じ明智一門衆とみなされていたでしょう。すぐに家老として重用されるようになり、丹波が平定された天正8年(1580年)には光秀に一万石の禄を賜り、丹波黒井城の城主となっています。

長宗我部との関係

光秀と利三、信長との関係性を語る上で避けて通れないのが長宗我部元親との関係です。信長は当時、長宗我部元親と手を結び、関係を深めていこうとしているところでした。その窓口を務めたのが光秀。

これは、光秀の家臣・利三の兄で、石谷光政(いしがいみつまさ)の娘と結婚して養子に入った石谷頼辰(いしがいよりとき)の義理の妹(つまり光政の娘)が、長宗我部元親の正妻であった関係から始まった付き合いでした。ちょっとややこしいですが、利三の実兄の婚家が長宗我部と縁組をした関係ということ。

途中までは信長と長宗我部の関係は良好に保たれていたものの、信長の態度が一変。天正10年(1582年)5月から、四国討伐の計画が進められます。

長宗我部との外交役であった光秀は、四国攻めを回避するために本能寺の変を起こした、とも言われています。

利三の最期

稲葉一鉄の家臣を引き抜こうとした件、また長宗我部元親との関係において、光秀だけでなく利三にも信長に対する恨みがあった可能性はあります。利三は本能寺の変の前夜、謀反の計画を聞かされてどう反応したのでしょう。本能寺の変および山崎の戦いでは先陣で戦ったとされており、本能寺の変でも信長を討った中心人物であったようです。

が、山崎の戦いで光秀が敗死すると勢いを失います。利三は堅田に潜伏しますが、すぐに捕らえられて同6月17日、京都市中を引き回されたのち、六条河原にて斬首され、その首は主君・光秀の首と一緒に本能寺で晒されたと言われています。遺体はのちに友人で絵師の海北友松(かいほうゆうしょう)が引き取り、京都市左京区の真正極楽寺に埋葬されました。のちに友松も隣に墓を建てられ、友人同士並んで眠っています。

春日局の父として

さて、利三の人生はこれで終わりですが、彼の娘に関しても言及しておかねばならないでしょう。利三の娘のひとりは親戚筋の稲葉正成(いなばまさなり)に嫁いだ福で、四人の子を産み、のちに三代将軍・徳川家光となる竹千代の乳母を務めました。かの有名な「春日局」です。

福は利三の居城・黒井城のそばの興禅寺でまれましたが、父の敗死によって斎藤家は一気に落ちぶれてしまいます。福は母方の実家を頼って稲葉家で引き取られ、その間に親戚にあたる公家の三条西公国(福の祖父・一鉄の正妻は三條西家の娘)に諸芸を学びました。このことが、後に家光の乳母となるのに役立ったとか。謀反人の娘としては異例の出世でした。


【主な参考文献】
  • 二木謙一編『明智光秀のすべて』(新人物往来社、1994年)
  • 『歴史読本』編集部編『ここまでわかった!明智光秀の謎』(株式会社KADOKAWA、2014年)
  • 芝裕之編著『図説 明智光秀』(戎光祥出版、2019年)etc…



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