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 2019/09/30

「朝倉孝景(英林孝景)」下克上で越前朝倉氏を戦国大名化させる

朝倉孝景(英林孝景)の肖像画(心月寺蔵)

越前朝倉氏といえば11代目当主である朝倉義景が有名です。北近江の浅井長政と手を結んで戦国時代の革命児・織田信長を苦しめた戦国大名ですが、その越前朝倉氏を越前国の支配者としたのが7代目当主の「朝倉孝景」です。法名から「英林孝景」でも呼ばれています。

はたして孝景は斯波氏の被官という身分から、どのようにして越前国主まで上り詰めたのでしょうか。今回は孝景の下克上についてお伝えしていきます。
(文=ろひもと理穂)

越前朝倉氏7代目当主・朝倉孝景の改称

朝倉教景を名乗り家督を継ぐ

孝景は正長元(1428)年、越前朝倉氏6代目当主である朝倉孫右衛門尉家景(下野守、為景、教景)の嫡男として誕生しています。

宝徳2(1451)年に家景が亡くなり、家督を継いで7代目当主となりました。当初は朝倉小太郎教景と名乗っています。まだ若いということもあり、祖父の朝倉孫右衛門教景(美作守)が補佐役を担っています。

※参考:越前朝倉氏の系譜
  • 初代広景
  • 2代高景
  • 3代氏景
  • 4代貞景
  • 5代教景
  • 6代家景
  • 7代孝景(英林孝景)
  • 8代氏景
  • 9代貞景
  • 10代孝景(宗淳孝景)
  • 11代義景

越前朝倉氏当主は5代目、6代目、7代目と教景と名乗っているわけです。特に孝景は小太郎教景ということで祖父とまったく同じ名称でしたから、なかなか紛らわしい家系図といえるでしょう。

さらにこの孝景は、「教景」→「敏景」→「教景」→「孝景」とかなり頻繁に改称しており、10代目当主も孝景を称していますので、区別をはっきりするうえで法名の営林孝景と呼ばれることが多いのです(今回は混乱するのですべて孝景で統一してお伝えします)。

主家より偏諱を賜り、敏景を名乗る

孝景が越前朝倉氏の家督を継いでまもなく、主家である越前国守護の斯波氏も代替わりをしています。守護代である甲斐常治(将久)の後押しもあり、斯波義敏が斯波氏の家督を継ぎました。享徳元(1452)年のことです。新しい守護から敏の偏諱を賜り、孝景は、教景から敏景に改称しました。

斯波義敏の肖像画
家督と同時に越前・尾張・遠江の守護を継承した斯波義敏

しかし、この義敏はすぐに重臣たちと反発し始め、後押ししてくれた常治とも衝突します。一時は管領の細川勝元の仲裁もあって和睦しますが、長禄2(1458)年には拠点である越前国で戦いを始めてしまいます。これが長禄合戦です。

この合戦では、孝景は偏諱を賜った義敏ではなく、守護代側に味方しています。なぜでしょうか?それは室町幕府の意向を考慮したためです。

室町幕府の将軍である足利義政は斯波氏と甲斐氏の争いを沈静化させるため、義敏に対して鎌倉公方討伐を命じたのですが、義敏はその命令に反して出陣してまもなく甲斐方に襲いかかったのです。

そういった事情もあり、将軍が甲斐方を支持したため、孝景も甲斐方に付いたのでしょう。孝景としては、越前朝倉氏が斯波氏の被官というよりも、あくまでも将軍に仕えているという意識が強かったのではないでしょうか。

守護と対立し、活躍する孝景

長禄合戦によって勢力拡大

守護方と守護代方の争いは一進一退の攻防が続きますが、守護方の義敏が堀江利真(石見守)を陣営に招いてからは戦局を優勢に進めています。

途中、将軍の説得もありましたが、義敏を納得させるには及ばず、義敏勢は長禄3(1459)年5月には敦賀城に攻め込みました。しかし守護代方は逆にこれを撃退し、8月には常治の子である甲斐敏光と孝景の軍勢が、利真と越前朝倉氏の傍流の軍勢と激突しました。

『朝倉家記』には、孝景の戦場での大活躍ぶりを伝えています。孝景側は大いに勝利し、これによって敵方の利真や朝倉将景を敗死させることに成功しました。本家に逆らう朝倉一門も同時に滅ぼしたのです。

さらに守護代は常治が病没したために敏光が後を継ぎ、孝景の存在感はより一層高まりました。

義敏と完全に敵対関係になったことで、孝景は、敏景から教景に名を改めます。ちなみにさらに孝景に改称することになりますが、これは教景の名が呪詛にあったためで、その対抗処置のため寛正5(1464)年に孝景に改めています。

長禄合戦で将軍の怒りに触れた義敏は周防国へ追放され、守護職は義敏の子・松王丸(後の斯波義寛)が継承しますが、寛正2(1461)年には松王丸の守護職もすぐに剥奪されてしまいます。おそらく子の松王丸の代に至っても、守護代の甲斐氏や孝景との禍根は残っており、その対立が問題視されたからではないでしょうか。

新しい守護には、斯波氏の傍流で足利一族である渋川義廉が就任しましたが、それを援助したのが孝景です。孝景はついに守護に対しても直接影響を与えるほどの発言力を得たわけですが、傍流に守護職の座を奪われた義敏は黙っていませんでした。

義敏の再起と没落

越前国から追放された義敏でしたが、幕府政所執事である伊勢貞親を通じて、守護への復帰を画策します。

貞親の工作は効果を発揮し、義敏は寛正6(1465)年に帰洛を許され、文正元(1466)年にはなんと斯波氏の総領職を譲渡されることになるのです。義敏は一発逆転に成功したわけです。

すかさず義敏は義廉討伐に動き、さらにこの決定に反発する山名氏当主の山名持豊には切腹の沙汰がおりました。

義敏と貞親はこれで万事うまくいったと油断したのかもしれません。ここで持豊は思い切った行動に出ます。武力蜂起です。それを知った義敏や貞親は危機を悟って京都から逃亡。そのため翌年には義廉が管領に就任しています。さらなる逆転劇です。

しかし、伊勢氏がいなくなったことで、勝元と持豊の主権争いが激化。ここに将軍家継嗣問題や、管領家である畠山氏・斯波氏の家督争いが加わり、全国の守護大名も東西に分かれて所属し、戦乱は拡大していきます。

<a href='https://sengoku-his.com/27'>応仁の乱</a>の対立構図
応仁の乱の対立構図

こうして応仁の乱に至るわけですが、このときの孝景は義廉に味方し、持豊が中心となった西方の主力を務めていました。

文正2(1467)年5月には応仁に改元されますが、ここから両陣営が激しく衝突していきます。ここで、戦上手の孝景は東軍から怖れられるほどの活躍をしたのです。

応仁・文明の乱によって越前国主へ

東軍に寝返り越前国主となる

将軍義政が東軍に傾くと、西軍の動きは鈍くなります。

義廉に対し、”和睦を結ぶのならば孝景の首を差し出すこと” と強気だった東軍ですが、連日に渡る孝景の活躍ぶりを怖れてか、西軍の核となっている孝景の引き抜き工作に力を入れ始めました。

貞親の書状では納得しなかった孝景でしたが、将軍御内書が届き、越前守護職補任を約束されるに及び、孝景は西軍を見限り、東軍に寝返ることを決意しました。

孝景が東軍に帰属することを承諾したのは文明元(1469)年7月とされていますが、各地で戦乱が続く中、情報も混乱していたのでしょう。はっきりと孝景が東軍側に付いたと知れ渡ったのは、文明3(1471)年5月のことでした。

ただし、守護職補任の御内書の存在は疑問視されており、正確なところはわかっていません。しかし、半済の実施は将軍によって認められていたようで、荘園・国衙領の年貢米の半分を兵糧米として徴収する権限を有しましたから、実質、軍事指揮権を持つ守護とまったく同じ扱いです。

『朝倉系図』や『朝倉始末記』でも、この時期に越前朝倉氏が越前国の支配権を得たと記されています。越前朝倉氏は7代目当主・孝景の代で越前国主となったのです。ですから孝景は越前朝倉氏・越前国主初代とされています。

越前国の平定と反乱

もちろんその後も旧勢力との衝突は続くことになります。孝景は、これまで仲間だった守護代の甲斐氏とも戦うことになったのです。

文明3(1471)年の河俣の戦いでは、7月の緒戦に敗れるものの、8月には大勝して甲斐氏を追い詰めていきます。そして、翌年には拠点である府中を攻略して甲斐氏を追放しました。北部の坂井郡でも甲斐方に味方した勢力を破っています。文明7(1475)年には大野郡の制圧に着手し、土橋城を攻略、反発勢力の二宮氏を追放しました。

一方で義敏の子である斯波義寛が、文明11(1479)年に甲斐氏や二宮氏を従えて坂井郡へ侵入し、反乱を起こしました。ここで孝景は劣勢に追い込まれています。

そしてこの対立の中、孝景は文明13(1481)に病没しました。

一乗谷にある朝倉英林の墓所(英林塚)
一乗谷にある朝倉英林の墓所(英林塚)

後を継いだ子の朝倉氏景は危機に陥るものの、一族の力を結集し、この逆境をはねのけて孝景の没後2ヶ月で斯波氏の勢力を一掃して加賀国に退かせています。

孝景が氏景に残した家訓とは

孝景が氏景に残した家訓『朝倉孝景条々』(朝倉敏景十七ヶ条、朝倉営林璧書)は戦国大名のバイブル的な存在です。

注目すべきは「世襲制度を廃して、実力主義とせよ」という一文です。まさに下克上を推進するような革新的な考え方で、織田信長の価値観に相通じるものがあります。もしかすると信長はこの孝景が残した家訓の内容を知り、影響を受けたのかもしれません。

また、「高価な名刀を1振り購入するよりも、100の槍を買いそろえた方が良い」、「国人や地侍は一乗谷に移住させること」など合理的な面にも触れられており、孝景がいかに広い視野で戦乱の世を生き抜いてきたのかが伝わってきます。

朝倉孝景条々は文明11(1479)年から文明13(1481)年ごろに書かれたものだと考えられています。

だとすると孝景が病没する寸前の話です。ただし本当に孝景創作のものなのかは、未だにはっきりとは解明されていません。

ただ、孝景は下克上の世をどう生きていくべきか氏景にしっかりと伝えていたのは間違いないでしょう。そのおかげもあって、氏景らは孝景亡き後の危機を脱し、斯波氏撃退を成功させたのです。

まとめ

主家の混乱をうまく利用し、越前朝倉氏の勢力を拡大。やがては主家を追い落とすほどの力をつけたこの事例こそまさに下克上です。

朝倉孝景は下克上の先駆け的な存在だったのではないでしょうか。やがてその越前朝倉氏もまた新しい下克上によって、信長に滅ばされることになります。越前朝倉氏の滅びは、因果応報ともいえるのかもしれません。


【参考文献】
  • 水藤真『人物叢書 朝倉義景』(吉川弘文館、1986年)
  • 松原信之編『朝倉義景のすべて』(新人物往来社、2003年)



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