【逸話 LINEトーク画風】美濃の斎藤義龍が信長暗殺を企て、刺客を送り込む!(1559年)
- 2020/05/22
さて、そのタイミングをねらって信長を暗殺してやろうと考えたのが、美濃の斎藤義龍でしたが……。
【逸話】信長の威勢に、美濃の刺客が恐れをなす
- 【原作】『信長公記』『名将言行録』
- 【イラスト】Yuki 雪鷹
- 【脚本】戦ヒス編集部
丹羽兵蔵は、信長の一行とは別に京都へ上ったのだが、上京の途中でたまたま義龍の放った刺客たちと出会い、琵琶湖で彼らが乗った舟に同船した。
━━ 上洛途中の舟中 ━━━
美濃の刺客ら
刺客A:ん?そなたはどこの者か?
丹羽兵蔵
それがしは三河の者です。尾張を通って来ましたが、あの国では信長公の威勢に皆遠慮している様子だったので、気を付けて来ました。
すると、彼らの中の一人が言った。
美濃の刺客たち
刺客B:フフフ、上総介(=信長)の運もそう長くはあるまい。
丹羽兵蔵
??
彼らはいかにも人目を避ける感じで話していたことも怪しかったため、兵蔵は後をつけて彼らが泊まった近くに宿をとった。そして一行の中の小利口そうな童を手なずけて仲良くなり、話を聞きだした。
━━ 丹羽兵蔵の宿所近く ━━━
丹羽兵蔵
あの方々は湯治にでも行くのか。一体何者なんだ?
刺客一行の童
ああ。湯治ではありませぬ。美濃から大事な命を受けて上総介殿を討ち取るために上洛するのです。
丹羽兵蔵
!!!・・・。(なんと!!)
童は兵蔵が三河の者ということで気を許していた。彼らの名は「小池吉内・平美作・近松頼母・宮川八右衛門・野木次左衛門・その他ということであった。 そして夜になり、兵蔵は供の衆にまぎれて彼らの中で中心人物たちに近づき、こっそり盗み聞きをした。
美濃の刺客たち
主犯格A:かくかくしかじか・・・。鉄砲で撃つのには何の面倒もあるまいな。
彼らが信長を討とうとしていることを知った兵蔵は、翌日に先まわりして京都への入口を見張り、彼らが来て京都の宿に入ったことを確認すると、その宿がわかるように目じるしを付けた。
━━ 京都、信長の宿所 ━━━
その後、兵蔵は急いで信長の宿所を探し当て、番の者に言った。
丹羽兵蔵
ハァ・・ハァ・・。国元から至急の用件でお使いに参りました。金森殿か蜂屋殿にお目にかかりたい。
そして、かくかくしかじか・・と話を聞いた金森長近と蜂屋頼隆の2人はただちに事情を信長に報告し、信長は兵蔵を呼びだした。
信長
彼らの宿を見極めておいたか?
丹羽兵蔵
はい、二条蛸薬師近くの宿に、みな一緒にいると存じます。宿の門柱を削っておきましたゆえ、間違えることはございません。
信長
うむ。大義であった。
それから相談をするうちに、夜も明けると信長は言った。
信長
その美濃の者らは金森が見知っている者どもなら、早朝にその宿に行ってみよ!
金森長近
はっ!
━━ 京都、刺客たちの宿 ━━━
金森は例の宿へ兵蔵とともに向かい、宿の裏から侵入して一同に会った。
金森長近
昨夜、そなたらが上京したことは信長公も御存じゆえ、こうして参ったのでござる。
美濃の刺客たち
刺客A:えっ!?
刺客 B:マジかっ!
金森長近
信長公に御挨拶に行きなされ。
美濃の刺客たち
刺客たち:あわわわ・・
信長が知っていると聞いた彼らは血相を変えて仰天し、そして翌日になって、信長が小川表(=京都市上京区)を見物していたところで対面したのである。
━━ 京都、小川表 ━━━
信長
汝らはこのわしを討つため、美濃からわざわざ上京したと聞いておるぞ。その志はあっぱれだが、未熟者の分際でわしを狙うなど、カマキリが馬車に立ち向かうようなものじゃ。
できるものなら、今ここでやってみよ!
美濃の刺客たち
刺客A:そ、そ、そのようなことはめっそうもないことでございます!(滝汗)
他の刺客たち:あわわわわわ・・・
こうして彼ら6人は進退に窮してしまったのであった。
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これを聞いた京の町衆は信長の言動を2通りに評した。
京の町衆
町人A:一城の主の言葉には似つかわしくないねえ。。
町人B:いやいや、若い人にはふさわしいよ!
こうして信長は数日後に京を出立し、清洲へ帰城したのであった。
ワンポイント解説
義龍による信長の暗殺計画は失敗に終わりました。『信長公記』によれば、信長は随行者80人を指名して上洛したとされますが、信長一行とは別のルートで京に入ったのが清州の那古野弥五郎という男の家来・丹羽兵蔵でした。この機転がきく兵蔵によって美濃の刺客の暗殺は阻止されたわけです。
『信長公記』には、義龍がいつどのように信長の上洛を知って刺客を放ったのかは書かれていません。ただ、信長は上洛を急に発表したようですから、刺客は京へ向かう信長を追う形だったのではないでしょうか。
どこで誰が聞いているともわからない状況で「信長の運もそう長くない」なんて意味深なことを口にしてしまうお粗末さといい、練りに練った計画ではなかったのではないでしょうか。
金森長近と蜂屋頼隆
兵蔵は美濃の刺客の目的を知ると、信長の宿所を探して「金森長近か蜂屋頼隆にお目にかかりたい」と言っています。どちらも信長の馬廻衆で、長近は赤母衣衆、頼隆は黒母衣衆の一員でした。馬廻衆は主君の護衛をしたり伝令をしたりする家臣のことで、前田利家や佐々成政らもその一員でした。武芸に秀でたエリートが選ばれたわけです。
兵蔵が馬廻衆のほかの誰でもなく長近と頼隆を呼んだのはなぜかというと、彼らが美濃出身であったからでしょう。どちらも土岐氏の支流の一族です。
長近は父の代に土岐氏の後継者争いで土岐頼武を支持しましたが、頼芸敗れたことで主君ともども美濃での立場を失い、金森氏は近江へ移っています。
頼隆は美濃の加茂郡蜂屋村出身の土豪といわれます。頼隆の出自や初期の経歴はよくわかっていませんが、信長の古くからの家臣だったようです。ただ、美濃出身であることから、美濃斎藤氏の家臣と面識があった可能性は十分にあります。
美濃の刺客らに「信長にあいさつせよ」と言ったのもこのふたりです。
カマキリの鎌
信長の前に突き出された刺客たちは、「カマキリが馬車に立ち向かうようなもの」と、できるものならここで暗殺してみろと言われ、恐れおののいてしまいました。カマキリが馬車に立ち向かう、『信長公記』原文は「蟷螂(とうろう)が斧と哉覧(やらん)」とあります。
「蟷螂の斧」は『淮南子』や『韓詩外伝』にある中国の故事、「弱者が己の力量をわきまえず強者に立ち向かうことをたとえたものですが、果たして信長がここで「弱者」と吐き捨てるように言ったのは刺客のことか、それともその背後の義龍のことなのでしょうか。
【参考文献】
- 太田牛一 著、中川太古 訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫、2013年)
- 奥野高広・岩沢愿彦・校注『信長公記』(角川書店、1969年)
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