日本史上初めて「天下統一」を成し遂げたのは豊臣秀吉とされていますが、その途上はあまたの戦闘に満ち溢れていました。 南北に長い列島である日本では、各ブロックごとに覇権争いが繰り広げられ、それぞれに強力な在地勢力が存在していました。
秀吉は1584年の「小牧長久手の戦い」、1585年の「紀州攻め」、同年の「四国平定」と転戦し、着々とその勢力を拡大。そして次に直面したのが九州を巡る戦いです。
秀吉本拠の大坂から遠く、しかも勇猛無比な武将たちが鎬を削る九州島で、秀吉はどのように戦ったのでしょうか。 今回は1586~87年にかけて行われた、「九州征伐」の概要をみてみましょう。
※「九州征伐」には他にも「九州平定」や「九州の役」などさまざまな呼称があります。本コラムでは、豊臣方の俯瞰視点を採用し「九州征伐」の語を使用しています。
戦国時代後期の九州島では、大きく三つの勢力が覇権争いに鎬を削っていました。豊後を中心とする「大友氏」、肥前を中心とする「龍造寺氏」、そして薩摩・日向を中心とする「島津氏」の三者です。
そのうち龍造寺氏は「龍造寺隆信」の時代にほぼ一代で頭角を現してきた家中でしたが、天正12(1584)年の「沖田畷の戦い」で島津氏に敗れました。
九州島の覇権争いは島津氏vs大友氏の構図となりましたが、周辺大名の多くを取り込んだ島津氏は九州最大の勢力へと成長します。
徐々に弱体化していった大友氏の当代、「大友宗麟」はこの事態を打開すべく、大坂の羽柴秀吉に救援を要請します。
天正13(1585)年に関白となった秀吉は、同年10月に朝廷権威を背景とした停戦命令を発布。これは「惣無事令」あるいは「九州停戦令」などと呼ばれる、大名間の私闘を禁じる法令と解釈されています。
島津氏はこれに従わず、大友氏の攻撃に対する正当防衛を主張しました。一方の大友氏は停戦命令に従ったものの、同様の理由で島津氏の非を訴えています。
さらに翌天正14(1586)年1月、島津氏は秀吉元来の家格が武士ですらないことを理由に、関白としての権限を認めない旨を表明。
秀吉は九州島内領地を島津氏と大友氏で分割する案を提示しましたが、島津氏がこれを拒否したため大友氏の先導によって秀吉の九州征伐が開始されることになりました。
豊後の大友宗麟は同年4月5日、大坂の秀吉を直接訪ねての救援要請を行っています。 これを受けて秀吉は九州方面派遣軍を編成、しかし主力には家中の本隊を使わず、新たに臣従した中国・四国地方の「毛利氏」「長宗我部氏」らの部隊を充当していました。
島津勢は6月、秀吉軍の到着以前に九州全域を掌握することを企図し、先んじて北部九州への侵攻作戦を発動しました。
島津軍の筑前、および豊後国への侵攻の主な流れは以下のとおりです。
6月18日 | 島津義久みずから鹿児島を出発 |
7月2日 | 島津義久、肥後国八代に到着 |
7月6日 | 肥前国の鷹取城(鳥栖市山浦町中原)を陥落させる |
7月10日 | 勝尾城も降伏、開城させる |
7月27日 | 岩屋城を攻略(岩屋城の戦い) |
8月6日 | 宝満山城を攻略 |
8月 | 立花山城の戦いで同城を攻略できず |
8月末 | 岩屋城、宝満山城を奪還される |
10月中旬 | 島津義弘軍、肥後路から豊後に侵攻開始 |
10月中旬 | 島津家久軍、日向路から豊後に侵攻開始 |
10月下旬 | 義弘軍、津賀牟礼城や高尾城等、豊後国の諸城を次々攻略 |
11月4日 | 家久軍、堅田合戦で佐伯惟定に敗れる |
12月3~7日 | 家久軍、鶴賀城に総攻撃を仕掛けるも陥落できず |
12月12日 | 家久軍、戸次川の戦いに勝利、鶴賀城を降伏開城させる |
12月13日 | 家久軍、府内城を陥落させる |
12月24日 | 義弘軍、山野城を降伏開城させる |
しかし秀吉方の毛利氏先遣部隊(「毛利輝元」「小早川隆景」ら)が豊前に、「仙石秀久」「長宗我部元親・信親」らが豊後に派遣され、島津氏による九州全土掌握は実現しませんでした。
秀吉の九州平定における緒戦とも位置付けられるのが、戸次川の戦いです。 これは豊後に侵攻して大友氏の鶴賀城(現在の大分県大分市)を攻撃した「島津家久」と、救援軍の「仙石秀久」「長宗我部元親・信親」らとの間に起きた戦闘です。
戸次川に布陣した秀吉方でしたが、こちらから戦端を開かないよう厳命されていたにも関わらず仙石秀久が渡河攻撃を主張。援軍の到着を待つべきという長宗我部元親の意見を振り切り、12月12日の夕刻に戦闘が開始されました。
しかしこの動きを読んでいた島津勢の奇襲を受け、仙石隊は敗走。孤立した長宗我部隊3,000が島津勢5,000と交戦しました。 長宗我部元親は戦線離脱に成功しますが、信親以下の部隊は壊滅。鶴賀城も落城し、仙石秀久は命令違反と敗戦の責から領地を没収され失脚しました。
12月13日、戦勝の勢いに乗じた島津勢が大友宗麟の籠る丹生島城(現在の大分県臼杵市)を包囲しましたが、宗麟は舶来兵器のフランキ砲などをもって島津勢を撃退。各地で両軍の間に戦闘が展開されました。
大友宗麟は秀吉自身の出馬を再三にわたって要求し、天正15(1587)年元旦の祝賀式において、秀吉は九州侵攻のための部隊編成を発表しました。
それは全軍を二つに分けた組織編成で、肥後方面軍の総大将を秀吉自身が、日向方面軍の総大将を豊臣秀長が務めるという総力戦の様相を呈していました。詳しい部隊編成は以下の通りです。
肥後方面軍さらに兵糧奉行には秀吉子飼いの「石田三成」「大谷吉継」「長束正家」らを配し、補給・輸送に万全の備えを行いました。 両軍は北部九州を発し、秀吉を総大将とする肥後方面軍は西側から南下、秀長の日向方面軍が東側から南下してそれぞれに島津勢力を薩摩へと押し返していく作戦をとりました。
秀吉の部隊には織田家の旧臣あるいは豊臣縁故の武将の名が多くみられ、秀長の部隊では因幡衆や九鬼嘉隆の名が見られることから、水軍戦力の充実をうかがわせます。両軍合わせて20万ともいわれる、大軍勢の編成でした。
同年1月25日には宇喜田秀家が九州へ進軍、次いで2月10日に豊臣秀長、そして3月1日には秀吉自身が進発。秀長は3月上旬には小倉へと到達していたと考えられますが、即座に島津征討軍を発したわけではありませんでした。
まずは府内城(現在の大分県大分市)にいた「島津義弘」宛てに、豊臣方との講和を勧告しています。 この時使者として派遣されたのが高野山の「木食応其」で、応其は秀吉の紀州攻めに際して高野山代表の一員として降伏処理を行った人物でした。しかし義弘はこの降伏勧告を拒否して撤退、豊臣方の追撃を受けて豊後・日向国境で交戦しています。
秀吉が小倉城(現在の福岡県北九州市)に入城したのは3/28とされており、これより豊臣軍による大規模南進作戦が開始されました。
4月1日、秀吉は島津氏に合力していた「秋月種実」の岩石城(現在の福岡県田川郡)を攻略、種実は他の支城である益富城(現在の福岡県嘉麻市)を破却して古処山城(現在の福岡県朝倉市)に兵力を集中させました。
しかし、破却したはずの益富城は一夜のうちに豊臣軍によって修繕され、ここを拠点として古処山城を攻撃されることになります。これは秀吉による築城術で、紙などを用いてあたかも城を復元したかのように見せる一種の「一夜城」ともいわれています。
戦意を喪失した種実は4月3日に降伏、4月16日までに秀吉軍は熊本方面まで進軍しました。 この間に在地勢力が次々と豊臣方へ近習の意思を表明し、島津氏の勢力は消耗していきます。
また、島津氏は豊臣秀長の軍に対応するため兵力を九州東部に集中していたため、秀吉の南下経路は防備が手薄となっていました。 戦局を打開するため島津勢は、日向南部の要衝であった高城(現在の宮崎県児湯郡)を包囲していた秀長軍への攻撃を決意。4/17夜半に高城南側の根城坂急襲を決行します。
しかし島津勢の攻撃経路は先読みされており、ここに秀長軍は要塞を構築して迎撃態勢を整えていたのです。 この砦の守将は秀長軍四番隊の「宮部継潤」以下1万の兵力で、島津勢はこれを突破することができませんでした。
秀長軍本隊が宮部の救援に向かおうとしたところ、軍監の「尾藤知宣」が反対。しかし「藤堂高虎」隊、「宇喜田秀家」隊が救援を強行し、さらに「黒田官兵衛」隊らが挟撃を行ったことで「島津忠隣」「猿渡信光」らの島津勢はほぼ壊滅へと追い込まれました。
この戦闘で豊臣軍は緒戦での失地を回復し、島津氏勢力への打撃を決定的なものにしたとされています。
豊臣秀長の意向で島津氏へと和平工作が行われていたのは先述の通りですが、これは木食応其のみならず「足利義昭」からの使者によっても継続されていました。
根白坂の戦いでの大敗を契機に抵抗力を失った島津氏は、4月21日に「島津義久」が家老らを人質として差し出すことで秀長に和睦を申し入れました。
九州西部方面を南下していた秀吉軍は、海路を利用して迅速に薩摩国内へと進軍し、4月27日には出水へと到達しました。
各地の島津氏勢力が降伏していくなか、平佐城(現在の鹿児島県薩摩川内市)が頑強に抵抗。双方ともに被害を出したものの、この戦闘が島津氏の最後の抵抗となりました。
豊臣方の両方面軍で最終的な戦闘が終わった後も、しばらくの間島津氏の抵抗勢力は健在でした。 しかし島津義久からの書状・命令が浸透し、徐々に武装解除が実現していきます。
義久は5月6日、雪窓院(現在の鹿児島県日置市)で剃髪・出家し、5月8日に泰平寺(現在の鹿児島県薩摩川内市)に駐留していた秀吉を訪れ、降伏の意を表明しました。
秀吉は事前に義久の降伏の意思を確認しており、出家姿で現れた義久を処刑することなく赦免しています。 5/18に秀吉は北部九州へと帰還の途につき、九州征伐は終わりを迎えたのでした。
島津義久は降伏したものの、その後も「島津義弘」「島津歳久」らは抵抗を続けていました。 義久の説得に応じて矛を収めたものの、九州島内の政情はいまだ不安定極まりない状態でした。
戦後処理として豊臣家臣に九州各地が分配され、島津氏には薩摩・大隅、そして日向の一部分が安堵されました。 秀吉は当初、大友宗麟には日向一国、長宗我部元親には大隅の大部分を与えるつもりでしたが、両者ともにこれを辞退しています。
肥後の大部分は「富山の役」で敗北し秀吉に臣従した旧織田家重臣「佐々成政」に与えられました。 しかし成政は肥後国での圧政支配から国衆の反感を買い、「肥後国人一揆」を引き起こしてしまいます。 このように、九州島の完全な統治は秀吉にとっても大きな課題として残ることになったのです。
中部・東海・北陸・近畿・中国・四国を平定し、九州での一応の権益を掌握した秀吉にとって、残るは関東~東北方面の平定のみとなりました。いわば九州平定によって天下への王手をかけた状態になったともいえ、秀吉の注意は外国諸勢力の植民地化政策へも振り向けられるようになります。
同年6/19には有名な「バテレン追放令」が発布され、キリスト教勢力への対応を硬化させていきます。 これは長崎などを拠点とした人身売買のマーケットから、大量の日本人奴隷が海外へと売られていく実態を憂慮した結果ともいわれています。
少なくとも九州各地には海外交易の一大拠点が存在し、日本という国として海外からの様々な脅威に対処しなくてはならないという、豊臣政権の自覚を促すことに繋がっていったともいえるでしょう。
秀吉晩年の不条理とも思える海外侵攻作戦は、そのような強い危機感がもたらしたものという考え方も提唱されています。
九州征伐の頃の秀吉の戦い方をみると、殲滅戦ではなく物量や兵力でプレッシャーを与える「位詰め」を真骨頂としているように思えてなりません。これは臣従した勢力は自身の配下となるため、滅ぼすのではなく味方につけることが重要だと考えていたためではないでしょうか。
また、旧来の作法であれば敗軍の将は切腹するのが当たり前でしたが、秀吉は幾人もの武将を赦免して戦力として配下に加えています。 天下人を視野に入れた秀吉は、王者としての度量を印象づけるという演出にも腐心したのかもしれませんね。
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