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 2019/02/19

伊達政宗は料理好き?グルメ武将伝説を検証!

料理人・伊達政宗のイラスト

伊達政宗は、武だけでなく芸術や文化にも明るい人物として知られています。能楽や漢詩への精通は武将随一のものとされており、研究者によっては政宗の漢詩を「戦国武将一の技量である」と評されるほど。

さらには料理に造詣が深かったというのが通説でもあり、伊達巻き・凍り豆腐・ずんだ餅・仙台味噌の開発者として語られることも多いです。しかし、経験上こうした料理の発祥や料理名の由来というものは、あくまで俗説であることも多く、必ずしも史料に基づいているとはいえない側面もあります。

そこで、この記事では「料理男子」政宗の実像を、史料をもとに考えていきたいと思います。
(文=とーじん)

政宗は本当に料理好きだったのか。

まず、数々の説を検証する以前に、そもそも伊達政宗が本当に料理好きであったのかを検証しなければなりません。

これは、結論からいえば「どうやら真実である」といえそうです。その論拠としては、政宗晩年のエピソードが収録されている『命期集』という文書や、『伊達政宗言行録』『政宗記』など複数の史料に、料理の心得や実際に作成した献立などが収録されているためです。

もっとも、武将が料理をする、というのは現代だと「家庭的だ」という印象をもちがちですが、どうやら戦国時代には必ずしも珍しいことではなかったようです。実際に、立花宗茂本多忠勝などにも、料理に関するエピソードが残されています。もちろん、これらの出典もとになる史料についても吟味する必要がありますが、少なくとも同時代において「男性が料理をすることは一般的だった」という事実については間違いないといえそうです。

つまり、男性が料理をしない、という文化が一般的になっていくのは、少なくとも江戸時代以降であるといえるでしょう。

さて、ここまでの論で「政宗が料理をしていた」ということはどうやら間違いがないということがわかってきました。しかし、政宗に関する料理伝説はこれだけではありません。冒頭でも述べたように、政宗は数多くの仙台名物料理の開発にかかわっているとされています。それでは実際に政宗がそれらにかかわっていたのかどうかを、史料や研究をもとに検証していきましょう。

政宗が製造を指示し、普及に貢献した「仙台味噌」

まず、政宗の料理に関するエピソードでも有名な「仙台味噌」の由来についてみていきます。

一説では文禄2年の朝鮮出兵の際、持参した味噌が夏場でも腐敗しなかったことから、他大名に絶賛されたことで一般に認知されるようになったとされています。
しかし、この説には有力な史料が見当たらず、1593(文禄2)年に政宗は岩出山城を居城としていたために味噌を持参したとは考えにくく、さらには「仙台」という地名自体が1600(慶長5)年に名付けられたものであるという説もあり、そうした観点から研究では疑問の余地があるとされています。

もっとも、後になって仙台藩の産業として仙台味噌を普及させようと考えていたのは事実のようです。実際に、政宗は仙台城下に「御塩噌蔵」が設けられ、塩と味噌を産業として発展させることを目論んでいた様子がうかがえます。 そして、政宗の後を継いだ仙台藩主忠宗の代になると、藩で余った味噌が江戸に払い下げられ、これが好評となって仙台味噌の名が町中の知るところとなりました。

こういった事実を鑑みると、開発こそ政宗によるものではなかったものの、その発展と普及に一役買ったというのは間違いなさそうです。

農政改革の一環として発展していった「塩」と「米」

先ほども少し触れましたが、政宗は仙台藩の藩政改革の一環として塩産業に力を入れていました。藩内の様々な場所に塩焼場を設置し、塩の製造法を他の地域出身者を通じて取り入れていた様子も確認できます。

また、江戸時代の「基幹産業」である、米の製造にも当然力を入れていました。新田開発を推し進め、石高の増加に乗り出しました。仙台藩は土地的に米産業に適していたという地域性も相まって、表記上の石高よりも実石高が大幅に上回った状態であったとされています。こうして製造された米は江戸でも評判になり、藩政を支えたとされています。

このように、政宗の農政への貢献は確かなものであったようです。ただし、米や塩といった一次産業の重要性は、現在のそれとは比較にならないものであったということも考慮に入れなければなりません。もちろん、現代でもそうした産業は大切なものですが、一方で食料自給率がとても低く出ているように、必ずしも地産地消をするという社会ではなくなっています。

当然江戸時代はそうではなく、藩の規模を石高、つまり米の生産量で表記していたことからも、そうした産業がどれほど大切であったかがわかります。石高の多さは経済規模の大きさそのものであり、軍事力を示すものでもあったのです。

こうした事情を考慮すると「政宗は料理好きだったから米や塩の産業に力を入れた」とは限らないとも考えられます。実際、藩政の改革を行なう際、まず一般に取り組まれたのがこうした産業の強化であり、それが政宗固有のものではなかったという社会状況も理解しなければなりません。

政宗が兵糧研究の過程で開発した?「凍り豆腐」

お次は「凍り豆腐」という、東北地方でみられた伝統的な料理の開発に政宗がかかわっていたのかどうかを見ていきましょう。

こちらもここで取り上げているように、やはり政宗が開発したという説があります。そうした説をいくつかみていくと、兵糧研究の際に誕生したものであるという見方が多いようです。しかし、これに関しては明確な史料・研究を発見することができませんでした。

また、情報収集の過程で「凍り豆腐」は別名「高野豆腐」とも呼ばれていることも判明しました。こちらの名称は皆さんも馴染みがあると思いますが、高野豆腐に関してはその名の通り高野山に由来があるとされています。

さらに、「凍り豆腐」は同様の調理法が中国でも確認されており、中国伝来の可能性が高いということもわかってきました。 そのため、完全に否定することはできませんが、政宗オリジナルの食品ではない可能性が高いようです。

政宗が名付け親?「ずんだ餅」

「ずんだ餅」といえば、現在でも仙台地域の名産品として知られており、全国的な知名度も高い餅の一種です。これに関しても、政宗が名前の由来であるという説があります。その説は二通りあり、合戦の際に「じんだもち」として太刀で豆を切り刻んだ際の名称がなまったものであるという説と、ずんだを製造する際の方法に由来する「ずだもち」という名称がなまったものという説があります。

しかしながら、これについても明確な史料を発見することができず、また他にも政宗に由来しない名称の俗説が数多く存在することもわかってきました。したがって、必ずしも政宗が由来であるとはいえないということがわかりました。

政宗の好物だった?「伊達巻」

「伊達巻」といえば、正月のおせち料理には欠かせない卵料理であり、日本人に親しみ深い料理でもあります。こちらに関しても、政宗に由来する名称の説があります。その由来は極めてシンプルで、政宗の好物であったことから、伊達の名が取られたというものです。

しかし、これもやはり明確な史料が発見できず、やはり他にも複数の政宗に由来しない名称の俗説があるようです。 したがって、ずんだ同様必ずしも政宗が由来であるとはいえないということがわかりました。


【主な参考文献】
  • 小林清治『伊達政宗』吉川弘文館、1985年。
  • 佐藤健一『素顔の伊達政宗:「筆まめ」戦国大名の生き様』洋泉社、2012年。etc…
【参考HP】




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