「伊達政宗」独眼竜、傾奇者で知られる東北の人気武将の生涯とは

 隻眼の武将として「独眼竜」の名で知られる仙台藩初代藩主「伊達政宗」。織田信長や豊臣秀吉、徳川家康といった天下統一の立役者らの子の世代にあたり、生まれてきた時期が遅かったことを嘆いたと伝わっています。

 奥州の地から天下を目指した政宗はどのような人物だったのでしょうか?政宗にかかわる主要な出来事と、その人となりをまとめてお伝えしていきます。

奥州伊達氏の嫡男として誕生

 伊達政宗が誕生したのは永禄10年(1567)のことです。幼名は「梵天丸」といいました。

 政宗の父は伊達氏16代当主の伊達輝宗です。奥州に古くから伝わる家柄同士は婚姻関係を結ぶことが多く、政宗の母・義姫も最上氏当主・最上義守の娘であり、最上義光の妹でした。

 ここで少し、政宗以前の伊達氏についても触れておきましょう。


 戦国期の伊達氏は、政宗の曽祖父にあたる14代当主・伊達植宗の代に勢力が急拡大します。彼は武略、および周辺の有力豪族らとの政略結婚によって、伊達氏を奥州を統括する立場へと押し上げるのですが、やがて嫡男晴宗との確執から天文の乱(1542~48)と呼ばれる内紛を招き、家中を疲弊させてしまいます。

 以後、伊達氏は家臣団の統制に追われるなど、東北の統一が一旦遠のきますが、父輝宗の代になると、伊達氏の全盛期に近いところまで徐々に勢力を盛り返していきます。政宗はそのような状況下で誕生したのです。

奥羽の主な国衆の分布マップ。緑エリアは陸奥、黄エリアは出羽

 ちなみに、政宗が誕生した1567年は、織田信長が美濃国を攻め取り、井ノ口を「岐阜」と改称して天下布武の朱印を使い始めた年でもあります。信長は翌年に足利義昭を奉じて上洛することに成功しています。


幼少時に右目を失明

 政宗は幼少期に天然痘の病によって右目を失明しています。政宗のイメージとしては根強い右目の眼帯ですが、実のところ、実際に装着されていたという記録はありません。たとえ病といえども親から授かった大事な右目を失ったことは不孝である、と政宗は考えていたと伝わっています。そもそも政宗の代名詞「独眼竜」という表現が登場するのも江戸時代後期からなのです。


政宗の元服・結婚・初陣

 伊達氏の中には弟の小次郎を擁立しようとする勢力がありましたが、父輝宗は早くから政宗に家督を継がせることを決めていたといいます。そのため、天正5年(1577)政宗11歳のときに元服させ、伊達氏中興の祖といわれる9代目当主の伊達政宗にあやかって、同じように "政宗" と名乗らせています。

 なお、伊達家ではそれまで足利将軍からの一字拝領を慣習としてきましたが、このころには信長が足利義昭を京から追放していたため、義昭からの一字拝領を求めていません。

 天正7年(1579)、13歳にして正室を迎えています。相手は陸奥国の戦国大名、田村清顕の娘である愛姫です。その2年後には、陸奥国の相馬氏との戦いで初陣を飾っています。ここから政宗は領土拡大のため、周辺諸国の戦国大名たちと戦を繰り広げていくことになるのです。


父輝宗の隠居と家督相続

 政宗は天正12年(1584)、輝宗が隠居したことにより伊達氏の家督を継ぎました。輝宗の隠居に関しては、陸奥国の戦国大名である蘆名氏の家督相続が影響していたようです。

 蘆名氏の当主が家臣に殺されたことに乗じて、縁戚関係にある輝宗が介入しました。政宗の弟である小次郎を、いずれは蘆名氏に当主にするという約束を輝宗は取りつけていましたが、常陸国の戦国大名である佐竹氏第18代当主、佐竹義重の反対にあい頓挫したため、責任を取る形で隠居したという説が有力です。

 義重はそれ以前の天正9年(1581)、「御代田の戦い」において政宗の義父である田村清顕を破っています。そしてその後、蘆名氏とも同盟を結び、陸奥国への影響力を増していたのです。さらに田村氏の支配下にあった大内氏や二本松氏も相次いで田村氏から離反して、蘆名氏と手を結んでおり、伊達氏としてはこれ以上、蘆名氏との同盟継続が難しくなっていました。新しい方針で進むことを余儀なくされた伊達氏を、輝宗は若き政宗に託したのかもしれません。

 政宗はまだ若年であることを理由に家督の相続を断ったそうですが、重臣らの説得もあり決心したようです。そして当主となった政宗は蘆名氏との同盟を切り、蘆名氏や佐竹氏との戦いに突入していきます。


父殺し?蘆名氏、佐竹氏との対立

父輝宗の死と伊達氏の大敗

 天正13年(1585)、第17代当主となったばかりの政宗は、早々と蘆名氏や大内氏の領土に攻め込みます。このあたりは政宗の好戦的な性格を表していると言っていいでしょう。

 さらに大内氏の小手森城を陥落させた際には、周辺諸国、または身内の反政宗勢力に対しての見せしめのために、城内の人間を虐殺しています。

 二本松氏の当主である二本松義継(畠山義継)はすぐに降伏しましたが、政宗はこれを許さず、義継の領土のほとんどを没収しようとしました。これを政宗の父親である輝宗がなだめて緩和されますが、義継は深く政宗を憎むことになったのです。そして仲介のお礼に輝宗のもとを訪れた際に、義継はそのまま輝宗を拉致しました。

 輝宗はこの時、義継に殺されたとも、追撃してきた政宗の兵に義継もろとも射殺された、とも伝わっています。どちらにせよ、義継の遺体はかなり無残な扱いを受けたようです。政宗の性格の苛烈さを物語っています。

 政宗は初七日の法要後、すぐに二本松城を攻めて包囲しますが、豪雪によって苦戦。さらに常陸国より二本松城への義重の援軍が到着し、「人取橋の戦い」で激戦を演じますが、政宗は大敗を喫しました。政宗は命からがら帰還しています。

 天正14年(1586)に、再び出陣した政宗はまたも二本松城を包囲します。伊達氏側の調略によって二本松氏の勢力は瓦解した状態であり、相馬氏が仲介に入ってもらい二本松氏は城を明け渡して、蘆名氏の庇護を受けることになったのです。ここで政宗は蘆名氏と和睦しており、その後は佐竹氏とも和議を結んでいます。

奥州で最大の勢力となる

 しかし、またもや蘆名氏の当主がここで急死します。すると、蘆名氏の家臣団は伊達氏支持と、佐竹氏支持に分かれて意見が衝突。一方は政宗の弟である小次郎を当主に迎えることを主張し、一方は佐竹義重の二男である佐竹義広を当主になることを主張しました。

 ここでは蘆名の執権と呼ばれた金上盛備の政略も功を奏し、義広が蘆名氏の当主の座に就きます。これに納得のいかない政宗は再び、蘆名氏、佐竹氏との戦いを決意することになります。

 このとき、中央では秀吉が関白となり、関東や奥羽の諸大名に対し、みだりに交戦しないよう「惣無事令」を発していましたが、政宗はこれを無視して戦いを続けていきました。

 天正16年(1588)、政宗は陸奥国の戦国大名である大崎氏の家中の混乱に軍事介入しますが、ここで陸奥国の黒川氏が離反。さらに政宗の叔父である最上義光も伊達氏の領土に侵攻。蘆名氏、相馬氏も南より侵攻し、政宗は苗代田城を落とされてしまいました。

 かなり絶体絶命の危機に陥りますが、蘆名氏側についていた大内定綱が裏切って政宗につき、義光に対しても政宗の母親である義姫が説得して停戦が成り、政宗は田村清顕亡き後の田村氏の領土も制圧することに成功します。

 天正17年(1589)には、政宗はついに蘆名氏の拠点である会津の黒川城を攻めました。蘆名氏側は離反が相次ぎ、当主である蘆名義広は籠城を諦めて、佐竹氏の勢力下にある常陸国に逃亡します。こうして政宗はついに蘆名氏を滅ぼしたのです。

 さらに政宗は奥州の各地に勢力を広げていき、奥州の三分の一を支配するまでに至ったと伝わっています。石高への言及はありませんが、平安時代の奥州藤原氏に匹敵するほどになったようです。『重修真書太閤記』には、政宗は奥州で30を超える郡を支配していたと記されています。およそ150万石との記述も見られますので、まさに奥州最大勢力となったわけです。

 しかし、政宗の勢力拡大に対し、厳しい視線を送っている者がいました。天下統一目前の秀吉です。

太閤秀吉のイラスト

 政宗は秀吉の惣無事令を無視しているのですから、秀吉の怒りも理解できます。秀吉は黒川城に拠点を移した政宗に対し、会津を手放さない限り、奥州へ侵攻すると告げます。

 政宗はそれ以前から秀吉への恭順を示していました。しかし、政宗の本心は別にあったでしょう。秀吉の天下統一にはまだ時間を費やすことになり、その間に政宗がもっと勢力を拡大すれば、関東の北条氏と力を合せて充分に対抗できると考えていたのではないでしょうか。

 恭順はあくまでも表向きだけだったように思えます。ただし、秀吉はそんな政宗の想像をはるかに上回る速度で各地を統一していきました。そして残るは関東と奥州のみになってしまったのです。

豊臣政権下での政宗

秀吉への服従と小田原遅参による減封

 天下目前となった秀吉は、天正18年(1590)、全国の大名に命令を下し、関東に一大拠点を持つ北条氏の討伐を開始します。政宗は父輝宗の代から同盟を結んでいる北条氏に協力すべきか、秀吉に従って北条氏を攻めるべきか悩みます。

 北条が滅亡すれば、秀吉が天下人となるのは決定的であり、政宗がこれ以上領土を広げることは難しい状態になるでしょう。政宗はギリギリまで悩み抜き、北条氏の小田原城が包囲されている最中にようやく秀吉のもとに到着しました。これがいわゆる政宗の「小田原遅参」です。その結果、北条は全面降伏しています。


 政宗は遅参を秀吉に責められ、ようやく手にした陸奥国の会津などを没収。もちろん政宗に抵抗できる手段があろうはずもなく、政宗の領土は72万石まで減封されてしまい、奥州の一大名へと降格していったのです。

葛西・大崎一揆の仕掛人か?

 同年7月に小田原攻めを終えた秀吉は、まもなく残る奥州の地で「奥州仕置」を行ないますが、10月にはこの仕置で改易された陸奥国の葛西氏・大崎氏らの旧臣らが葛西大崎一揆を引き起こします。

 政宗は秀吉の命で一揆の鎮圧に乗り出しますが、いまだ領土拡大の野望を捨てきれなかったようです。そもそもこの一揆の裏には政宗の扇動があったという説が有力です。一揆を鎮圧することで、没収された陸奥国の葛西七郡、大崎五郡を取り戻そうとしたのでしょう。しかし、一揆発生直後から政宗の密書が蒲生氏郷の手に渡るなどして、すぐに疑われることになります。

 政宗は上洛して秀吉に弁明した後、徹底的に一揆を鎮圧し、その首謀者を皆殺しにしています。結果として一揆鎮圧後、政宗が一揆を扇動したとみなされたからか、政宗の所領の一部である40万石は没収されて蒲生氏郷へ与えられることに。代わりに一揆による荒廃のひどい葛西・大崎30万石が政宗に与えられたものの、経済的な損失はかなり大きなものだったようです。

 こうして政宗の家臣は困窮することになり、伊達成実、鬼庭綱元、国分盛重、遠藤宗信らが相次いで出奔する事態に陥ります。

文禄の役で注目を浴びる

 拠点を大崎五郡の玉造郡岩手沢城に移し、岩出山城へ改名。ちょうど秀吉から羽柴姓を与えられており、羽柴大崎侍従と自称した政宗は、文禄2年(1593)、朝鮮出兵のために上洛しました。文禄の役です。

 秀吉同様に派手好みの政宗は、兵の装束を絢爛豪華なものにさせて上洛したため、京の住民たちも大いに喜びました。派手好みを「伊達者」と呼ぶようになったのは、これ以来と伝わっています。

 しかし、傘下になるのが遅すぎたこともあり、政宗は秀吉に重用されることがありませんでした。しかも政宗の叔父にあたる最上義光の娘が、関白である豊臣秀次の側室になったばかりの時期に、謀叛の疑いで秀次が切腹し、妻子や側室が全員処刑されてしまいます。

 謀叛の疑いは政宗にも及ぶことになりました。この時、政宗は伊予国へ改易される寸前でしたが、周囲の助けもあって、何とか免れています。

 このように豊臣政権下での政宗は、秀吉によって徐々にその力を削がれていき、南奥州の覇者から一転して不遇の立場へと追いやられていったのです。

関ケ原では家康率いる東軍に加担

 天下人になった秀吉は諸大名が許可なく結婚することを禁止しており、嫡男の秀頼が幼いことから、晩年は天下の舵取りを五大老の筆頭である家康に託していました。

秀吉死後は家康に接近

 慶長2年(1598)に秀吉が亡くなると、家康は積極的に力のある諸大名と縁戚関係を結んで勢力を拡大していきます。その婚姻には、家康六男の松平忠輝と政宗の長女・五郎八姫(いろはひめ)の婚姻も含まれていました。

五郎八姫の肖像画(瑞巌寺宝物館蔵)
五郎八姫の肖像画(瑞巌寺宝物館蔵)

 こうした中、慶長5年(1600)の春には、豊臣政権内部で権力を強化していた家康と、五大老の一人・上杉景勝との関係が悪化。家康が上杉征伐の兵をあげると、家康から上杉領への攻撃命令を受けていた政宗は、同年7月に上杉方の白石城を攻略するなどしています。(白石城の戦い)

露に消えた「百万石のお墨付き」

 一方、上杉征伐の隙をついて、西軍率いる石田三成が打倒家康を掲げて挙兵。家康は三成との決戦(=関ケ原合戦)のために引き返すのですが、このときに政宗は「百万石のお墨付き」、すなわち、家康から「政宗が東軍に味方して勝利した際には、かつて伊達氏が秀吉に没収された会津領の自力回復を許す」という特権を与えられていたようです。

 政宗は "絶好の機会" だと喜んだはずですが、相手は強敵の上杉氏。奪い返すことができたのは、わずかに刈田郡だけで、福島城の本庄繁長によって苦戦を強いられます。しかも、家康派として上杉征伐に参加していた南部氏の領内で発生した岩崎一揆が、実は政宗の扇動によるものだったことが発覚してしまいます。政宗はかねてから南部氏領をねらっており、妨害工作を仕掛けていたのです。

 せっかくの挽回のチャンスでしたが、政宗は関ヶ原で勝利した家康派にもかかわらず、余計な策略を用いたため、家康の不信を招いて「百万石のお墨付き」が反故にされ、ほんのわずかな領土の拡大しかできませんでした。

徳川の世では、仙台で為政者として活躍

 徳川幕府が開かれて太平の世となると、政宗はこれまでの野心に満ちた策謀家から一転して、優れた為政者へと変貌を遂げます。

 慶長6年(1601)、拠点を仙台に移し、ここに仙台藩が誕生します。政宗は江戸幕府から松平の姓を与えられ、松平陸奥守を自称することになりました。関ケ原の戦いで百万石を目指した政宗は、62万石にとどまりましたが、それでもこの石高は全国の大名の中で第三位に位置しています。

現在の仙台城跡の鳥瞰図
現在の仙台城跡の鳥瞰図

仙台城跡(大手門脇の櫓)
仙台城跡(大手門脇の櫓)

 仙台の城下町を発展させていくだけでなく、政宗は慶長18年(1613)に「慶長遣欧使節」をエスパーニャ(スペイン)やローマに派遣しています。正使はルイス・ソテロ、副使は政宗の家臣である支倉常長です。ただし帰国後の日本はキリスト教禁止の時代に突入しており、ルイス・ソテロは火刑、常長も失意のまま没しました。

大坂の陣で真田信繁(幸村)と対決

 慶長19年(1614)、家康は豊臣氏を滅ぼすべく大坂城に侵攻。政宗も家康に味方し、大坂城を攻めました。大坂冬の陣では、和睦後の外堀埋め立ての役目を果たしました。さらに翌年の大坂夏の陣における道明寺の戦いでは、またもやインパクトのある行動を残しています。

 当初は豊臣方の有力武将である後藤又兵衛を自刃に追いやる等の活躍をしますが、救援に向かってきた真田幸村隊と交戦して反撃を受けると後退。その後、政宗は味方の水野勝成から真田隊への再攻撃を要請されてもことごとく断っており、幸村からは「関東勢は100万いても男は1人もいない」と嘲笑されたといいます。

 驚くべきことに、このときの戦闘中、政宗は水野隊を味方討ちしたともいい、続く夏の陣の最終決戦となった天王寺の戦いでも、一説には徳川方の神保相茂隊300名を味方討ちして全滅させたとも伝わります。ただし、大坂城陥落後に政宗が家康から責められた記録はありません。伊予国10万石が政宗の子である伊達秀宗に与えられています。

 なお、激突した幸村は家康の本陣めがけて突撃し、戦死していますが、その二男である真田守信を政宗は保護しています。そのおかげもあって、真田氏は仙台藩の中で血筋を守っていくことができたのです。

長野県 JR上田駅前にある真田幸村像
長野県 JR上田駅前にある真田幸村像

晩年の政宗

 政宗はそのまま2代目将軍・徳川秀忠、続いて3代目将軍・家光に仕えました。寛永12年(1635)に参勤交代のお触れが出た際には、政宗がこの命令を支持したために諸藩の大名は誰も逆らえなかったといいます。翌寛永13年(1636)に病没、享年70でした。

 死の直前には愛姫からの見舞いの申し出も断り、妻子にも死に顔をみせずに見栄を貫いたと伝わっています。戦国乱世に生きた最後の英雄はこうして静かにこの世を去っていったのです。


おわりに

 将軍家光は、政宗の死に際し、江戸や京の人々に服喪するように命じています。これはかなり異例の待遇で、それだけ政宗が家光から尊敬されていたことを示していると言えます。

 調略などを使い、領土拡大を画策した政宗でしたが、晩年は日本の平和を守るために野心を捨てたのではないでしょうか。家康亡き後、江戸幕府を支えてきたのが政宗だったのかもしれません。だからこそ家光はここまで政宗を慕っていたのでしょう。

 もしあと10年早く政宗が誕生していたら、天下の形勢はどうなっていたのでしょうか?奥州の政宗、関東の北条氏、そして東海の家康が手を組んで秀吉を倒していたかもしれません。そうしたら果たして政宗の天下になっていたのかどうか興味深いところです。政宗が、そう想像させるほどの器量の持ちだったことは間違いないでしょう。


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【主な参考文献】
  • 小和田哲男『史伝 伊達政宗』(学研プラス、2000年)
  • 小林清治『人物叢書 伊達政宗』(吉川弘文館、1985年)
  • 高橋富雄『伊達政宗のすべて』(新人物往来社、1984年)

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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