【蘭丸の父】森可成 十文字槍で信長の矛となり、盾として守り抜いた「攻めの三左」

  • 2026/01/08
森可成の肖像(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
森可成の肖像(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
  • ※本記事は一部にプロモーションを含みます
 織田信長の家臣団といえば、柴田勝家や羽柴秀吉といった面々がまず浮かびますが、彼らが台頭する以前、初期の織田軍団を軍事・政治の両面で牽引した一人の宿将がいました。森三左衛門可成(もり さんざえもん よしなり)です。

 信長より12歳年上の可成は、美濃斎藤氏から転仕して以来、若き日の信長を支え続けました。後に本能寺で殉じた森蘭丸や、猛将・森長可の父としても知られますが、彼自身の生涯もまた、信長の天下統一への道筋を切り拓くための激闘の連続でした。今回は、信長がその死を深く惜しみ、一族を重用し続けるきっかけとなった「攻めの三左」の足跡を辿ります。

草創期の織田家を支えた「兄貴分」

 森可成は大永3年(1523)、美濃国境に近い尾張国葉栗郡蓮台に生まれました。元来は美濃斎藤氏に仕えていた森家ですが、可成は早い段階で織田信秀、そしてその子・信長に仕えるようになります。

 当時の信長は、身内からも反旗を翻される不安定な立場にありました。その危機のひとつが、弘治2年(1556)の「稲生の戦い」です。信長の家督継承に異を唱えた実弟・信行(信勝)との決戦ですが、この時、信行側には後に織田家の双璧となる柴田勝家がついていました。

 数倍の兵力差がある中、可成は信長の親衛隊として最前線に立ちます。この戦いで信長軍は勝利を収めますが、可成のような「信長自らが鍛え上げた実戦部隊」の奮戦がなければ、後の織田政権は存在しなかったと言っても過言ではありません。可成は、若き「うつけ者」と呼ばれた時代の信長を、軍事の師に近い立場で支え続けたのです。

美濃攻略と上洛:軍事と行政の双方で発揮された才覚

 美濃は枢要の地で「美濃を制する者は天下を制する」ともいわれています。信長は永禄3年(1560)の桶狭間の戦いを経て、悲願である美濃攻略に乗り出します。

 この過程で、可成は重要な役割を演じます。信長の命で永禄8年(1565)に美濃の要衝・烏峰城(後の兼山城)を攻略すると、この城の守将として美濃攻略の拠点守備を任されます。信長にとって美濃は「天下の門」であり、そこを守る者に可成を選んだ事実は、彼の信頼度の高さを示しているのです。

 さらに、美濃平定の翌年の足利義昭を奉じた上洛戦(1568)でも、可成は常に先鋒を務めました。上洛後の畿内平定戦において、三好三人衆の一人・岩成友通の守る勝龍寺城への攻撃では、柴田勝家、蜂屋頼隆、坂井政尚とともに熾烈な突撃を敢行。それからわずか数週間で畿内を平定する原動力となりました。

信長の上洛戦(1568年)の要所。色塗部分は畿内。青マーカーは織田方。赤は降伏させた敵城。

 特筆すべきは、可成が単なる武闘派ではなかった点でしょう。信長は畿内平定後、行政担当者として柴田勝家や佐久間信盛らと共に可成を抜擢。当時の発給文書には、年貢の徴収や寺社勢力との交渉に当たる可成の署名が残されています。信長の掲げた「能力主義」に基づき、軍事の最前線から戦後統治の実務までをこなす、マルチな才能を持った重臣として重用されていたことがわかります。


「槍の三左」の象徴:十文字槍と独創的な武具

 戦場での可成は、「槍の三左(三左衛門)」の異名で知られていました。その名の由来となったのが、愛用の「十文字槍」です。

 通常の槍が「突く」ことに特化しているのに対し、十文字槍は左右に枝刃があるため、敵を「引っ掛ける」「払う」「切りつける」といった複雑な動作が可能です。これを自在に操るには、卓越した身体能力と修練が必要でした。この武勇は息子の長可にも受け継がれ、森家代々の象徴となりました。

 また、彼の個性を象徴するのが「銀箔押し大釘の兜」です。鉄錆地のシンプルな兜の頂に、銀色の巨大な釘が真っ直ぐに突き出したこのデザインは、戦場において強烈な識別性を発揮しました。

銀箔押し大釘の兜のイラストイメージ(AI生成)
銀箔押し大釘の兜のイラストイメージ(AI生成)

 釘には「敵を打ち抜く」という意味もあり、ゲンを担いだのでしょう。派手な装飾を排し、質実剛健ながらも威圧感を与える出で立ちは、敵兵にとって「恐怖の標的」となりました。

宇佐山城の激闘:信長の窮地を救った壮絶な最期

 可成の生涯のクライマックスであり、同時に最期となったのが、元亀元年(1570)の志賀の陣でした。

 同年に浅井長政の離反によって窮地に陥った信長は、京都・岐阜間の生命線を守るため、琵琶湖周辺の拠点に精鋭を配置して守備を固めます(近江支配体制)。その中でも、岐阜・京都間の通路を確保する最重要拠点・宇佐山城を託されたのが可成でした。この時、北から押し寄せる「信長包囲網」の大軍を食い止めるという、織田軍団の命運を左右する重責が彼の双肩にかかっていたのです。

信長の近江支配体制マップ(1570~72年頃)。色塗部分は近江国(※戦国ヒストリー編集部作成。© OpenStreetMap contributors)
信長の近江支配体制マップ(1570~72年頃)。色塗部分は近江国(※戦国ヒストリー編集部作成。© OpenStreetMap contributors)

 信長が本願寺との和睦交渉をしている最中の9月、浅井・朝倉軍に比叡山の僧兵などを加えた3万もの大軍が南下を開始。このとき宇佐山城には可成と織田信治(信長の弟)の軍勢3千ほどの兵しかいませんでした。

 普通であれば籠城を選ぶ場面ですが、可成はあえて打って出ます。自ら一千ほどの兵を率いて出撃、城の麓である坂本付近に布陣し、圧倒的な兵力差を誇る浅井・朝倉連合軍を迎え撃ちました。数日にわたる激戦の中で、可成は敵の進軍を食い止め続けましたが、9月20日、ついに多勢に無勢となり、信長の弟・信治と共に戦死を遂げました。享年48。

 その後も遺臣たちの奮戦によって持ちこたえ、最終的に信長が態勢を立て直すための貴重な時間を稼ぎ出しました。もし可成がここで踏み止まらなければ、信長は背後をつかれ、織田軍は崩壊していた可能性もあったのです。

 可成の死後、森家の名は息子たちによって歴史に刻まれ続けます。家督を継いだ次男・森長可は「鬼武蔵」と呼ばれ、父に勝るとも劣らぬ戦いぶりで織田信忠(信長の嫡男)を支えました。三男の蘭丸、そして坊丸、力丸らは小姓として信長に召し出され、本能寺の変(1582)で最期まで信長に寄り添い命を落としました。

 2代にわたって信長に手厚く仕えた森家の存在は、信長にとってとても頼もしく、心強い存在であったにちがいありません。


おわりに

 森可成は、秀吉や家康のような華々しい成功物語の陰に隠れがちな武将です。しかし彼のように若き頃から信長に仕えた宿将が最前線で命を張らなければ、信長の天下布武はどこかで頓挫していたでしょう。

 「攻めの三左」という呼び名には、単なる武勇だけでなく、信長が目指した新しい時代の先陣を切るという覚悟が込められていました。現在、滋賀県大津市の宇佐山城跡近くには可成の墓があり、今も静かに琵琶湖を見下ろしています。織田軍団最強の「盾」であり「矛」であった男の足跡は、今もなお戦国史の重要な1ページとして輝きを放っています。

【参考文献】
※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
  この記事を書いた人
元・医療従事者。出産・育児をきっかけに、ライター業へと転向。 現在はフリーランスとして、自分自身が「おもしろい!やってみたい!」 と思えるテーマを中心にライティングを手掛けている。 わが子の子育ても「得意を伸ばす」がモットー。

コメント欄

  • ※この記事に関する感想・議論は、「コメントする」ボタンから投稿(要会員登録)いただけます。
  • ※誤字脱字等のご指摘は編集部で迅速に対応するため、[こちらの専用窓口]から直接お知らせいただけますと幸いです。