織田信長の家臣団まとめ。組織図・変遷・各方面軍団の顔ぶれなど。
- 2019/07/18
いつの時代においても、戦国大名の中で圧倒的な人気を誇っている織田信長。そして彼の家臣団も明智光秀・羽柴秀吉・柴田勝家などに代表されるように、多くの人気武将たちが揃っています。
信長は人材登用において能力主義の傾向が高く、しかも破竹の勢いで勢力拡大していったため、一口に信長家臣団といっても、時期によってその組織構造や編成、顔ぶれにも変化がみられます。
そこで本記事では信長家臣団をテーマに、信長研究の第一人者で知られる谷口克弘氏の見解を元に体系的にまとめてみました。
信長は人材登用において能力主義の傾向が高く、しかも破竹の勢いで勢力拡大していったため、一口に信長家臣団といっても、時期によってその組織構造や編成、顔ぶれにも変化がみられます。
そこで本記事では信長家臣団をテーマに、信長研究の第一人者で知られる谷口克弘氏の見解を元に体系的にまとめてみました。
【目次】
初期の信長家臣団はこんな感じ。
以下は永禄3年(1560)、桶狭間の戦いの頃における初期の信長家臣団の組織図です。これが信長家臣団の組織のベースとなりますが、のちの勢力拡大に伴い、メンバーや組織図も変容していくことになります。
連枝衆
連枝衆とは信長の親族(兄弟・子・叔父・甥・従兄弟など)のみで構成されているグループです。部将
独立した軍を動かすほど軍事力を持つ家臣グループです。旗本よりも大身。家老の林秀貞をはじめ、のちに方面軍団の指揮官となった柴田勝家や佐久間信盛らがいます。
ちなみに信長の父である織田信秀時代の四家老といえば、筆頭家老に林秀貞、2番家老に平手政秀、3・4番手にそれぞれ青山・内藤勝介ですが、桶狭間合戦の頃には、林だけが信長に仕えていたとみられています。
平手はすでに没し、青山・内藤は信長に仕えたかどうかも定かでないようです。なお、信長は「家老」という役職は、家ではなく、個人に与えられるものと考えていたといいます。
旗本
馬廻・小姓など、比較的小身の家臣グループ。合戦では総大将の本陣を固めました。桶狭間合戦には、のちに北陸方面軍団の主力として柴田勝家の与力を務めた佐々成政や前田利家のほか、今川義元を討ち取った毛利良勝、信長の幼なじみだった池田恒興なども参戦しています。吏僚
右筆・奉行衆・同朋衆など。一般政務にたずさわる家臣グループです。主な人物としては、京都所司代を務めた村井貞勝、堺の代官となった松井友閑、信長に対して怯まずに物申したという武井夕庵などがいます。信長は尾張統一を果たすと、美濃と伊勢の2カ国の攻略に取り掛かり、永禄10年(1567)に美濃国を平定。続いて翌年には、足利義昭を奉じて上洛を果たしています。
その間、「部将」グループには丹羽長秀、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)、滝川一益、水野信元、美濃三人衆といった名だたる顔ぶれも加わっていきますが、信長の上洛までは家臣団組織に特に変化はみられなかったようです。
信長の上洛後、信長家臣団は勢力拡大にともない、徐々に変化をみせますが、とりわけそれが著しいのが前述の組織図における「部将」グループでした。
以降で説明する近江支配体制や各方面軍などがこれに該当します。
近江支配体制の確立(1570-72年)
近江支配体制とは、信長の同盟者であった北近江・浅井長政が裏切ったことを機に、元亀元年(1570)から2~3年間、信長が近江国の要所に有力家臣を配置した支配体制を指します。以下は近江各地に配置された信長の宿将たちです。
- 宇佐山城:森可成→明智光秀
- 長光寺城:柴田勝家
- 永原城:佐久間信盛
- 安土:中川重政
- 横山城:木下秀吉
- 佐和山城:丹羽長秀
- 新庄城:磯野員昌(元浅井配下の将)
近江支配体制の当初の目的は、信長の居城がある岐阜城と将軍御所のある京都の通路を確保することでした。メンバーは森可成、柴田勝家、佐久間信盛、中川重政の4人でスタートしています。
しかし、信長と将軍義昭との関係が悪化していくと、浅井・朝倉に加えて、本願寺・三好三人衆なども反信長勢力に加わったため、近江平定のための軍事体制という意味合いに変化していきます。
信長は反織田勢力との戦いが進むにつれて、新たに木下秀吉・丹羽長秀・明智光秀・磯野員昌と次々に起用していきました。
なお、明智は森可成が浅井・朝倉連合との戦いで討死したため、代わりに宇佐山城へ入城し、のちに坂本城へ移っています。
翌元亀2年(1571)までには、7人の将による軍事支配体制がおおむね確立しました。彼らは単に領地を与えられただけでなく、降伏した近江国衆らもその配下に与えられていたのです。
その後の近江支配体制は?
元亀3年(1572)になると、まず中川重政が改易となります。理由は領地が隣接する長光寺城の柴田勝家と利権を巡ってトラブルを起こし、信長の怒りを買ったらしいです。その後、天正元年(1573)には情勢が大きく変化。信長は将軍足利義昭を追放し、さらに浅井・朝倉両氏も立て続けに滅ぼして反織田勢力を一掃します。これにより、浅井滅亡に貢献した秀吉は、戦後に北近江三郡の支配者となり、丹羽長秀には若狭の支配権が与えられました。
このように織田家の勢力拡大とともに7人の宿将らの役割も変化。やがて軍を分散する必要性も生じ、近江支配体制は解体されて各方面軍団の形成へと移行していくことになるのです。
初の大軍団・信忠軍が成立(1573年)
信長の嫡子である織田信忠軍の誕生は天正元年(1573)と推定されています。この年に信忠が17歳で元服し、尾張国の一部と東美濃の支配権を信長から譲られたと考えられています。その目的は甲斐の武田勝頼の押さえが任務だったといいます。 この「信忠軍団」が、信長から大軍団を与えられた最初のケースとなりました。信忠は信長の後継者ゆえに特別な存在だったということですね。
信忠軍団はその信忠をトップとして、主に尾張衆と美濃衆から成っています。
- 尾張衆:
河尻秀隆、池田恒興(のちに遊撃軍へ)、毛利長秀、塚本小大膳、浅井政貞、水野忠重、団忠正、丹羽氏次など - 美濃衆:
森長可、斎藤新五郎、坂井越中守、佐藤秀方、遠山友忠など
信忠軍はやがて、信長からの家督譲渡、佐久間信盛の追放により、佐久間軍の一部を吸収する等、拡張していきます。
天正10年(1582)の甲州征伐の際には、信長本隊も遅れて出陣したとはいえ、実際には滝川一益を軍監につけた信忠軍のみで武田を滅亡へと追いやっている程です。
各方面軍が次々と誕生(1576-82年)
やがて信長の勢力がさらに拡大して四方の敵と隣接するようになると、信忠軍に続き、万単位の兵を持つ大軍団を有力家臣に与えてこれを指揮させました。それが各方面軍です。もちろん方面軍編成の目的は天下統一に向けた各方面の制圧です。各軍の成立時期や司令官などは以下のとおりです。
- 天正4年(1576)、北陸方面軍(柴田勝家)と大阪方面軍(佐久間信盛)が成立。
- 天正8年(1580)、佐久間信盛が追放され、大阪方面軍が消滅。同年に中国方面軍(羽柴秀吉)と幾内方面軍(明智光秀)が成立。
- 天正10年(1582)、関東管領軍(滝川一益)と四国方面軍(織田信孝)が成立。
以降、各方面軍についてそれぞれみていきましょう。
北陸方面軍(司令官:柴田勝家)
天正4年(1576)に、加賀平定を一任された柴田勝家が北陸方面の司令官に任命されたことで成立。その配下は主に柴田の与力となった府中三人衆(不破光治・佐々成政・前田利家)、そして、かつて越前朝倉氏を滅ぼして織田家臣に組み込まれていた越前の国衆たち(越前素衆)です。
ただし、この軍団も侵略が進みにつれて、各国の国衆を取り込んで肥大化。最終的には、前田利家が能登、佐々成政が越中、佐久間盛政が加賀半国を与えられ、それぞれがさらに与力を付されています。
- 前田利家、能登衆(長好連、土肥親真など)、越前衆(一部のみ)
- 佐久間盛政、徳山則秀、加賀衆(一部のみ)
- 佐々成政、越中衆(神保長住、神保氏張、土肥政繁など)、越前衆(一部のみ)
- 金森長近
- 原政茂
- 越前衆(一部のみ)
大坂方面軍(司令官:佐久間信盛)
天正4年(1576)の本願寺攻めの際、指揮官の塙直政が討死。大坂方面軍は、その後任として佐久間信盛・信栄父子が天王寺砦を守備したことがきっかけで誕生しました。その目的は本願寺勢力の駆逐です。信盛には配下に三河・尾張・近江・大和・河内・和泉・紀伊の7ヶ国もの与力がつけられ、織田家臣団でも最大規模のものだったというので、信長の並々ならぬ本気度がうかがえますね。以下は組織構成とそのメンバーです。
- 三河衆(高木清秀)
- 尾張衆(水野守隆、水野忠重、梶川高盛、島信重、島一正など…)
- 近江衆(進藤賢盛、山岡景隆、山岡景宗、青地元珍、池田景雄)
- 大和衆(松永久秀、松永久通、箸尾為綱)
- 河内衆(池田教正、多羅尾綱知、野間左橘兵衛)
- 和泉衆(沼間任世、寺田生家、松浦肥前守、真鍋七五三兵衛)
- 紀伊衆(保田知宗、根来寺衆)
天正8年(1580)、本願寺との戦いは結局、講和という信長が望まない形で終結します。信長の怒りは軍事的に圧倒できなかった佐久間父子に向けられ、大阪方面軍は消滅してしまいます。
解散となった大阪方面軍のメンバーですが、尾張・美濃衆の一部は信忠軍団に編成されています。また、河内衆は信長の直属となり、大和衆の箸尾為綱は筒井順慶の配下となったようです。その他の武将の所属はハッキリしていません。
なお、筒井順慶はその後まもなく、同年に成立した幾内方面軍に属することになります。
中国方面軍(司令官:羽柴秀吉)
天正5年(1577)に秀吉が播磨に進出して以降、別所氏や荒木村重の謀反もあり、侵略は難航しましたが、天正8年(1580)の時点で播磨平定を完了。
この年すでに但馬・因幡も支配し、備前の宇喜多直家や伯耆の南条元続も味方につけ、毛利氏との激闘が繰り広げられていました。秀吉を司令官とした中国方面軍はこの頃に成立したとされています。
メンバー構成は以下。
- 羽柴秀長、宮部継潤、但馬衆、因幡衆
- 尾張衆(蜂須賀正勝、前野長康、杉原家次ほか…)
- 近江衆
- 播磨衆(黒田官兵衛、別所重棟、赤松広秀など…)
幾内方面軍(司令官:明智光秀)
光秀は、天正7年(1579)に丹波と丹後を平定し、翌年の佐久間信盛の追放も重なったことで、この軍団の司令官に任命されています。以下のように、メンバー構成は幾内5カ国にまたがっています。
- 近江衆
- 山城衆
- 丹波衆
- 筒井順慶と大和衆
- 細川藤孝と丹後衆
関東管領軍(司令官:滝川一益)
天正10年(1582)の3月に武田を滅ぼした後、功を立てた滝川一益が旧武田領である上野国と信濃国の小県・佐久の2郡を与えられると同時に関東管領軍の司令官に任命されます。
とはいっても、その目的は軍事ではなく、関東や東北の諸大名との外交にあったようです。なぜなら関東の北条氏は既に織田家への従属を表明していたし、東北の諸大名らの多くも信長に取り入っていたからです。
- 伊勢衆
- 信濃衆(真田昌幸ほか…)
- 上野衆
- 下野衆
- 武蔵衆
四国方面軍(司令官:織田信孝)
信長が本能寺で横死する約1か月ほど前、織田軍による四国攻めが決定されました。その総司令官に抜擢されたのが、信長三男の信孝です。長宗我部元親の討伐軍として四国方面軍が成立したワケですが、信長の死によって四国攻めは頓挫となってしまいます。以下、メンバー構成。
- 北伊勢衆
- 三好康長、河内衆・阿波衆
- 丹羽長秀と若狭衆
- 蜂屋頼隆と和泉衆
- 津田信澄と近江衆(高島郡)
- 近江衆(甲賀郡)
- 伊賀衆
- 紀伊衆
- 丹波衆
遊撃軍
なお、各方面軍とは別に「遊撃軍」といった括りがあります。これは兵力が2~3千程度と少数であり、方面軍ほどの兵力を持っていない軍団を指します。合戦では信長直轄軍に所属したり、方面軍の援軍をするなど、単独で合戦に臨むことは少ないとされています。ちなみに「一定の方面に固定されない軍団」という意味ではないようです。例えば、羽柴秀吉軍は、天正5年(1577)からの播磨攻めで、方面は固定されていますが、当初は ”遊撃軍” とみなしています。播磨平定後、毛利氏との対決に入ってはじめて中国方面軍が成立したとされているのです。
本能寺直前における信長家臣団は?
以下は本能寺直前の最終的な信長家臣団の組織図です。初期の信長家臣団の各グループと比べると、「信忠軍」が独立し、「部将」も方面軍団に細分化されています。その他、「外様衆」と、「旗本」の中に "旗本部将" が追加されている点も見逃せません。
連枝衆と吏僚は初期の家臣団と同じなので説明は割愛します。方面軍についても解説既なので、ここでは「外様衆」「旗本部将」のみをみていきます。
旗本部将
上記の組織図には記載されていませんが、元亀元~3年(1570~72)頃に近江国の支配体制が築かれていたことは先に述べました。しかし、その体制で抜擢されたメンバーはやがて方面軍の指揮官として四散していったため、近江国は天正8年(1580)頃より、信長が直接支配を進めていき、近江に残された武将たちを自身の直轄軍に組み入れていったようです。これが「旗本部将」という枠組みです。
なお、近江衆以外にも、遊撃軍として活躍してきた西美濃衆の稲葉一鉄や氏家直通も、最終的にここに属したようです。
外様衆
外様とは、一般に譜代と比較して遅い時期に主君に従属した者らを指しますが、ここでいう外様衆とは、そうした者たちではないようです。管領家の細川昭元や幕府奉行衆の松田監物など、元々身分は高かったものの、武将や吏僚として役に立たないと信長に判断された者たちを指しています。まとめ
いかがだったでしょうか。こうして主に時系列でざっくりまとめてみると、信長は支配領域を拡大していく過程において、柔軟に家臣団組織を変えていったことがよくわかります。特に「部将」グループにおける近江支配体制や方面軍団などは、現代の企業の組織編成にあてはめると、システム開発などで編成されるプロジェクト組織といったところでしょうか。信長の組織運営は、まさに現代企業における組織運営と通ずるものがあったのです。
【主な参考文献】
- 谷口克広『信長の親衛隊 戦国覇者の多彩な人材』中公新書、1998年。
- 谷口克広『織田信長合戦全録 -桶狭間から本能寺まで』中公新書、2002年。
- 谷口克広『信長軍の司令官 -部将たちの出世競争』中公新書、2005年。
- 太田牛一『現代語訳 信長公記』新人物文庫、2013年。
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