天徳寺宝衍(佐野房綱) 小田原征伐を先導した知られざる秀吉の軍師…名将から貴族、宣教師まで幅広い人脈

 かなりマイナーですが、豊臣秀吉の天下統一の最終段階、小田原征伐で大きな役割を果たした関東の武将がいます。「関東御案内」役を務めた天徳寺宝衍(てんとくじ・ほうえん)です。

 国人領主(国衆)・佐野氏出身の僧侶兼武将で、若いときから諸国を歩いて幅広い人脈を築き、貴族、宣教師とも交流しました。天下を狙った有力戦国大名の書状にも、たびたびその名が登場する外交官であり、隠れた参謀、軍師でもありました。どんな役割を果たしたのか探っていきましょう。

秀郷流名門・佐野氏出身 諸国を歩き人脈築く

 天徳寺宝衍は唐沢山城(栃木県佐野市)を拠点とする下野・佐野氏の出身です。佐野氏は平将門の乱を鎮圧した名将・藤原秀郷の子孫、秀郷流藤原氏の名門武家。しかも、佐野の地は藤原秀郷の拠点で、秀郷ゆかりの寺社や秀郷にまつわる民話があり、秀郷直系意識の強い一族です。

 諱(実名)「佐野房綱(さの ふさつな)」を名乗った期間は短く、「天徳寺了伯」の呼称も後世の史料に出てくるもので、同時代史料にはみられません。

唐沢山城跡(栃木県佐野市)
唐沢山城跡(栃木県佐野市)

佐野氏激動の時代を支える

 天徳寺宝衍が生きた時代、佐野氏当主はめまぐるしく変わります。

  • 13代・佐野泰綱(天徳寺宝衍らの父。祖父説あり)
  • 14代・佐野豊綱(天徳寺宝衍、昌綱らの長兄。父説あり)
  • 15代・佐野昌綱(天徳寺宝衍の兄)
  • 16代・佐野宗綱(昌綱の嫡男。天徳寺宝衍の甥)
  • 17代・佐野氏忠(北条氏康六男。北条氏による事実上の乗っ取り)
  • 18代・佐野房綱(天徳寺宝衍自身。北条氏滅亡で佐野氏血統が復活)
  • 19代・佐野信吉(豊臣秀吉の側近・富田一白の五男を養子に)

 生まれた年は享禄3年(1530)生まれの兄昌綱とさほど変わらないようです。佐野宗綱の弟とする系図もあり、地元史料の没年齢から永禄元年(1558)説や天文14年(1545)説がありますが、昌綱の弟とみて間違いなく、史料にない享禄3年から数年以内の生まれと推定するのは理由があります。

蹴鞠、和歌 貴族文化に精通?

 天文17年(1548)の時点で天徳寺宝衍の活動記録があります。

 貴族・山科言継(やましな・ときつぐ)の日記『言継卿記』によると、京の飛鳥井(あすかい)雅綱邸での蹴鞠に「下野天徳寺」という人物が参加していました。飛鳥井氏は蹴鞠の師範の家です。このとき、若くても10代後半。兄・佐野昌綱の年子なら18歳です。

 さらに、天文19年(1550)には、覚恕法親王(後奈良天皇の皇子、後の天台座主)が書写した藤原定家の歌論集『詠歌大概』の写本を山科言継から譲り受けます。この向学心と貴族人脈はなかなかのものです。

 また、天正7年(1579)6月、昌綱の肖像画が完成しますが、描いたのは狩野永徳の父・松栄、画像上部の画賛(文章)は京都五山・天龍寺の高僧・策彦周良です。いずれも大物。天徳寺宝衍の奔走が想像できます。

武田信玄、塚原卜伝…広がる人脈

 「天徳寺」の名は1560年代には北条氏、上杉氏の書状に登場。既に佐野氏の外交僧として活動していたのです。『甲陽軍鑑』にも、武田信玄と上方の調停に「天徳寺」が奔走したことが書かれています。信玄とも面識があったのです。『甲陽軍鑑』の史料的価値は検討しなければなりませんが、武田氏周辺に天徳寺宝衍の評判が伝わっていた可能性はあります。

 また、剣豪・塚原卜伝に剣術指南を受けたという伝承もあります。

北条氏の佐野氏乗っ取りで苦境

 天徳寺宝衍の兄・佐野昌綱は居城・唐沢山城を何度も上杉謙信に攻められました。人質を出し、謙信家臣を城番に迎え入れ、一時的に謙信に従いますが、基本的には独立を保ちました。

 北条氏の侵攻の最前線に立たされていたので、上杉謙信配下になると、格好の標的となってしまいます。北条氏に脅かされ、上杉謙信に期待した関東の国衆もいましたが、謙信は関東進出と越後への帰還を繰り返し、全面的に頼りにすることはできなかったのです。

信玄、謙信に仕官?謎の弟・遊願寺

 戦国時代、兄弟で家督を争う家は多かったのですが、佐野氏は兄昌綱と天徳寺宝衍は明確に役割を分担しました。兄弟争いを避けるため、天徳寺宝衍が早くに出家したのかもしれません。

 また、地元の軍記物『唐沢城老談記』によると、兄弟には「遊願寺」という弟がいました。遊願寺は佐野を出て、武田信玄に仕えます。合戦で手柄を挙げた遊願寺の実名を聞くと、信玄は上杉謙信への仕官を勧めます。

信玄:「名の知れた武勇の者ではないか。その名を知ったからには1000貫以下で召し抱えるわけにはいかない。ただ、わが家は武勇優れた代々の家臣にも300貫、500貫しか取らせていない。貴公が大将と頼むべきは、わし以外では上杉謙信しかいないだろう」

 遊願寺は越後へ行き、謙信に気に入られ、長刀の師範を務めますが、直江山城守に謀殺されます。直江山城守とは、上杉景勝(上杉謙信の養子)の家老・直江兼続ですが、兼続が頭角を現すのは天正8年(1580)ごろですから、かなりの期間、上杉家に仕えていたのか、若き日の直江兼続にやられたのか謎が残ります。実在の人物とみるのは微妙なところです。

滝川一益に従い、諸将との連絡役

 天正10年(1582)、織田信長が武田勝頼を滅ぼし、関東に進出します。尖兵は滝川一益。天徳寺宝衍は一益に従って関東諸将との連絡に奔走します。信長の麾下に入るよう説き、滝川一益との間を取り持つ役目です。

 具体的には、太田資正、梶原政景父子や里見義頼らと交渉しました。北条氏に抵抗したり、一族内の北条派に追われたりした武将で、信長への接近を図っていました。ところが、信長は本能寺の変で横死。滝川一益も関東から去ります。事態は振り出しに戻り、北条氏の圧力がますます強まっていきます。

甥・宗綱 元日の討ち死に

 天徳寺宝衍の実家・佐野氏も北条氏の脅威にさらされています。佐野昌綱死後、その嫡男・宗綱が継ぎますが、天正14年(1586)元日、北条氏に服属していた足利城主・長尾顕長と戦い、戦死します。須花坂の戦いです。

 母の制止も家臣の諫言も聞かず、「戦いに正月も盆もない」「思い立ったが吉日」と出陣。長尾顕長にはこれまで負けたことがないと相手を侮り、挑発に乗って鉄砲で撃たれてしまいました。佐野宗綱は若く、嫡男がいなかったところを北条氏につけ入られました。

 また、家臣の中に北条氏と気脈を通じる者もいました。天徳寺宝衍は対抗して佐竹氏から養子を迎えるよう画策。常陸の佐竹氏は北関東反北条連合の中核です。しかし、この年8月、唐沢山城は北条派に占拠され、天徳寺宝衍は佐野を去ります。

 北条氏康の六男・氏忠が死んだ佐野宗綱の娘婿になります。氏忠はこのとき30代で既に妻子もいました。一方、宗綱は27歳。娘はまだ子供で、娘婿といっても形式にすぎません。佐野氏忠は小田原から北条家臣団210人を引き連れてきました。佐野古参の家臣129人を上回り、彼らから人質も取ります。北条氏による乗っ取りです。

小田原征伐 秀吉の天下統一を先導

 天正18年(1590)、豊臣秀吉が北条氏を滅亡に追い込んだ小田原征伐で、天徳寺宝衍は関東御案内として、秀吉を先導します。天徳寺宝衍はかなり以前から秀吉と関係を築いていたようです。

 例えば、天正4年(1576)、佐野宗綱が信長の推挙で但馬守の官位を得ますが、天徳寺宝衍はこのとき既に信長、秀吉ら中央勢力と関係を築いていたとみられます。

宣教師ルイス・フロイスとの会見

 天正15年(1587)、天徳寺宝衍はキリスト教宣教師ルイス・フロイスと会っています。

 フロイスの『日本史』は、軍師を多数輩出している足利学校(栃木県足利市)を「日本の大学」とし、天徳寺宝衍をその優等生、「坂東の貴人」としています。天徳寺宝衍はヨーロッパやキリスト教について熱心に質問し、旺盛な知識欲はルイス・フロイスを感心させました。また、関白・豊臣秀吉との関係を説明しました。

宝衍:「数年前に戦いで敗れ、流浪の身になってしまったが、関白のご意向で復帰できることを期待している」

秀吉から拝領の朱書き「龍綺兜」

 秀吉との関係では、唐沢山神社に伝わる「龍綺(りゅうき)の兜」があります。高さ47センチ、鋭角な三角形に近い全体像。その頂点がくるりと巻き取られた形で、なかなか奇抜なフォルムです。

 天正3年(1575)、秀吉から拝領したとの朱書きがあり、もともと信長が秀吉に贈ったものとの説明もあります。朱書き自体は後世のものとみられていますが。

関東絵地図を提出

 天正17年(1589)、秀吉が常陸・片野城(茨城県石岡市)の太田資正に送った書状は「来年早々に小田原を攻める」と準備を指示したうえで「細部は天徳寺と石田三成に聞いてくれ」と書かれていました。

 天正18年(1590)、常陸・小田城(茨城県つくば市)の梶原政景が上総・大多喜城(千葉県大多喜町)の正木頼時に送った書状にも、秀吉の朱印状に天徳寺宝衍の長文の書状が添えられていたことが記されています。

 また、天徳寺宝衍の側近・山上道牛(やまがみ・どうぎゅう)は関東絵地図を秀吉子飼いの加藤清正に提出。天徳寺宝衍がチームで関東情勢を調査していたようです。

忍城攻め 甲斐姫奮戦にたじたじ

 天徳寺宝衍は外交僧、秀吉軍団幕僚でしたが、武将としての顔もあります。

 『佐野記』では、小田原城攻めで先陣し、酒匂川の合戦で軍功を挙げたといいます。地元の軍記物なので誇張、創作も交じっているでしょうが、武将としても勇猛だったといいます。

 4月28日には、大将として実家である唐沢山城を落とします。城主・佐野氏忠以下主力は小田原城守備に駆り出され、旧知の家臣もいるので、労なく落とせたかもしれません。

唐沢山城本丸跡の高石垣(栃木県佐野市)
唐沢山城本丸跡の高石垣(栃木県佐野市)

弓の腕も抜群 勇猛な甲斐姫

 簡単に落ちた城もあれば、なかなか落ちない城もありました。

 忍城(埼玉県行田市)の開城は7月16日ですが、奮戦したのが城主・成田氏長の長女甲斐姫です。伝承では19歳。「東国無双の美女」という評判で、武芸も達者。父と主力部隊は小田原城守備で不在、敵兵は7~8倍、城代・成田泰季は籠城中に75歳で急死という厳しい状況でした。泰季の嫡男・成田長親が守備兵3000を指揮します。

 『成田記』によると、天徳寺宝衍は甲斐姫との一戦で大恥をかきます。ねずみ色の頭巾をかぶり、鎧の上に紫の衣を羽織って、左手に水晶の数珠、右手にサンゴの如意(孫の手の形状の仏具)という姿。忍城下忍口を攻める佐野勢を指揮しました。横合いから攻撃してきた成田勢の中に甲斐姫を見つけると、配下の兵は色めき立ち、甲斐姫を生け捕りにしようと勇み出ます。そして、大勢が甲斐姫の矢に射殺されました。

2年間限定、唐沢山城主

 北条氏滅亡後、天徳寺宝衍は還俗し、佐野房綱と名乗って佐野氏当主、唐沢山城主に就きます。しかし、これは2年間限定。天正20年(1592)には秀吉お側衆、お伽衆の同僚・富田一白の五男信種を養子とし、家督を譲ります。名も改め、佐野信吉です。

 ただ、佐野領3万9000石は佐野信吉・富田氏出身の新参家臣と隠居した天徳寺宝衍・旧家臣団で折半。ほぼ半分は天徳寺派が確保しました。

 また、隠居後も天徳寺宝衍はお伽衆として秀吉側近として行動。文禄・慶長の役では肥前・名護屋城(佐賀県唐津市)に同行。晩年まで秀吉に重用されました。

おわりに

 天徳寺宝衍は慶長2年(1601)7月2日に死去。戦国の激動、特に東国については見るべきものを見尽くしての往生といえます。諸国を歩き、戦国の勝者を見抜いて接近し、その秀吉の下で能力を発揮したのです。新しい時代を縦横無尽に生きたとても興味深い人物といえるのではないでしょうか。

栃木県佐野市・報恩寺の天徳寺宝衍墓所
栃木県佐野市・報恩寺の天徳寺宝衍墓所


【主な参考文献】
  • 出居博『武士たちの夢の跡 戦国唐沢山城』(佐野ロータリークラブ)
  • 佐野市史編さん委員会編『佐野市史』(栃木県佐野市)
  • 『田沼町史』(栃木県田沼町=現佐野市)
  • 産経新聞社宇都宮支局編『小山評定の群像 関ヶ原を戦った武将たち』(随想舎)

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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