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「本庄繁長の乱(本庄城の戦い、1568年)」牙を剥く上杉の鬼神! 謙信を翻弄した越後最恐の内乱

帯刀コロク
 2018/04/08

越後の龍・上杉謙信といえば、高い人気を誇る戦国武将としてあまりにも有名です。 斜陽の室町幕府や朝廷を守護し、「義の人」と呼ばれることもある謙信ですが、意外なことにその家臣団は必ずしも従順ではありませんでした。それというのも、越後の国は強力な国人衆が影響力をもち、謙信自身がそれらの抗争を制して越後の長に登り詰めた経緯があったためです。

今回は謙信が直面した越後の内乱のうち、「鬼神」とまで称された「本庄繁長」が1568年(永禄11年)に起こした反乱について概観してみます。正確な一次史料が見つかっておらず伝承的な部分も多い事件ですが、一般に伝えられる内容に即して古都のあらましを追ってみたいと思います。

上杉謙信は時代とともに様々に名を変えていますが、本コラムでは混乱を避けるため「謙信」で統一します。

合戦の背景

第四次川中島の戦いにおける、上杉軍内の不協和音

本庄繁長の乱を引き起こす遠因は、1561年(永禄4年)の「第四次川中島の戦い」にさかのぼります。

周知のとおり戦国史上屈指の激戦として名高いこの戦闘では、信玄に迫った謙信が直接対峙したなどの伝説が生まれました。 これが史実であるかどうかはさておき、実際に謙信自らも太刀を振るったと書状が伝える肉薄戦となり、上杉・武田両軍が甚大な被害を受けつつ痛み分けのような形で収束しました。

しかし、この戦闘における謙信の作戦に異を唱え非難した家臣がいました。 謙信の「七手組」と呼ばれた有力武将の一人、「長尾藤景」です。

両軍あらゆる戦術を尽くして激しく干戈を交えた第四次川中島の戦いでしたが、同時に大規模な消耗戦でもあり、ともに失うもの多くして得るところがほとんどなかったと評されることすらあります。

当時の戦況から、部隊指揮官の立場として長尾藤景も大いに思うところがあったものでしょう。 ですがこの対立は根深いものになったとされており、以降謙信と藤景の関係には大きな溝ができたといわれています。 そして、ついには藤景誅殺の命がくだることになったのです。

戦に至る経緯

長尾藤景の討伐命令が下されたのは1568年(永禄11年)のことで、これを実行したのが本庄城主「本庄繁長」でした。 藤景・景治の兄弟を祝宴の名目で誘い出し謀殺するという、強硬な手段を用いての遂行でした。 繁長自身も負傷したといわれていますが、この任務に対して謙信からは一切の褒賞が下されなかったとされています。 このことに大いに不満をもった繁長に、折しも謙信の上洛妨害を目論む武田方からのコンタクトを受けます。 武田方は謙信周辺の国人や諸勢力に対し、しきりに調略を行って切り離し・寝返りを起こさせる工作を行っていました。 繁長はこの勧誘に応じ、謙信に敵対することを選択したのです。

合戦の経過・結果

本庄繁長の離反と「揚北衆(あがきたしゅう)」とは

謙信が能登国の内乱に介入するため越中国方面へと進軍した隙に乗じ、繁長はかねてより謙信に不満をもっていたとされる越後の有力国人衆に反抗を促す密書を送ります。

本庄氏の分家筋などを中心とする国人層で、彼らを「揚北衆(あがきたしゅう)」と総称しています。

「揚北」とは「阿賀北」、すなわち阿賀野川以北の国人衆を指しており、古来自立心が高く度々越後守護や守護代と敵対してきた経緯がありました。

繁長自身もこの揚北衆の一員であるため、揚北連合勢力をもって越後の権益を狙う目算があったものと考えられます。 しかし、密書を送付したうちの一人「中条景資」はこれを拒否。密書をそのまま謙信に届け、繁長の謀反が発覚します。 謙信は即時越中の陣を引き、本拠である越後の春日山城に帰還。本庄繁長討伐の軍を起こしその拠点である本庄城の攻略にとりかかります。

本庄城のスペック

戦闘の経過を見る前に、本庄繁長の乱の主戦場となったその拠点「本庄城」についてスペックを概観しておきましょう。 本庄城は現在の新潟県村上市二之町に所在した平山城で、「村上城」「舞鶴城」などの別名でも知られています。 標高約135メートルの臥牛山に築かれ、村上市のほぼ中央に立地しています。臥牛山は三面川の支流である門前川の左岸にそびえ、天然の要害としての威容を誇っていました。 正確な築城年代は定かではありませんが16世紀の初めにはすでに要塞があったと考えられ、本庄氏代々の拠点と位置付けられてきました。 「臥牛山」の名が示す通り、平地に突如として巨大な牛が横たわったかのような山容を呈しており、比高の利を活かした高い防御能力を有していたことがうかがえます。

孤立してもなお、頑強に抵抗した本庄城

武田方の誘いを受ける形で謙信に反旗を翻した本庄繁長でしたが、実際にはほぼ孤立した状態での作戦行動であったようです。 それというのも同年7月、武田軍は上杉方の前線基地である信濃の「飯山城」攻略にとりかかったものの、それ以上の進軍を阻まれていたためです。 越後に侵入するためにはこの飯山城攻略が必要でしたが、ここで足止めされたために繁長の勢力にも合流することがかないませんでした。 武田・上杉ともにこの時期には同時多方面への軍事行動を展開しており、どちらも本庄繁長の乱への兵力集中が難しいタイミングでもあったのです。 繁長を積極支援していたのは庄内の「大宝寺義増」でしたが、そちらも領内での内紛などによりほとんど求心力を失っていた状態だったと考えられています。 謙信は当初は各方面への派兵指揮のため春日山城を動けず、配下の「柿崎景家」「直江景綱」らが本庄城攻略に派遣されましたが、繁長は寡兵ながら頑強に応戦。 謙信自身が出陣できたのは武田軍が飯山城から撤兵した後のことで、即座に繁長を支援していた大宝寺義増の討伐に向かいます。 義増はこの動きに対して早々に降伏。嫡男の義氏を人質として差し出しました。 これにより完全に孤立した本庄城に向け、謙信は同年11月半ば頃にかけておよそ1万ともされる兵力を投入。 しかし本庄城は依然として落ちることなく、逆に攻城戦の過程や繁長軍による夜襲などにより、上杉軍に1,000名ほどもの死傷者が出たともいわれています。

局地戦のエキスパート、本庄繁長

この戦闘が長期化した理由には本庄城の堅牢さはもとより、繁長による用兵の巧みさが指摘されています。 籠城戦に加えて夜間戦闘や補給部隊への襲撃など、神出鬼没の局地戦で確実に上杉軍の兵力を消耗させていったことが伝えられています。 繁長はこののちの大きな戦でも兵力で上回る敵を相手に勝利しており、少数部隊を運用した局地戦のエキスパートであったという評価を受けています。 軍神とまで呼ばれた謙信を相手に一歩も引かず、本庄城はついに落城することはありませんでしたが、会津の「蘆名氏」や米沢の「伊達氏」らの仲介を経て和睦。 繁長は翌1569年(永禄12年)3月に嫡男の「千代丸」を人質に差し出し、この戦闘はようやくの終結を迎えました。

戦後

繁長は助命されましたが、謙信の存命中には表立った活躍の記録はありません。 その名が再び歴史の表舞台に現れるのは「上杉景勝」の時代で、以降の生涯を景勝と上杉家に捧げました。 一度は謙信に弓を引いた繁長でしたが、その武勇と忠義は語り継がれ1614年(慶長18年)に74歳の生涯を閉じたと伝わっています。 景勝は繁長を讃え、「武人八幡」の称号を贈ったとされています。

まとめ

本庄繁長の謙信からの離反の理由には不明確な部分が多く、その真実は未だ謎に包まれています。

しかし同じ国内の勢力かつ、自身を脅かすほどの剛の者が牙を剥いたというこの事件は、謙信にとってはまさしく巨大な脅威であったことでしょう。

逆にいえば、それだけ精強な国人を抱えた越後の気風こそが、軍神・上杉謙信を育んだのかもしれませんね。


【主な参考文献】
  • 『日本歴史地名体系』(ジャパンナレッジ版) 平凡社
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 『歴史群像シリーズ 50 戦国合戦大全 上巻 下剋上の奔流と群雄の戦い』 1997 学習研究社
  • 村上市公式HP 国指定史跡村上城跡(お城山)

  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術に ...


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