本多正信ってどんな人? 名言や逸話からその人物像に迫る

『徳川二十将図』にみえる本多正信(東京国立博物館蔵、出典:collBase)
『徳川二十将図』にみえる本多正信(東京国立博物館蔵、出典:collBase)
 徳川家康の家臣と言われて、誰が思い浮かぶでしょうか。家康には四天王と呼ばれる名将がおり、秀吉に”東国無双”と称された本多忠勝や、今川人質時代から家康を支えた酒井忠次などがいます。しかし、家康が最も自分の近くで相談し、頼りにしたのは本多正信でした。

正信は戦場での活躍はほぼありませんでしたが、外交や内政面で家康を大きく支え、松永久秀にはこう評された家康唯一無二の家臣でした。

「徳川の侍を見ることは少なくないが、多くは武勇一辺倒の輩。しかしひとり正信は剛にあらず、柔にあらず、卑にあらず、非常の器である」『藩翰譜』


 今年の大河ドラマ「どうする家康」で本多正信を演じるのは松山ケンイチさんなので、物語の重要な役であることが明らかです。今回はそんな本多正信の名言や逸話として伝わっている言葉を紹介しながら、その人物像に迫っていきたいと思います。

誕生から一向一揆、出奔

 正信は天文7年(1538)、または天文8年(1539)、本多俊正の次男として、三河国で生まれました。三河には多くの本多氏がいますが、正信の家系は弥八郎家と言われ、母は家康の祖父・松平清康の侍女として務めていたと言います。元々は三河国西城(現在の愛知県西尾市)の一族と言われ、祖父の正定は織田信長の父・信秀の安城城攻めで討死しています。

 正信は家康の人質時代には家康に鷹匠として仕えていたと言われています。『佐久間軍記』によると、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いの際、家康が活躍した丸根砦で負傷し、以降は戦場に出られなくなったと言われています。しかし、その後一向一揆の一員として各地で活動していたこともあり、この話が事実だったかは疑問が残ります。

 家康と正信は永禄6年(1563)に始まった三河一向一揆の際、一向一揆側についた正信と敵対することになりました。正信が一向宗だったからとも、酒井忠尚の誘いによるとも言われています。基本的には一向宗だったためとされ、一揆の鎮圧後は妻子を置いて三河を離れています。加賀で一向一揆に加わったとも、松永久秀の家臣になったともされていますが、詳細は不明です。

家康の元に戻り、家康の相談役となる

 正信は元亀元年(1570)頃には家康の家臣に戻っています。大久保忠世の仲介で戻った正信はその後、家康の相談役的な立場で活動していきます。天正10年(1582)の本能寺の変の際、家康は堺(大阪府堺市)の町に滞在していました。明智光秀から逃れるため、家康は伊賀の山越えを行うことになります。この時、正信も同行していたという説があります。

 苦楽をともにした後、正信は織田軍が撤退して権力の空白地帯となった信濃・甲斐に進軍します。この地域をめぐる北条氏との争いに勝利した家康は正信を信濃・甲斐の奉行に任じて統治を任せます。旧武田家臣団を領内の安定化のために味方にし、小牧・長久手で秀吉と家康が争った際も後方を安定させて家康に貢献しています。

 家康と秀吉の対立が終わろうとしていた天正13年(1585)、家康の重臣だった石川数正が秀吉に寝返るという大事件が発生。以後、家康は酒井忠次や本多正信を特に重視しています。実際、翌天正14年(1586)に秀吉が家康の家臣に官位を与えた際、本多忠勝や榊原康政・井伊直政と同じ従五位下に任じられています。

 最高位の従四位下である酒井忠次は別格として、武功がないにもかかわらず、徳川四天王と称される4人と同じという点に、家康がどれだけ正信を重視していた存在かが見えています。

 天正18年(1590)に北条氏を滅ぼす小田原征伐が行われ、その後家康は関東に領地を移すことになりました。この際正信は玉縄(神奈川県鎌倉市)1万石を与えられています。奥州の一揆や朝鮮出兵で江戸不在だった家康の代わりに江戸城の修築を指揮し、江戸の町づくりでも貢献しています。

 慶長5年(1600)に起こった関ケ原の戦いは、慶長3年(1598)に秀吉が病死したことで豊臣政権が崩壊した結果起こりました。この時期は正信が家康と積極的に行動しており、家康の方針決定に多く関わっていたことが分かっています。

 関ヶ原の戦い後、石田三成の嫡男・重家の処分について、2人は話し合っています。この際、正信は重家が許しを請うため出家していることとともに、三成の『大功』を理由に彼を赦免するように進言したと言います。家康がその『大功』の内容を聞くと、正信はこう答えました。

「治部は西国大名を糾合して関ヶ原という無用の戦を起こし、そのおかげで日ノ本60余州は全て徳川家に服すことになったのです」『名将言行録』


 家康はこの言葉にもっともだと答え、石田重家に罰を加えずに赦免しました。

 また、正信はあえて苛烈な処分を家康に提案し、家康が順当な処罰をすることで家康の権威を高める役割を担っていました。関ヶ原の戦いの後、本多正信は発端となった上杉氏家臣の直江兼続について、こう言って厳しい処分を家康に提案しています。

「直江兼続はこの乱の張本人ですから、誅罰されるべきです」『名将言行録』


 これに対し家康は「諸大名の老臣は石田三成に頼まれて主人に兵を起こさせた。直江を誅すれば諸大名の老臣たちも危険を感じて乱を起こすからしない」と答え、処罰をしませんでした。このため各大名家では家臣による軽挙妄動を慎むよう重臣が家康に協力的になったと言われています。

 似たような話として、この頃の家康についてこうした話もあります。側仕えだった家臣が失態を犯しました。怒りの収まらない家康の様子に、正信が急きょ城に呼ばれました。そこで経緯を聞いた正信は、家康以上に怒り心頭といった様子で彼らを叱責しました。その結果、家康は逆に冷静になって苦笑しました。その様子を見た正信はこう言っています。

「お前達は、上様の腹の虫の居所が悪くて叱られたと思ってはならぬ。お前達を大事に思われるからこその御教訓なのだ。1人前の人間として召し使ってやろうとのお心から、言わないでもいいことを仰られたのだ。上様はお前らの祖父や父の武功や忠義の事を決してお忘れではない。だからお前達も1度、上様の御機嫌を損じたからと御前を遠慮するではないぞ。ところで、上様はお怒りで大声を出されたので喉が渇いておいでだ。お茶を差し上げよ」『明良洪範』


 そうして場が落ち着いたことで、彼らはすぐに許されることになり、仕事も元の職に戻ることになりました。より感情的な人間を見ると人は冷静になります。正信はそれを実践することで家康が落ち着くように演技してみせた様子が感じられます。

晩年と遺言

 家康は慶長10年(1605)に征夷大将軍の職を息子の秀忠に譲り、自らは駿府城で名目上隠居しました。家康の側では正信の跡継ぎである本多正純が仕えていましたが、何かあれば正信が呼び出されていました。

 慶長11年(1606)、正信と同じ関東総奉行だった青山忠成と内藤清成が家康の怒りを買いました。両名は正信に相談し、正信は駿府城に向かいました。家康は青山・内藤両名を切腹させかねないほど怒っていました。そこで正信は両名を取りなしたと言われています。

「こんな小さな事でこんなに家臣を恐れさせるなら、毎度諫言する私を串刺しにせねばなりません」『明良洪範』


 家康はこの正信の言葉を受けて青山・内藤の両名を許すことにし、2人はその後秀忠に忠実に仕え続け幕府の基礎固めに貢献しています。ただ、この事件は正信の奉行としての地位確保を画策した家康・正信の共謀という説もあります。

 豊臣氏との戦いとなった慶長19(1614)年の大坂冬の陣では、本多正信が和睦の条件を拡大解釈して丸裸にしたという説があります。近年では堀の埋め立ては豊臣氏も納得していたという説が有力ですが、こうした謀略を正信が担っていたために現在でも正信説は完全に否定されていません。この説によれば、秀頼家臣の大野治長らが約束違反を指摘しようとしたものの、正信は高齢からくる病気を理由に顔を出さず、堀が埋まってからようやく大野治長に会ったと言われています。

「ここまで堀を埋めぬようにとのお使いで参りましたが、無分別者どもがはやくも全部埋めてしまう、面目なき次第です。このうえは施すべき術もありません」『名将言行録』


 正信は堀の埋め立てを問い質す大野治長に、こう言ったと言われています。彼は責任をとって大坂から江戸に戻りましたが、家康は結果に満足していたと言われています。自分が泥をかぶることで家康が戦いやすい環境をつくるというのは、正信の得意な方法でした。

 正信は豊臣氏の滅亡後、元和2(1616)年6月に亡くなりました。家康の病死から2か月後であり、家康が死ぬまで支え続けたと言えるでしょう。正信は遺言として、正純にこう言い残しています。

「我の死後に、汝は必ず増地を賜るだろう。3万石までは本多家に賜る分としてお受けせよ。だがそれ以上は決して受けてはならぬ。もし辞退しなければ、禍が必ず降り懸かるであろう」『明良洪範』


 本多正信は生涯玉縄の領地(最大2万2千石)以外は家康から受け取りませんでした。これは権勢を振るう人間が領地も持てば嫉妬されることを正信が考えていたからです。家康が本当に重用したのは正信ですが、領地は本多忠勝(桑名10万石)や榊原康政(館林10万石)などの方が圧倒的に多かったわけです。そうすることで彼ら家康を武勇で支えた将を労いつつ、徳川政権の屋台骨を正信が務めたと言えます。

 また、正信は家康の後を継いだ徳川秀忠にもこのように伝え、正純が領地を求めないよう根回しをしていました。

「もしこれまで正信のご奉公をお忘れでなく、長く子孫が続くことを思し召しされるのなら、嫡男正純の所領は今のままで、これより多くなさらないように」『明良洪範』


 しかし、正純は結局この後自らの権勢を利用して宇都宮15万5千石の領地を得ます。その結果秀忠やその側近である土井利勝に危険視され、最終的には領地没収の上横手(秋田県横手市)に幽閉(外出禁止処分)され生涯を終えることとなりました。ただし、近年の研究により正純が加増を何度か断っていたことがわかってきました。それでも加増となったのは2代将軍の秀忠の意向だったと見られており、中央政治から遠ざけるため宇都宮に転封したという説が近年は主張されています。

まとめ

 本多正信という人物は、気苦労の多い家康にとって精神安定剤のような人物だったのでしょう。怒りで判断が鈍っていればそれを鎮め、必要な時に家康が決断できる状況を整えることに徹したのでしょう。そのため、家康から「友」と呼ばれるほどの信頼を得ていたと考えられます。

 徳川家康は遺訓の中でこのような言葉を遺しています。

「君臣上下の次第乱れたためことごとく滅亡せり。君は威勢を失うべからず、臣は威勢をほしいままにすべからず」『東照宮御遺訓附録』


 これは下総国の戦国大名・千葉氏(千葉県佐倉市)が滅亡した話に絡めた言葉です。千葉氏は家老の原氏という大領主がいたため、君臣の境目が曖昧となって暗殺される当主が複数出ました。その結果自主性を失って小田原の北条氏に依存し、北条氏と一緒に秀吉に滅ぼされました。

 家臣が強大な力を持つことはいい結果を生みません。特に家老のような要職にいる家臣が領地を持つと、周囲の反感を買ったり支配の障害となるのです。この言葉には、先程紹介した本多正信の考え方がそのまま見てとれます。実際はこの遺訓や正信の言葉の通り、正信の子孫は事実上滅亡してしまいます。

 権勢を振るうならば領地を持たず、領地を持つなら権勢を振るわず。この後の江戸幕府はこの考えに基づいて運営された結果、250年の泰平を築いていくことになるのです。江戸幕府の要職である老中には初期を除いて2万5千石以上5万石以下の石高の譜代大名しか任命されませんでした。3代将軍である徳川家光の時代に土井利勝(16万2千石)・酒井忠勝(12万3千石)が引退して最後となりました。2人は大老職の始まりとなり、以後幕府滅亡までこの制度は存続したのでした。

 本多正信は、江戸幕府成立の頃にはこうした幕府の体制が見通せていたため、子どもに遺言として伝えたのでしょう。正純と子孫の没落は、ある意味必然だったのかもしれません。


【主な参考文献】
  • 『日本教育文庫 家訓篇』(同文館、1910年)
  • 煎本増夫『戦国時代の徳川氏』(新人物往来社、1998年)
  • 大久保彦左衛門『現代語訳 三河物語』(筑摩書房、2018年)
  • 岡谷繁実『現代語訳 名将言行録』(講談社、2013年)
  • 坂本俊夫 『宇都宮藩・高徳藩』(現代書館、2011年)
  • 真田増誉『明良洪範』(国書刊行会、1912年)

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  この記事を書いた人
つまみライチ さん
大学では日本史学を専攻。中世史(特に鎌倉末期から室町時代末期)で卒業論文を執筆。 その後教員をしながら技術史(近代~戦後医学史、産業革命史、世界大戦期までの兵器史、戦後コンピューター開発史、戦後日本の品種改良史)を調査し、創作活動などで生かしています。

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