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  • 徳川家康
 2019/05/10

「本多正信」幕閣として絶大な権力を得た家康のブレーン

本多正信の肖像画

本多正信は、徳川家康のブレーンとして戦以外の面でも様々な活躍を見せた武将です。そのため、同じ本多姓でも本多忠勝とは異なり文官である、というイメージをお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、若かりし頃の正信は家康に反逆するほどの武闘派で、10年近く家康の元を離れて諸国を流浪していた経歴を持ちます。こうした経歴があるにも関わらず、家康に許されてからは幕府で老中の職を務めるまでに成りあがっていくのです。これは、正信の優れた能力が彼の名誉回復に大きく関与したと考えられます。

そこで、この記事では正信の生涯を史料から分析し、家康による信頼の根本を探っていきたいと思います。
(文=とーじん)

本多正信家の出自と歴史

本多家のルーツはとても古く、摂関期に絶大な権力を保持した藤原兼通(道長の伯父)の子・顕光の子孫にあたります。

元々は豊後国(大分県)に居を構えていたようですが、その子孫たちがいつの間にか三河国(現在の静岡県)に移り住んでいたようです。

こうして三河土着の一族となっていった本多家ですが、生息していた地域によっていくつかの諸家に分かれていたようです。

例えば、忠勝が属していたのは「本多平八郎家」で、正信が属していたのは「本多弥八郎家」という具合です。
なお、本家がどの本多家なのかはハッキリしていません。

本多一族の略系図
本多一族の略系図

このように本多一族は三河中に広がっていたため、同じ本多姓を名乗っていても同族という意識は薄かった、という見方もなされています。松平家に仕え始めた時期も異なっており、弥八郎家は松平清康(=徳川家康の祖父)の時代であったとされています。

清康に仕え始めた弥八郎家は、三河国西城(現在の静岡県安城市小川町)を本拠としていました。一般に本多家は「安城譜代(徳川家で最古参とされる家臣)」と考えられますが、弥八郎家に限って言えば新参の家臣であるという説もあるようです。

また、正信の父俊正は家康の鷹匠(=鷹を飼い鷹狩りに従事する役職)として徳川家に仕えており、正信の出世は自身の能力に依るものが大きいと考えられます。

では次項から正信の生涯をみていきましょう。

家康に仕えるも、一揆をきっかけに諸国を流浪

ハッキリしない前半生

正信は天文17年(1538年)、鷹匠を務めた父俊正の次男として誕生しました。

父同様に鷹匠を務めたといい、永禄3年(1560年)に勃発した桶狭間の戦いで出陣した記録が残されています。この頃には戦にも参加するようになっていたようですが、一連の戦いでひざを負傷した正信は、生涯足が不自由になってしまったと記録されています。ただし、正信の前半生はほとんどわかっておらず、これらの記録はなんの確証もありません。

その後、永禄6年(1563年)には今川家から独立を果たした家康の最初の試練・三河一向一揆が勃発。このとき正信は家康を裏切って一揆衆に味方したため、一揆鎮圧後は徳川家を出奔します。

一揆に加担した理由とは?

ところで正信が一揆衆に味方したのはなぜでしょうか。その原因を知るためには、当時の「信仰の強さ」を把握する必要があります。

戦国時代における仏教信仰は絶対的なものがあり、「信仰」を掲げて仏の名のもとに反乱を繰り広げられた場合、彼らを鎮圧することはすなわち仏に剣を向けることを意味したのです。

このため、三河の例だけでなく全国で一向一揆は大きな脅威となりました。その証拠に、あの信長ですら本願寺を屈服させるのに約10年という長期を要し、最終的には焼き討ちによって汚名を被ることでなんとか支配下に置くことができました。

三河一向一揆は、家康の家臣団内にも多くの一向衆門徒がいたため、家中で敵味方に分かれて戦ったのです。 本多一族も敵味方に分かれています。忠勝・重次・広孝などは家康方でしたが、正信や弟の正重は一揆方に加担して上野城に龍ったのです。

正信のように一揆衆に味方した徳川家臣は決して少なくなく、この裏切りは彼が風見鶏のような性格をしていたことを意味するものではありません。とはいえ、家康を裏切ってしまったのは事実。当然何事もなかったかのように帰参するわけにもいかず、諸国を放浪することになります。

どこに流浪した?

浪人中の正信について詳しいことは分かっていませんが、一説では松永久秀に仕えたとされています。

しかし、久秀のもとには留まらなかったようで、本願寺率いる一向衆の伝手を頼って加賀国(現在の石川県)に住んだと伝わります。加賀は一向衆の勢力が強い地であり、石山本願寺と連携して一向衆側に立ち織田信長と戦っていたという異説も。

帰参後は家康側近として地位確立へ

諸国を流浪した正信は、やがて徳川家へと帰参を果たします。

帰参に際して家康への取りなしを行なったのは大久保忠世であると伝わっています。姉川の戦いに際しては敵対した朝倉軍の中に突入して奮闘していたともいいますが、帰参の具体的な時期やキッカケについて詳しいことは分かっていません。

その後、天正10年(1582年)の旧武田領の争奪戦(天正壬午の乱)を経て、徳川家の5カ国領有時代になると、家康の命令で旧武田領の統治を任され、同時に軍略家として家康の側近に。ここから吏僚として頭角をあらわしていきます。

家康が羽柴秀吉と対決した天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いでは、周辺各国の戦国大名らをも巻き込むほどの広域の合戦となりますが、正信はこのとき長宗我部氏に出兵を促す書状をだす等しており、外交面にも携わっていたことがうかがえます。

天正14年(1586年)には従五位下・佐渡守として叙任され、名実ともに家康の側近としての地位を確立。また、天正18年(1590年)の家康の関東入国に際して、相模国に1万石の領地を与えられて大名となっています。

関東領国時代と吏僚派の台頭

以後、家康は豊臣政権下で江戸の町づくりに邁進、そして天下泰平の世において軍人よりも役人の需要が高まっていきます。 この頃の徳川家臣団のトップは本多忠勝榊原康政井伊直政。いわゆる徳川三傑でしたが、 奉行職などの政治組織が整備されるとともに吏僚派の正信が家康の信頼を得ていくことになるのです。

慶長5年(1600年)、天下分け目の決戦・関ケ原の戦いでは中山道を進む徳川秀忠の参謀を務めます。

この進軍では秀忠が上田城で真田氏による足止めを食ったことで家康の逆鱗に触れることになりますが、正信は戦にはやる秀忠を諫めたものの、聞き入れられなかった、とされています。

ちなみに、徳川家の事績を伝える『三河物語』では、正信は秀忠を諫めなかった「悪役」という面が強調されています。

  • 秀忠は若かったため、すべては本多正信が取り仕切っていた。
  • 秀忠は何事も「佐渡次第とせよ」、つまり正信に従うように言っていたため、誰も諫言できなかった。
  • 正信は真田に騙されて4~5日を空費した。

ただし、これらは後世の創作であるということです。

正信は関ヶ原の戦後処理でも活躍。島津親子を上洛させ九州平定を果たしたこと、真田正幸を蟄居に追い込んだことも彼の功績とされています。これらの功は家康にも評価され、後に領地の加増を受けました。

戦後処理にも見られる正信の特徴は、家康や秀忠と家臣の間を取りなし、両者を調和させる能力に長けていたことです。

実際、正信の能力は「有事には軍政家として、普段は統治者として君臣の間を魚のように行き来している。それだけでなく、遠回しに諫めることで家康や秀忠の仲をむつまじいものにし、上下間の人間関係までを風通しの良いものにしている」と絶賛されています。

ちなみに戦後まもなく、家康は後継者選びのために5人の重臣を集め、意見を求めたといいます。そのメンバーは井伊直政・本多忠勝・平岩親吉・大久保忠隣、そして正信だったといいます。このとき正信は結城秀康、直政は松平忠吉、忠隣は徳川秀忠を推し、後日、家康は秀忠を世子にすることを発表したといいます。

この話の真偽はともかく、着目すべきは正信がこの時点で井伊直政らと並び、徳川家の中枢をなす重臣になっていたということでしょう。

幕閣として絶大な権力者へ

正信は江戸時代以降も文官として国政面で大きな貢献を果たします。

まず、家康が将軍職に就けるよう朝廷との交渉に力を発揮しました。

次に、かつて自身が属していたとされる本願寺内部に策を講じ、内部分裂を引き起こし勢力弱体化に成功します。これは、正信の経験が最大限に生かされた献策であったといえるでしょう。

家康が大御所として駿府に隠居してからも、2代将軍秀忠の側近として政策の指南役に任命されます。これは正信に対する絶対的な信頼を表しており、徳川家内部で正信の果たした功の大きさが分かります。

大久保忠隣との政争

そして慶長17年(1612年)、正信は将軍に次ぐ立場の老中に任命され、名実ともに秀忠の政権運営を支えることになります。

しかしその一方、正信と同じ幕閣の大久保忠隣との間には大きな確執があったといい、同年に起きた岡本大八事件の背景にも、両者の対立があったといわれています。

岡本大八事件とは、本多正純の家臣・岡本大八が朱印状を偽造して肥前国の有馬晴信を騙し、賄賂を受け取ったというもの。最終的に2人は幕府から尋問を受けて処刑となっています。なお、2人がいずれもキリシタンだったことから、以後、幕府は禁教に転じるようにもなります。

この事件で正信父子は配下の家臣が不祥事を起こしたために、大久保忠隣との権力闘争が不利になりますが、翌慶長18年(1613年)の大久保長安事件によって一気に形勢が逆転します。

大久保長安事件とは、代官頭であった大久保長安が亡くなり、多額の金銀の蓄財など、生前の不正が次々と摘発した事件です。 長安は大久保忠隣の庇護下にあった人物のため、忠隣は幕閣として苦しい立場に追いやられ、翌年に改易して失脚。これは正信が長安事件にからめて画策したとも言われています。

ただし、この出来事に関しては正信の具体的関与を示す史料が見つかっていません。とはいえ、正信の一存で家臣を失脚に追い込むほどの権力を得ていたことが、この説からは見てとれます。

このように、

こうして忠隣との政争にも勝ち、幕藩体制において不動の地位を得た正信ですが、元和2年(1616年)4月に家康が死去すると、家督を嫡男の正純に譲って隠居します。

以下は『寛政譜』にある正信評です。

「両御所に奉仕して、乱には軍謀にあずかり、治には国政を司り、君臣の間、相遭こと水魚のごとし」

家康と正信の親密さがよくうかがえます。江戸時代初期の国家の統治に多大な功績を残し、家康に”友”と呼ばれたという正信。同年6月、まるで友・家康の後を追うかのように息を引き取るのでした。


【主な参考文献】
  • 煎本増夫『徳川家康家臣団の事典』東京堂出版、2015年。
  • 柴裕之『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年。
  • 菊地浩之『徳川家臣団の謎』KADOKAWA、2016年。
  • 平井上総『長宗我部元親・盛親:四国一篇に切随へ、恣に威勢を振ふ』(ミネルヴァ書房、2016年)




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