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 2019/01/21

侘び茶の成立 豪華な上流階級の茶の湯から草庵の茶へ

侘び茶イラスト

室町時代の茶の湯文化は「殿中の茶」であったことを以前紹介しました。禅と結びつきの深い茶の湯が武家社会と結びつき、当時は上流階級がたしなむ文化でした。格式の高さや高級志向を廃して、新たに確立されたのが「侘び茶」でした。
(文=東 滋実)

殿中の茶から草庵の茶へ

殿中の茶は貴族や武家社会で定着した文化で、草庵の茶とは異なり、会合を行う会所で行われる催し物として楽しまれました。殿中の茶で特徴的なのは、豪華であることです。舶来品、特に唐物の茶道具を愛で、遊戯にふけりました。

侘び茶はそういったスタイルとはかけ離れたもので、豪華を排して簡素でシンプルな美を重んじました。この侘び茶は室町時代中期ごろに確立され、やがて安土桃山時代に大流行することになります。

侘び茶の創始者・村田珠光(むらたじゅこう/しゅこう)

その侘び茶の創始者が、室町中期ごろに活躍した茶人であり僧の村田珠光(1422(応永29)~1502(文亀2)年)です。

珠光は奈良の浄土宗寺院称名寺に入れられますが、出家を嫌がって京で茶の湯を学ぶようになります。殿中の茶に学び、能阿弥から指南を受けて能や連歌に親しみました。能阿弥は足利義政に仕えていたため、珠光も義政の茶会で豪華な唐物の茶道具に触れていました。また、「一休さん」として知られる臨済宗の僧・一休宗純とも交流があり、彼から禅を学びました。30歳の時には禅僧になっています。

珠光は茶の湯を勉強した時期に出会った彼らの影響を受けたことにより、能、連歌、禅の精神を追い求め、新たなお茶の味わい方である「侘び茶」の精神を見出したとされています。

殿中の茶が主流だった上流社会において、もてはやされるのは唐物の美しい磁器でしたが、珠光は日本に古くからある粗末な茶碗、いわゆる「土もの」を好み、新たな美意識を茶の湯文化にもたらしました。

珠光が愛したといわれる秘蔵の茶道具は「珠光名物」と呼ばれていますが、それらを見ると青磁器のような光る美しさはなく、茶色が多い印象。とても控えめです。

珠光は侘び茶の創始者であり茶の湯の祖ともいわれますが、彼が侘び茶を完成させたとは言えません。活躍した時代はまだまだ殿中の茶が主流でした。珠光が求めた精神は弟子に受け継がれ、数十年ののちに花開きます。

千 利休に影響を与えた武野紹鴎(たけのじょうおう)

武野紹鴎(1502(文亀2)~1555(弘治元)年)は、侘び茶の文化を発展させた人物として知られています。ほかに複数の弟子が侘び茶を受け継ぎ発展させていったといわれていますが、あまり詳しい資料は残っていません。

紹鴎は堺の豪商・茶人として知られる人物で、31歳のころに剃髪して紹鴎の名を名乗るようになりました。ほとんど資料が残っていないものの、千利休が「術は紹鴎、道は珠光より」と言ったとされることから、利休に影響を与えた茶人のひとりとして知られています。

紹鴎が生まれた年は珠光の没年とされる年と重なるため、直接かかわりを持っていたわけではありません。紹鴎は藤田宗理や十四屋宗陳(もずやそうちん)といった茶人に学んだとされています。

紹鴎は茶の湯だけでなく和歌もたしなみ、公家の三条西実隆(さんじょうにしさねたか)に師事して和歌を学んでいます。紹鴎の茶の湯には和歌の精神も取り入れられており、実隆から得るものは多かったようです。彼は藤原定家の「みわたせば 花ももみぢも なかりけり 浦のとまやの 秋の夕暮」という歌を侘び茶の精神としてとらえ、定家の歌に触れることで茶の湯の神髄にたどり着いたとされています。

このころには茶の湯は草庵で楽しまれるようになっており、紹鴎は2畳半から3畳半ほどの小さな茶室を考案して「侘敷(わびしき)」と称しました。4畳半以上の茶室は「寂敷(さびしき)」と呼びます。

侘び茶文化がもたらしたもの

珠光は唐物を排除するのではなく、新たな美を持ち込むことで共存させていきました。

そうやって始まった侘び茶文化が安土桃山時代に流行したことで、新たな産業も生まれました。唐物がもてはやされていた室町時代には、「土もの」をつくる日本の六古窯(ろっこよう)である瀬戸焼・常滑焼・越前焼・信楽焼・丹波立杭焼・備前焼は主に生活に使う器を専門としていたといわれています。

それが、珠光にその美を見出されたことにより茶の湯の世界に持ち込まれ、侘びさびの精神をもった美術品として珍重されるようになるのです。

完成者・千利休

珠光が創立し、紹鴎ら後の茶人が受け継いで発展させた侘び茶は、千利休によって完成されました。紹鴎の項目で「侘敷」「寂敷」に触れました。紹鴎はこの二つをきっちり分けていたようですが、利休は曖昧にします。それが一体となり、「わびさび」として一括りの精神となり、草庵の茶をわびさびで表現するようになります。

利休以前の侘び茶は、実際に使われた草庵なども残っていないためどのようであったかはわかりません。創立されてから千利休によって完成されるまでは殿中の茶との共存を経て途中段階にあり、さまざまな変化があったと思われます。




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