「武野紹鷗」茶道の源流、わび茶中興の祖
- 2021/02/05
いまや海外の方にも広く愛好されている日本文化は、実に多岐にわたるものがあります。武道や芸道、ポップカルチャーに至るまで百花繚乱の趣があり、それぞれの魅力が国際的な評価を受けています。なかでも日本独特の様式美と価値観が凝縮されたものとして、「茶道」は不動の人気を誇っています。
日本人にとってもある種の神秘性を感じる技芸ともいえますが、茶道には抹茶を通じたもてなしの精神だけでなく、建築やインテリア、はては服飾や料理に至る幅広い総合芸術の精髄が込められています。現代でいうところの茶道の原型は、意外なことに戦国時代から安土桃山時代にかけて完成されていきました。
茶道の歴史を振り返るとき、不可避の巨星として名が挙がるのが「千利休」ですが、その前の世代にも偉大な茶人が存在しました。その一人として、「武野紹鷗(たけのじょうおう)」に触れずにおくことはできないでしょう。
紹鷗はいわゆる「わび茶」と呼ばれるスタイルの中興の祖ともされ、利休へといたる系譜の重要な茶人でもあります。今回はそんな、武野紹鷗の生涯について概観してみることにしましょう!
日本人にとってもある種の神秘性を感じる技芸ともいえますが、茶道には抹茶を通じたもてなしの精神だけでなく、建築やインテリア、はては服飾や料理に至る幅広い総合芸術の精髄が込められています。現代でいうところの茶道の原型は、意外なことに戦国時代から安土桃山時代にかけて完成されていきました。
茶道の歴史を振り返るとき、不可避の巨星として名が挙がるのが「千利休」ですが、その前の世代にも偉大な茶人が存在しました。その一人として、「武野紹鷗(たけのじょうおう)」に触れずにおくことはできないでしょう。
紹鷗はいわゆる「わび茶」と呼ばれるスタイルの中興の祖ともされ、利休へといたる系譜の重要な茶人でもあります。今回はそんな、武野紹鷗の生涯について概観してみることにしましょう!
武野紹鷗とは
生まれ
武野紹鷗は文亀2(1502)、大和国(現在の奈良県あたり)吉野郡に生まれました。父は若狭武田家の系譜に連なるとされる「信久」、母は大和の有力豪族「中坊氏」の娘で、紹鷗は幼名を「松菊丸」、通称を「新五郎」、名乗を「仲材(なかき)」といいました。紹鷗の父・信久は応仁の乱でその父と兄を失い孤児となったものの、大和・中坊氏の庇護を受けて育ちやがて「三好氏」の後援を得て堺の舳松村(へのまつむら:現在の堺市協和町あたり)へと定住しました。
信久の生業は武具などに使用する皮革製品の製造・販売であり、「環濠都市」と称される堺の自衛自治に貢献し有力町衆として知られるようになります。
前半生
信久は家名の興隆に心血を注いだとされ、大永5年(1525)に24歳の紹鷗は京都に留学し、勉学の修得に励みました。その前半生においては主に「連歌師」として活動していた痕跡があり、27歳の時に当代最高の文化人とされた「三条西実隆」に師事し、10年ばかり和歌・連歌・歌学などの指導を受けたといいます。実家の豊富な資金力もあり、紹鷗は実隆への豪華な贈り物や朝廷への献金を行い、29歳の時に「従五位下 因幡守」の官位・官職を授けられています。
当時の朝廷は資金難から、武将などからの献金が大きな収入源になっていたことはよく知られていますが、このように有力町衆からの献金にも授位などで応えていたことがわかります。「五位」といえば昇殿が許されるいわゆる「殿上人」であり、官職も正式に朝廷から受けたという権威あるものでした。
享禄4年(1531)には山科本願寺へと従軍しており、これは同年の加賀一向一揆の内紛による影響と考えられています。紹鷗の父・信久が一向宗であったこととも関係するとされ、軍事的な活動にも関与していたことがわかります。
後半生
享禄5年(1532)、紹鷗は臨済宗・大徳寺の「古岳宗旦」のもとで出家剃髪します。「紹鷗」とはこのとき与えられた法名であり、一向宗などの宗教勢力同士での武力衝突から距離を置くため禅宗へと転向したものとの説もあります。もともと連歌に志をもっていた紹鷗でしたが、いつの頃からか新しい芸術としての「茶の湯」に着目するようになりました。
「村田珠光」の門人であった「村田宗珠」「十四屋宗伍」らに接近して、「わび茶」のスタイルを追求していくことになります。
文献によって表記ゆれや記述の曖昧さがありますが、紹鷗の最初の師は「藤田宗理」とされ、舶来品の高級茶道具を珍重する風潮とはまた違う形式を生み出していきました。
天文2年(1533)、堺へと戻った紹鷗は連歌師としての活動も続けており、翌年には三条西実隆に自身が主催した連歌会の発句を依頼したことが伝わっています。
36歳の時に京の師・三条西実隆と父・信久を亡くしますが、実家の本業であった武具製造業の権益も継承したようです。「わび」を求めつつも60種もの「名物」を所持するなど、その豊かな経済力をうかがい知ることができます。
茶人の活動としても、天文11年(1542)・天文18年(1549)・天文22年(1553)に奈良や堺の茶人を招いての茶会を開催したことが記録されています。
紹鷗の没年は弘治元年(1555)、54歳での突然の逝去だったとされています。墓所は彼が参禅した、堺・南宗寺となっています。
紹鷗の「茶の湯」とは
「わび茶中興の祖」とも例えられ、千利休へとそのバトンを渡したとされる紹鷗ですが、そもそもこれはどういうことを意味しているのでしょうか。紹鷗の歴史的な位置づけを理解するためにも、このことについても軽くおさらいをしてみましょう。茶道の詳しい歴史については割愛しますが、茶の湯はもともと「書院」のような広間で行うのが一般的だったようです。そして大陸などからの輸入品である高級な「唐物(からもの)」を用い、名品の拝見や収集といった特権階級的な楽しみ方と不可分の性格をもっていました。
それに対し、四畳半以下などの小さな空間で、日本産の焼き物も用いて素朴で渋い文物に美意識を見出すのがわび茶の特徴といえるでしょう。
「わび」や「さび」といった概念は非常に難しいものですが、紹鷗は四畳半以上の茶室を「侘敷(わびしき)」、三畳や二畳半といったそれより小さいものを「寂敷(さびしき)」と分類したそうです。後に利休はこれらの区別を曖昧にしたとされますが、茶室が狭い空間となっているのは紹鷗のこのコンセプトに基づいているといえるでしょう。
「わび」「さび」ともに元来は和歌における概念であるとされ、長く連歌をたしなみ歌学にも造詣の深かった紹鷗は、これを茶の湯に取り入れることで新たなスタイルの基礎を確立しました。
紹鷗にとって和歌を通じて得られた感覚はその美意識のベースとなっていたようで、和歌の書跡を最初に茶席へと採用したのも彼だったとされています。
その真髄を表すのに、
みわたせば 花ももみぢもなかりけり 浦のとまやの 秋の夕暮
という藤原定家の歌を引用することは有名です。いわゆる「無一物」での充足に価値を見出すこととも言い換えられ、これが「わび」の心の象徴とも捉えられています。
一方で、現実的には紹鷗は有力町衆の大富豪であり、経済力を持ちながらも簡素であることへの美学を志向し、その両極に遊んだのが紹鷗の茶の湯だったという評価もされています。
紹鷗の弟子たち
いわば現代茶道の源流ともいえる紹鷗は、多くの優れた弟子を育てたことでも知られています。一般に千利休の師の一人とされることもありますが正確なことは定かではなく、諸説があります。しかし利休を含む「天下三宗匠」と称された「今井宗久」「津田宗及」の師であるとされ、武将との関係を通じて政治的影響力をもつにいたった茶人を輩出したことがわかります。
また、辛辣な評価で有名な「山上宗二」が、武士の中で唯一数寄者と認めた「三好実休」も紹鷗の弟子であり、朝廷・武家・町衆と幅広い層に支持された茶人であったといえるでしょう。
おわりに
日本文化は、完全でないものや対称でないものに美を見出すことに特徴があるともいわれています。「わび茶」で用いられた素焼きの日用茶碗や、自然の風情を感じる茶室の土壁などもまさにその象徴で、現代にいたる日本の美意識を遡ると、多くの部分で紹鷗に行き着くといっても過言ではないでしょう。日常に潜む「日本的なもの」に気が付いた時、武野紹鷗という茶人のことに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
【主な参考文献】
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄