結構キツイ?信長が将軍足利義昭に宛てた「五カ条の条書(1570年)」とは
- 2019/07/19
身分が下の者が上の者を倒し、代わって力を付けていくことを「下剋上」と呼びますが、織田信長が室町幕府15代将軍 足利義昭に提出した「五カ条の条書」はまさにその象徴といえるかもしれません。
信長は「これから先の天下の政は将軍ではなく、信長次第だ!」とハッキリと宣言してそれを義昭に認めさせたのです。今回はそんな五カ条の条書を読み解いてみましょう。
信長は「これから先の天下の政は将軍ではなく、信長次第だ!」とハッキリと宣言してそれを義昭に認めさせたのです。今回はそんな五カ条の条書を読み解いてみましょう。
信長と義昭の関係
まずは五カ条の条書をみる前に簡潔に信長と義昭の関係をおさらいしておきましょう。信長の美濃平定と上洛
尾張国の一勢力にすぎなかった信長は、桶狭間の戦いでその名を天下にとどろかせると、その後は美濃攻略をすすめ、永禄10年(1567)には斎藤龍興を敗走させて美濃平定を実現(稲葉山城の戦い)。これに伴って「天下布武」を掲げます。一方、足利義昭が将軍になるまでの道のりはなかなか険しいものでした。13代将軍だった兄・足利義輝が三好三人衆らに殺害されてからは京から逃亡して各地を流浪。室町幕府の再興のために上洛を伺い、諸大名からの協力を得ることに奔走するも、なかなか事が進まず、越前国の朝倉義景に保護されていました。
しかし、上述のように信長が美濃平定を成し遂げたことにより、一気に上洛への道が開けることに。両者は互いに自分の目標を達成するために重要な人物だと判断。そして永禄11年(1568)、信長は岐阜で義昭を迎え入れて擁立し、大軍勢を動かして抵抗する敵勢力を蹴散らして上洛を果たします。
こうして義昭も晴れて将軍に就任し、それをサポートした信長の存在感も一気に高まるのです。
まもなくして初喧嘩
その後、信長は勢いに乗ってさらに領地を拡大。翌永禄12年(1569)にはついに伊勢全域を制圧することに成功します。戦いは信長が大軍を率いながらも北畠氏の抵抗に苦戦しましたが、このとき和睦の仲介役を果たしたのが義昭だったと考えられています。そのおかげもあってか信長に有利な和睦条件となりました。城を明け渡してもらうだけでなく、信長の二男・茶筅丸(のちの織田信雄)を強引に義嗣子として、事実上北畠氏を乗っ取ることになったのです。(大河内城の戦い)
義昭としては、信長が北畠氏を吸収することまでは考えていなかったのかもしれません。この戦いの後、上洛してきた信長と義昭は激しく意見が衝突したようです。義昭は信長の強引なやり方を非難したものだったのでしょう。武家のトップに立つ将軍として自らを誇示するような言い方だったかもしれません。
はたして立場をわきまえていなかったのはどちらだったのか…。それはともかく信長はこの一件で義昭を警戒するようになります。義昭が将軍風を吹かせて様々な命令を下し、余計に政治を混乱させる危険性は充分に考えられました。
鎮まってきた天下を維持するためには、義昭に黙っていてもらう必要があります。そこで信長がしたためた「五カ条の条書」が出てきます。そこに書かれたものは、信長と義昭の置かれている立場をハッキリとさせる内容だったのです。
五カ条の条書の内容は?
五カ条の条書の現代訳
実際に、永禄13年(1570)1月23日付けで、信長から義昭に提出された、五カ条から成る条書を現代訳でみてみましょう。- 「第一条、諸大名らに御内書(=将軍の書状)で命令をすることがある場合、まずは信長にその旨を告げること。御内書には信長の書状も添える。」
- 「第二条、これまでの御下知(=将軍の命令)はすべて無効とし、改めて考え直してから決めること」
- 「第三条、将軍に忠節を尽くす者に恩賞や褒美を与えたいが、土地が無いという場合は、信長に命令してくれれば分国から提供しよう」
- 「第四条、天下のことは信長に任せたのだから、誰であっても将軍の意思をうかがう必要はない。信長の意思どおりに行うこと」
- 「第五条、天下は鎮まったのだから、将軍は朝廷に関する儀式を油断なく行うこと」
以上が五カ条ですが、とてもインパクトがあり、義昭にとっては結構キツイ内容になっています。こちらの宛名は、朝日山日乗と明智光秀になっており、義昭はただ袖判を押して承認するだけでした。日乗と光秀がその証人として信長に選ばれたのです。
条書の目的は?
ところで、この五カ条の条書はどこまで実行・実現されたのでしょうか?第一条の御内書について、あまり遵守されていなかったようですが、毛利輝元を左衛門督に任じた御内書には信長の書状も添えられていました。ただ、このような例は稀で、特に元亀2年(1571)以降は、上杉謙信、毛利輝元、武田信玄、本願寺蓮如、六角義賢など、信長に無断でどんどん御内書を出しています。
第二条についても実行された証拠は何も残っていません。実行されていたらさらに混乱に拍車をかけることになっていたでしょう。
また、第三条も同様に実行された証拠は残されていません。
つまり、ほとんどが言葉だけだったのです。ただ、信長にとってはそれで充分だったのかもしれません。将軍の権威を取り戻そうと張り切っている義昭に釘を差すこと。政治の中心にいるのは信長だということをはっきりと示し、義昭に現実をわからせることが大事だったのでしょう。
五カ条の条書については、独断専行色が強まってきた義昭に対し、幕府の在り方を示すために信長が行った処置であるという説もあります。
条書が与えた影響とは?
信長と義昭の信頼関係の崩壊
信長としては、鎮まってきた天下を再び混乱させることの無いように冷静に判断している感じですが、将軍として権威を取り戻し、リーダーシップを発揮したがっている義昭にとってみれば、裏切られた思いがしたことでしょう。義昭も信長の軍事力を利用して上洛に成功し、ようやく将軍になれたわけですからもう少し空気が読めたらよかったのでしょうが、あくまでも信長は室町幕府に仕える武士のひとり、主人は自分であるという考え方が、義昭には根強くあったのかもしれません。
一時は信長を父とも慕った義昭でしたが、五カ条の条書によって信長の目標と自分の目標の違いが明確となり、信長との関係性は冷え切っていきます。しかし信長の巨大な軍事力があってこその義昭の立場なので、表面上、信長との関係を断つわけにもいかなかったのです。
信長にしてみても、義昭が大人しくしているのであれば、将軍として擁立し続け、室町幕府をそのまま存続させてもいいと考えていたはずです。
こうして信長と義昭の信頼関係は崩壊していくわけですが、互いに協力し合うような状態がしばらくの間続くことになります。
天下布武に向け、信長は一歩前進か?
信長としてみても、義昭を将軍として擁立していることには大きなメリットがありました。信長の指示に従わない大名は、将軍の上意に逆らっているとして討伐できる大義名分を得たからです。まさに天下布武の絶好の口実でした。実際、信長は五カ条の条書を提出する同じタイミングで、信長触書を諸国の大名宛てに送りつけています。「この信長と同じように上洛して、将軍のために役立つように」と催促した内容ですが、諸大名がどのような対応をするのか、信長はじっくりと観察していたようです。敵か味方かを見極めようとしたのでしょう。
そして五カ条の条書提出から3か月後、信長は越前の朝倉氏を攻撃しています。義昭が朝廷に奏申し、元号を永禄から元亀に改元したのもちょうどこの時でした。
おわりに
このように五カ条の条書は、信長の義昭への牽制であり、さらに天下に向けて、「政治の中心は自分だ」と宣言したものになります。この刺激がさらに反信長勢力の結束を固め、強力な信長包囲網を形成するに至るのです。義昭が、自らが描いた理想の実現のために、信長の力を少しずつ削ぎ落とし、やがては排除しなければならないと、密かに決断させるきっかけにもなったのではないでしょうか。
五カ条の条書は、「時代を変える改革」であり、「信長天下」を印象付けるものだったといえます。
【主な参考文献】
- 奥野高広 『人物叢書 足利義昭』吉川弘文館、1989年。
- 谷口克広『信長と将軍義昭 提携から追放、包囲網へ』中公新書、2014年。
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