江戸初期の僧侶「天海僧正」の正体は明智光秀なのか? ~ 表裏一体の謎に迫る
- 2018/11/19
「天海僧正」・・・ その名前を聞くと、私なんかは一時期どハマりした戦国ゲーム「BASARA」の影響で、天海様の姿が思い浮かんでしまったりもします(笑)。
当初存在した明智光秀キャラが、シリーズを重ねていく中で、光秀キャラの代わりに天海キャラが登場。見た目なんか光秀にマスクを付けた位で、ほぼほぼ「天海=明智光秀」なんですよね。
天海キャラの風貌はメチャ妖しいけど、私は結構気に入って使ってました。映画「あずみ」でオダギリジョーさんが演じていた最上美女丸という役柄と重なる美しき妖しさが魅力的なもので…。
なんだか話がマニアックに進んでしまいそうなのですが、今回は江戸初期の僧侶である天海と明智光秀についてお届けします。
「天海僧正」って何者?
「天海=光秀」説
みなさんは本能寺の変の犯人とされている明智光秀が、実は江戸時代初期の僧である「天海」だったという説をご存じでしょうか?
- 光秀は秀吉の手で「山崎の戦い」の後すぐに首を挙げられたはずじゃ?
- 光秀は本能寺の後も生きていた事になり、秀吉も嘘を付いた事になる?
- 本能寺の犯人説すらも、グラついてきちゃうかもしれない?
個人的な意見としては、光秀が天海であろうと無かろうと、そこに徳川家康という人物は切り離せないのではないか、とも思えます。そんな本能寺の変から繋がる 謎深いお話 の始まりです。
家康の側近を務めたという「天海」
「僧正(そうじょう)」というのは、僧や尼をまとめたリーダーの立場、とでも言っておきましょうか。そんな立場だった天海は、江戸幕府初期には徳川家康の側近として「黒衣の宰相」の異名をもっていたそうです。
「黒衣の宰相」というのは、僧という立場でありながら、政治手腕の片棒を担ぐような事をそのように例えるようです。ちなみに天海の他に「以心崇伝」という人物も、今でいう外交官のような立場として家康の側にあり、彼も「黒衣の宰相」とされています。
私の中ではNHK大河ドラマ「真田丸」で北条氏に仕えていた板部岡江雪斎も同じような括りに思っているのですが…。違っていたらごめんなさい(苦笑)。
さて、その「天海僧正」とは一体どんな人物だったのでしょうか?
フルネームのようにきちんと言うなら「南光坊天海」となります。彼は東北を指す「陸」、その中の福島県に位置する「会津」出身と言われ、信長が焼き討ちをした事で有名な「比叡山延暦寺」でも修行を積んだ身だったそうです。
仏門に入った当初は「随風(ずいふう)」と称していたとか。僧として天台宗を学び、天正16年(1588年)に「星野山」という武蔵国の寺に移ってから「天海」という名に変わったのだそうです。
一体どんな出会いのシチュエーションで徳川家康と天海僧正がタッグを組む事になったのかは、残念ながら計り知れないのですが、その改名時以降から2人の交流が始まったとか。いざ2人が組んで成し得た事というのは「徳川家康の天下時代が到来!」といったところでしょうか。
家康の影で参謀的役割を果たした?
まず、慶長4年(1600年)の関ヶ原の戦いは、石田三成率いる西軍の小早川秀秋が土壇場で東軍に寝返ったために、西軍の負けが決まった、と伝わっていますよね。そこに関しても色々と思うところはあるのですが、ここで言いたい事は「秀秋の裏切りの裏に天海あり!」という事。
実は天海が関ヶ原に参加して裏で糸を引いていた… なんて言われたりしてます。
さらにもう1つは、豊臣と徳川の決戦となった慶長19-20年(1614-15年)の「大阪の陣」。この戦いの発端となった、難癖とも取れる「言いがかり」をつけた事件にも関与しているらしいのです。
いわゆる「方広寺鐘銘事件」ですが、これは秀吉が生前に「方広寺」に造った大仏殿の「鐘」事情がありました。
その鐘は文禄5年(1596年)の慶長伏見地震のときに壊れてしまいましたが、豊臣秀頼の代となった豊臣家と共に徳川家が共に直すという、仲良くやるべきはずの作業の中、その鐘に記されている文字が「国家安康」と「君臣豊楽」となっている事に「言いがかり」をつけたのが徳川方でした。
豊臣の名は連なっているのに、家康の名前は半分に割れているのを「縁起が悪い」として、これが大阪冬の陣の引き金になったんです。
この事件の背景には、天海の助言があった、なんていう説があるんですね。
107歳という長寿を全う
さて、この天海僧正という人物は、戦国時代と括られる時代の武将達の平均寿命が40~50代だった事と比べてみると、107歳まで生きたとされています。
とても長生きですよね。家康の天下獲り以降も、家光の代まで徳川家にとって欠かせない存在として力を放っていたそうですから。家康も73歳まで生きているので、あの時代の中では結構な長生きでもあります。もしかしたら、家康が「健康おたく」と言われているのにも、天海の長生き指導、なんていうのがあったのかもしれませんね(笑)。
光秀と天海はどう結びつくのか?
1536年生まれの天海、1528年生まれとされる明智光秀。
その歳の差は8歳。もし107歳で亡くなった天海が光秀と言うなら、光秀は115歳まで生きたことになるので、2人の「表裏一体説は嘘っぱち!」とする否定派の方々も多い。かといって、肯定派というのも少なくはない。こればっかりは、当時の時代に生きて徳川家の重鎮として直接天海と話でもしないとわからない、というのが本音ですが、私の密かな1票は肯定派に捧げておきます(笑)。
書籍やネットで2人のプロフィールが記されていますが、そもそも両者の出自に関する情報は確証がないんです。だから光秀が「115歳まで生きたなんておかしいだろ!」と完全否定することもできないですよね。
今の時代であっても真実と虚像は入れ替えられてしまう、といった事も少なからずはあると思います。 それを考えると、ずっと昔の時代ならば尚更の事。ウワサに簡単に丸め込まれもすれば、偽りすらも真実のように伝わってしまうのかもしれません。
「光秀=天海」説が成り立つのなら、光秀は山崎の戦いの後も生き続けていた、ということになりますよね。その根拠はどこにあるのか、次項からみていきましょう。
説その1:光秀は比叡山に落ち延びていた!
山崎の戦いは、秀吉が信長様の敵討ちとして他の重臣らを寄せ付けぬスピーディさで決着をつけてくれたという伝承で広まってます。しかし、実は「光秀は傷を負いながらも落ち延びた」という話があるようですね。
首級は偽物
秀吉は確かに首を獲ったけど、それが光秀では無かった事を知った上でとにかくスピーディにこの一件を終わらせたかった。その首が光秀の代わりに命を張って主君を守った家臣の者だとしても、秀吉にとっては明智が謀反を起こしたという流れが広まりきった中で、実は誰の首だろうと良かった──
なんていいます。
「論より証拠」という言葉のように、後から光秀が堂々と「私が犯人ではない!」と言ったところで、それを信じる方が確かに難しいのかもしれません。ちなみに光秀の首実検はキチンとされておらず、実際光秀本人だったのかどうか、わからなかったらしいです。
本物の光秀は比叡山へ
では本物の光秀は?というと、「比叡山に逃げ落ちた」という説が出てくるのです。そこには光秀にとって親交のあった和尚さんが居て、南光坊天海は既に死没しており、光秀が彼の名前を借りて「天海」として生き抜いたとか…。
年齢も8歳差程度ならゴマかせると思ったのでしょうか?ちょっとファンタジーチックな設定とも思えます。しかし驚くべきことに、比叡山「不動堂」の石灯籠には、豊臣家が滅亡した年にあたる慶長20年(1615年)の日付で「願主 光秀」と名が記されています。
つまり、光秀が山崎の戦い以後も長らく生きており、大阪の陣の頃に石灯籠を寄進したということであり、この説の根拠となっているのです。
説その2:光秀は濡れ衣を着せられた!
表の天海と裏の光秀。その姿が本当ならば、そもそも本能寺の変の犯人は光秀ではないのかも。そもそも信長と光秀の仲は良かったそうなので。邪魔な信長と一緒に、主従の絆の深い光秀も一緒に引きずり下ろすシナリオだったのかもしれません。
というのも、光秀が犯人として幸い逃げ落ちたとして、どうしたら家康が光秀を天海として迎える展開に成り得るのだろう? と疑問に思うんです。家康にとって信長は友達じゃないわけで、邪魔と言えば邪魔。かといって、その存在を消してくれたからと言って…光秀に「Come on!」とはならないですよね?
光秀が天下を獲りたくって主君を討ったのなら、ペアを組んでも裏切られそうで怖いじゃないですか(笑)。家康は人質生活も長く、それは常に命の危険にさらされていたとも言えるので、人を見定める能力は身についていたでしょうし。
なので、家康が正体を光秀というのを知りながら「天海僧正」とシークレットnameで呼んでいたとなれば…。それは歴史家さんの挙げられている「光秀は濡れ衣」の説に同感出来ます。
家康と光秀の関係性は実証出来ませんが、もし生きていた光秀と再会する機会があったとして、そこで2人が「敵は豊臣」と心が重なる事も可能性としては頷ける気がします。家康にとっては、「農民の出の豊臣」がトップに就くのは、甚だ納得がいかなかったでしょうしね。
説その3:光秀は家康の命の恩人だった!
ここまでは光秀が本能寺の変の犯人ではないのかもしれない、という色が濃くなってしまったのですが、他にも「光秀が犯人ではあれど、それは家康を守ったとも言える。」という説もあるんです。
本能寺の変の背景には、実は信長が家康を葬るために秘密裏に光秀と計画を進めていたが、その計画に乗り気でなかった光秀が密かに家康とも通じて、逆手に取って信長を討ったのだとか。
そんな事から、恩義深いと有名な家康は、命がけで守ってくれた光秀の事をずっと忘れずにいて、日光に光秀と結び付ける形を多く残して示した事が、「天海=光秀」説に繋がったというのです。
日光東照宮には明智の家紋がある?
日光東照宮には明智光秀の家紋(桔梗紋)や天海の像などが置かれています。
ただし現在では、残念ながら明智の桔梗紋ではないと否定されているようです。そのウワサの家紋というのは2点あり、東照宮の以下の場所で確認できます。
- 陽明門の門衛
- 鐘楼の壁
1つ目の陽明門の門衛にある家紋の正体は織田家の「木瓜紋」だそうです。そして、もう1つの鐘楼の壁にあるものは、装飾用に使われる「唐花紋」と言い、そもそも家紋ではないらしいですね。
話は変わりますが、徳川家の中で日光に御墓があるのは「家康、三代将軍家光」の2人と思っているのですが…。違っていたらすみません(汗)。
「家光」という名前は「家康と光秀」の頭文字をとって付けられたとも言われているので、光秀と家康の恩義や友情なり、繋がりを否定しきれないな、と思うのが個人的な意見ですね。
でも本当は家康は自分が亡くなったら「久能山」に埋葬してほしいという遺言を残していた話もあり、それを日光に変えたのは天海僧正の意見だったりもするらしいので、やっぱり天海僧正と光秀が同一人物説も捨てきれない気がなんだかしてしまいます。(笑)
日光「明智平」の名付け親だった?
日光にある「明智平」という地名は、なんと天海僧正がネーミングをしたんだとか。
天海となった光秀が日光という場所に「明智」の存在を残したかった、なんて伝承がありますね。
日光という地名は「二荒山と呼ばれていたものに当てはめた」と言われていますが、「惟任日向守光秀」というのが光秀の名前としてあるので、光秀が天海であろうと無かろうと、日光という場所は縁深く思えてしまいます。
その他にも根拠となるものが…
「慈眼」つながり
天海僧正はその死後、「諡号(しごう)」を慈眼大師と付けられ、日光の慈眼堂に祀られています。そしてこれと同じ号を持つ、京都にある周山の「慈眼寺」には、明智光秀の黒塗りの木像が祀られているのです。
この木像は、かつて光秀が建てたとされる慈眼寺の川向いにある観音山のた「密厳寺」にあったとされ、そこから移行されたらしいですね。謀反を起こしたという事で黒く塗り隠されたのでしょうか…。右肩下にはうっすらと光秀の桔梗紋があるのがわかります。たまたまなのか、この「慈眼」つながりの意味深さも、2人を重ねる説として広まっているのです。
天海と春日局は旧知の間柄?
三代徳川家光に関しても光秀ヒストリーと絡む事が色々とあったりします(笑)。ここでは深くは触れませんが、家光の乳母「春日局」は、本能寺の変を起こした明智軍の重鎮「斎藤利三」の娘とも言われています。
昔の時代の「反逆者」の血筋の者が乳母という役目に抜擢されるのは興味深いですよね。なんせ家光の母・お江は織田の血筋を引く者ですからね。そこに謀反絡みの者を選ぶ家康の心とはどんなものだったのでしょうか…。
春日局と天海がはじめて会った時、2人は「お久しぶりです」と挨拶をしたなんて話もあります。これが事実としたら「天海=光秀」説に一層現実味がでてきますね。
まとめ
結局のところ、天海が光秀だったかどうかは「謎」のようです。
まだまだこれだけでは「明智光秀」という人物は語り切れないのですが、本能寺についてだったり、私達が史実と思っている事が、本当でないのなら…。
北ノ庄城で見つかった明智討伐に絡む柴田勝家の密書のように、未来で見つけてもらえる史実によって、歴史ミステリーの解明が進む事を祈るばかりです。
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
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