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  • 明智光秀
 2018/12/04

教養人・光秀と連歌 ~愛宕百韻は本能寺の変の決意表明だったのか?

『絵本太閤記』光秀連歌の図
『絵本太閤記』光秀連歌の図

織田信長家臣団の中では、とりわけ秀吉と光秀が双璧として取り上げられることが多いですよね。イメージとしては、楽天家でなあなあな秀吉に、常識的で合理主義な光秀といった感じ。光秀は室町幕府の幕臣(奉公人)であったこともあり、文武どちらかというと文官よりで、インテリっぽさがありませんか?

その背景には、光秀が身につけた豊かな教養があったと思われます。今回は、教養人・文化人としても知られる光秀と連歌との関わりについて紹介しましょう。連歌は中世貴族・武家社会で流行した文化。光秀と連歌といえば「愛宕百韻」も有名ですね。そちらについても考察してみたいと思います。
(文=東 滋実)

武士と連歌

明智光秀と連歌について語る前に、まず武士にとって連歌とはどんな文化であったかについて少し触れてみましょう。

連歌とは、鎌倉時代ごろから始まったとされる和歌から派生した詩歌で、五七五七七を五七五と七七、つまり上の句17音と下の句の14音に分け、それぞれを交互につなげていく歌です。最初の17音を発句と呼び、続く第二句の14音を脇句、第三句は第三、締めくくりとなる最期の句は挙句といいます。

この連歌の最盛期がちょうど室町時代でした。京の都や大和など、畿内を中心に流行した連歌は、武士にとっても必須の教養であり、諸大名は連歌師を招いて指南を乞うほどだったのです。

この教養がどれほど重視されたか。光秀と親しかった教養人・細川藤孝(のちの幽斎)は、「歌連歌乱舞茶の湯を嫌う人育ちのほどを知られこそすれ」と、「和歌や連歌、乱舞、茶の湯を嫌う者は、育ちのほどがうかがえる」と皮肉っています。
つまり、武士にとっては武術の訓練だけやっていればいいというものではなく、教養が大事なのだということです。

細川藤孝(幽斎)との関係から

上でも登場した細川藤孝。彼の子である細川忠興の妻が光秀の娘の玉(細川ガラシャ)であり、姻戚関係にありました。それ以前から幕府15代将軍・足利義昭を支える幕臣として付き合いがあり、光秀は藤孝の中間(部下)であった時期もありました。この藤孝は当時武家社会では最高の教養人であったといっても過言ではなく、連歌だけでなく、和歌、茶道、囲碁、武芸などあらゆる教養を身につけた人物でした。

藤孝と付き合いがあったことが、光秀を教養人たらしめたのです。藤孝は第一の連歌師であった里村紹巴(さとむらじょうは)(1525~1602年)とも交流があり、光秀は一流の文化人との付き合いを通して教養を深めていきました。

連歌会を重ねるごとにその上達ぶりがうかがえる

光秀の連歌の記録として最初に登場するのは、永禄11年(1568年)11月15日です。このとき光秀が詠んだのは6句。11の連衆のうちではもっとも少ない数でした。この時代の連歌は百句読む長歌の百韻が一般的で、集まった人々のうち実力者である藤孝や紹巴らは10句以上詠んでいます。

このころはまだまだ光秀の連歌の才が認められていないことがうかがえますが、記録に残っている連歌会をいくつか並べてみましょう。

  • 元亀元年(1570年)3月21日 何船百韻 (8句)※連衆中最少
  • 天正2年(1574年)7月4日 何人百韻 (10句)
  • 天正5年(1577年)4月6日 愛宕山千句連歌 第五何田百韻(9句)
  • 天正6年(1578年)3月10日 百韻連歌(14句)

少しずつ読む句が増えており、文化サロンにおいて光秀が徐々に認められていった様子がうかがえます。一番下の天正6年の連歌会では光秀の甥(従兄弟とも)である斎藤利三や、光秀の長男の光慶も会に参加しており、光秀ひとりだけでなく子らの教養も磨いていることがわかります。

愛宕百韻について

さて、光秀と連歌を語る際、決して切り離して語れないのが「愛宕百韻」です。天正10年(1582年)5月24日(あるいは28日)に愛宕山で興行された連歌会で詠まれたものです。これがなぜ有名かというと、本能寺の変と関係があるとされているからです。本能寺の変はこの連歌会から間もない6月2日に起きているのです。

「時は今~」は本能寺の変の決意表明なのか?

重要と思われる発句から第三句、挙句を挙げてみましょう。

  • 【発句】 ときは今 あめが下な(し)る五月哉 (光秀)
  • 【脇句】 水上まさる庭の夏(松)山 (行祐)
  • 【第三】 花落つる流れの末をせきとめて (紹巴)
  • 【挙句】 国々はなほ長閑なる時 (光慶)

光秀が詠んだ発句の「とき」とはつまり、美濃守護土岐氏の出である明智氏のこと。訳すと、「土岐氏が天下を支配する五月となった」となります。続く脇句の「まさる(勝)」、第三の「落つる(信長の首が)」というふうに解釈されるのです。

その場にいて第三句を詠んだ紹巴は、本能寺の変の後、秀吉に問い詰められたと言います。この愛宕百韻を光秀野望説の証拠として挙げられることが多いのが現状です。

書き換えられた写本

しかし、別の見方もあります。そもそも本能寺の変は6月2日なのに、「天下を治める五月となった」という表現はおかしくないか、ということ。また、句の表現が書き換えられた痕跡があることも問題です。

発句は「下なる」「下しる」の2種類が残っており、脇句も「夏山」「松山」の2種類があります。「下なる」であれば、上記のような解釈はできません。単に「時は今、雨の下にある五月だ」と解釈する、さらに掘り下げるのであれば、「土岐氏は今、降りしきる雨のような苦境の中にある五月だ(この苦境から脱したい)」となります。

明智憲三郎氏は著書『本能寺の変 431年目真実』(文芸社文庫)において、あらためて愛宕百韻の解釈を試みています。上記のような解釈ができることを挙げ、そもそも原本は意図的に書き換えられたのではないか、との見方を示し、本来光秀が詠んだものには天下簒奪の意図はなかったのだと結論付けています。

光秀の連歌で最も有名な愛宕百韻、本能寺の変の再検討をする上でも、解釈を見直す必要がありそうですね。


【主な参考文献】
  • 高柳光寿『人物叢書 明智光秀』吉川弘文館、1986年。
  • 二木謙一編『明智光秀のすべて』新人物往来社、1994年。
  • 谷口克広『検証 本能寺の変』文芸社文庫、2007年。
  • 新人物往来社『明智光秀 野望!本能寺の変』新人物文庫、2009年。
  • 明智憲三郎『本能寺の変 431年目の真実』文芸社文庫、2013年。
  • 歴史読本編集部『ここまでわかった! 明智光秀の謎』新人物文庫、2014年。etc…




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