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 2019/04/08

「細川藤孝(幽斎)」元は幕臣。戦国屈指の文化人ながら苦労人でもあった彼の生涯とは

細川藤孝(幽斎)の肖像画

細川藤孝といえば、武人でありながら文化人としても極めて高く評価されています。出家後に名乗っていた「幽斎」という名でも知られ、この名は当代屈指の歌人として現代でも和歌集などに名を残しています。

このように文化人として最高クラスの評価を得ていた藤孝でしたが、こうした姿は彼の晩年に差し掛かった際の姿であることに注目する必要があります。前半生では、戦国に突入するにつれてしだいに崩壊していく室町幕府の家臣として奔走する姿が目立ちます。 さらに、皆さんがご存知のように室町幕府が滅びてしまったことで、藤孝の苦労が報われることはありませんでした。

この記事では、文化人としての幽斎にも触れはしますが、それよりはむしろ織田家臣として大名になる以前の知られざる半生を中心に彼の生涯を振り返っていきたいと思います。
(文=とーじん)

藤孝の出自

細川藤孝は天文3年(1534)三淵晴員の次男として誕生しました。一説に『細川家文書』の『藤孝公譜』によると、母である船橋宣賢女は12代将軍・足利義晴の側室で、妊娠中に幕臣の三淵晴員に下賜された、つまり藤孝は将軍の落胤だったといいます。

そして、天文8年(1539)には義晴にお目見えし、藤孝が晴員の次男であるために細川元常の家に養子に出されました。この細川元常は「和泉細川家」にあたる家系に属しており、将軍の近臣として仕える御供衆という役職を任じられていました。

この「和泉細川家」とは、室町幕府の管領として絶大な権力を保持していた細川家一門の一家です。その出自は南北朝期に細川氏が和泉上守護に任命されたことが由来です。幕府内では御供衆として三職(管領)や国持衆などに次ぐ権力を保持していました。 しかし室町期の幕府内や細川家中においては、内紛が絶えず、幕府の影響力はしだいに衰え始めていきます。

特に将軍家は細川ら管領同士の内紛に翻弄されており、細川家の意向によって次々と将軍が入れ替わることもありました。事実、幕府の実権を握っていたのは専ら管領たちであり、和泉細川家らの御供衆などが実質的に国家運営を担っていたといっても過言ではありません。

藤孝がこの和泉細川家の家督を相続したのは幕府末期にあたり、彼が御供衆として没落する幕府や将軍を支えるべく奔走する羽目になったのはこうした時代背景が影響しています。

幕臣として奔走した藤孝の姿

天文15年(1546)、藤孝は元服して幼名の万吉を改め、「藤孝」の名を名乗ります。しかしながら、この時期の京都は三好長慶ら三好氏と細川晴元ら細川氏の対立が激化しており、将軍義晴ですら度々近江への亡命を余儀なくされるほどでした。

この内乱は細川家内部ですら敵味方が頻繁に入れかわるため、詳細な記載は省略しますが、藤孝もこうした内乱に巻き込まれ早くから戦場に出ることを余儀なくされます。

将軍義輝に仕えて活路を見出そうと画策するが…

こうして合戦と亡命を繰り返して若年期を過ごした藤孝ですが、彼と彼が仕えた13代将軍義輝が成長したころには状況に変化が見え始めます。

義輝は同時代から評価の高い人物であり、彼の積極政治によってしだいに幕府の権威は復活の兆しを示すようになります。また、積極政治の一環として諸大名の私闘にも積極的に介入し、藤孝らは使者として大名と将軍家の間を取り持ちました。

さらに、実力重視の戦国期とはいえ、幕府の権威が残存していたことを利用して、将軍による偏諱(名を一字与えること)や官位の授与などで諸大名の格式を保証し、絶妙なバランスで戦国期を生き抜こうとしました。

しかし、この路線はある出来事によって挫折せざるを得なくなってしまいます。 それは永禄8年(1565)、三好三人衆の手によって義輝が暗殺された大事件・永禄の変です。

知らせを聞いた藤孝が現場に急行した際には、既に事件は終わってしまっていたとされていますが、そこで義輝の弟・覚慶(のちの将軍足利義昭)が松永久秀の指示によって監禁されていることを知ります。その後、藤孝は他の幕臣らと協力してなんとか覚慶を救出し近江へ逃れています。

ここで最大の危機は去ったかに思えましたが、この後、義昭は上洛して幕府再興を果たすため、後ろ盾となる有力大名の協力が得られないという事実に直面します。若狭の武田義統や越前の朝倉義景らを頼って身を寄せるも、上洛の軍勢を動かすという要請には応じてくれませんでした。

これに危機感を覚えた義昭は全国の諸大名に上洛の檄文を送りますが、しばらくは空振り。しかし、この状況の中で最終的に上洛の誘いに応じたのが、当時美濃まで勢力を拡大していた織田信長だったのです。

信長の後ろ盾を得るも、義昭と信長が対立

こうして義昭は永禄11年(1568)、信長とともにに上洛を果たし、義輝の後継者争いを制して15代将軍となります。

信長との接触を始めとする諸大名との交渉では藤孝の力も存分に発揮され、彼としては念願かなって義昭を将軍にすることができたと考えていたことでしょう。実際、藤孝は将軍の側近としてこれまで以上に実権を握りました。もちろんその勤めを全うしていた藤孝は義昭の命で各地を転戦し、幕府のために尽くしていました。

しかしながら、京都は信長と義昭の二重支配構造が出来上がってしまっており、お互いのことを快く受け入れていた時期は長く続きませんでした。

信長は義昭の権力を制限しようと誓約書を発給しますが、一方の義昭もこの誓約書を公然と反故にしていました。ただし、藤孝は御供衆でありながら信長と非常に親密な関係性にあり、義昭の動きを信長に報告するポジションにもありました。

こうして「親信長派」と目された藤孝はしだいに義昭から疎まれるようになっていき、やがて信長家臣への鞍替えを検討するようになります。

藤孝の心が完全に信長に傾いたのは、三方ヶ原で武田信玄が大勝した報告を受けた際に義昭が対信長を宣言して挙兵した際とされています。藤孝は早計な判断だとして出兵に反対しましたが受け入れられず、せめてもの抗議として自ら蟄居するという選択を選びました。そしてこの出兵は武田信玄の急死によって失敗したため、藤孝の判断は正しかったといえます。ここで、藤孝は義昭からの離反を決意したのでした。

信長家臣として天下統一事業に大きく貢献するも…

ここまで見てきたように、義昭と信長との対立を受けて藤孝は信長につくことを選択しました。そして、義昭は再び信長に挙兵したことで彼の怒りに火をつけ、完全に京都から追われてしまいます。こうして、15代にわたって続いた室町幕府は滅びてしまったのでした。

その後の藤孝は信長より「長岡」という姓を与えられ、さらにその名の通り現在の長岡市あたりの土地を知行として与えられています。こうして織田家臣となった藤孝は、同じく義昭の家臣から信長に仕えた明智光秀らとともに信長の主要な戦に参加し、順調に出世を遂げていきました。

また、信長の勧めによって嫡子の息子忠興と光秀の娘明智玉子(細川ガラシャ)を結婚させたことで、明智家とは姻戚関係になりました。こうして、信長だけでなく家臣らとも関係性を強めていくのでした。

しかしながら、藤孝・忠興親子のもとには大きな危機が生じます。天正10年(1582)に天下統一目前の信長が光秀の謀反に遭い、本能寺で殺害されてしまうのです。ここで光秀と姻戚関係にあった細川家には協力の誘いが届きますが、親子はこれを黙殺し秀吉へと急接近します。最終的に秀吉が光秀を破り信長の後継者と定められたため、細川家は秀吉に仕える形となりました。

秀吉・家康に仕え文化人としての才覚を発揮した晩年

こうして秀吉に仕えた後は彼に重用されていきますが、藤孝は家督を忠興に譲り幽斎の号を名乗りました。もちろん家督を譲ったのちも合戦などに関わらなかったわけではないのですが、この時期から幽斎は文化人としての側面が強まっていきます。

幽斎は高い格式のある人物だったので、表向きの政務は担当しないものの秀吉政権の「権威」を保証する存在として重宝されました。そのため、合戦などに参加はするものの戦そのものには参加せず、秀吉配下の千利休らと茶会や歌詠みに興じていた様子が史料から確認できます。秀吉は文化的側面を重視していたところがあるので、遊びに興じているようですがこれが秀吉流の政治だったといえます。

しかし、秀吉の死後にはそうした生活にも変化が生じます。細川家は権威と武力をどちらも有しており、非常に影響力の強い大名でした。そのため、秀吉の後継者争いを繰り広げる徳川家康石田三成のどちらも彼らを自陣営に引き入れようと画策します。そして、三成は忠興の正室ガラシャを人質として確保しようと急襲し、ガラシャは壮絶な最期を遂げました。

また、忠興は家康方についたため留守を任された幽斎はわずか500名程度の手勢で丹後国の田辺城に籠城します。田辺城は1万以上の軍勢に囲まれていましたが、幽斎は抵抗を続けることを選択しました。そういった幽斎の姿を知って、意外なことに最も肝を冷やしたのは朝廷でした。その理由は、幽斎が極めて優れた文化人であっただけでなく、『古今和歌集』の「古今伝授」という技法を受け継いでいたからです。

この「古今伝授」は、同和歌集に精通した師から弟子に受け継がれる秘伝であり、幽斎が死ねばそれが途絶えることが予想されました。それを恐れた朝廷側は頑なに抵抗を続ける幽斎のもとに何度も使者を送り、必死で説得を続けました。最終的には当時の後陽成天皇の使者までもが説得に乗り出し、籠城から約60日後にようやく開城と講和を受け入れました。

こうして幽斎が抵抗したこともあってか、関ケ原は見事に忠興が属する東軍が勝利しました。そして、幽斎自身は文芸をたしなみながら穏やかな晩年を送り、慶長15年(1610)に自邸で77歳の生涯を終えました。


【主な参考文献】
  • 米原正義編『細川幽斎・忠興のすべて』新人物往来社、2000年。
  • 安延苑『細川ガラシャ』中央公論新社、2014年。
  • 田端泰子『細川ガラシャ―散りぬべき時知りてこそ―』ミネルヴァ書房、2010年。



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