戦国史最大のミステリーともいえるのが「本能寺の変」ですが、明智光秀が織田信長のもとで行った大規模軍事行動のひとつが「丹波国攻略」です。
山岳地形のうえ強力な国人たちが割拠する丹波は信長も攻めあぐねていましたが、光秀はこれを攻略。
近畿方面での地位を盤石のものとしました。
その際に築かれたのが「丹波亀山城」で、丹波国攻略の拠点としての威容を誇ったといいます。
今回はそんな、丹波亀山城の歴史についてみてみましょう。
「丹波亀山城」とは現在の京都府亀岡市にあった平山城で、「亀岡城」ということもあります。
当時「口丹波」と呼ばれた丹波地方南部、亀岡盆地の亀山に丹波国攻略の拠点要塞として築かれました。
天正3(1575)年、信長より丹波国攻略の命を受けた光秀はこれよりおよそ5年をかけてその任務を全うします。
天正6(1578)年に完成したと考えられており、堀・土塁・石垣などで周囲を防御した「惣構(そうがまえ:総構とも)」という構造をもつ堅固な造りでした。
これは前年の正月における光秀の書状で「惣堀普請」、つまり惣構の工事を命令していることからも確認できます。
城郭としての本格的な造りであり、一時的な前線基地ではなく将来的に丹波国統治の拠点とする意図を感じさせるという指摘もあります。
光秀死後も豊臣政権下でその工事は継続され、天正7(1591)年に城主となった「小早川秀秋」の時代には二の丸と三の丸が造られました。
最終的な惣構の完成は「北条氏勝」が在番を務めた慶長年間(1596~1615年)のことと考えられています。
その規模は惣堀が幅約10m・深さ2~3m、土塁が幅約10m・高さ4~5mで、構の総延長は約3kmにもおよぶものだったと推定されています。
強力な防御機構を持ちつつ、石垣による威容を誇った亀山城は光秀以後も重要な拠点として認識されていたことがわかります。
光秀が築城した当初は3重の天守を備えていたとされ、小早川秀秋の時代にはこれが5重に改められたといいます。
その後にどのような変遷をたどったかは明らかではありませんが、明治5(1872)年に撮影された本丸の写真からは、5重の天守を確認することができます。
天正10(1582)年に「本能寺の変」が起こったのは有名ですが、光秀はこの丹波亀山城から出陣して本能寺へと向かいました。
光秀にとって最大ともいえる功績の丹波攻略を実現させたこの城が、最後の出撃基地となったことは歴史の皮肉というほかありません。わずか3年前には信長への恩と感謝を軍規に記していたことから、大きな謎となっています。
丹波亀山城は豊臣・徳川両政権下でも重要な拠点であり続け多くの人物が城主を務めましたが、明治維新後の明治10(1877)年に廃城処分が決定されます。
払い下げによって転売されますが、大正8(1919)年に神道系新興宗教「大本(おおもと)」が購入、宗教施設などの所在地となります。
大本への弾圧により一旦は旧・亀岡町に譲渡されますが第二次大戦後に再び大本の所有となり、現在も大本の本部が置かれています。
現状は宗教団体の所有となっていますが、受付の窓口で申し出れば敷地内を見学することができます。
ただし進入禁止の区域もあり、十分な配慮と注意が必要となっています。
美しく堅牢な石垣や防御機構がいまに残る丹波亀山城。
激戦を支えた防衛拠点としての往時の威容をしのばせます。また、城下に残る遺構や建築物も含めて、光秀の事績を強く感じさせる城となっています。
※参考:略年表
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