非情と情愛の艶福家?天下統一のリアリスト・徳川家康の女性観について

 長き戦国の世に終止符を打ち、天下人となった「徳川家康」。「織田が搗き 羽柴がこねし天下餅 座りしままに 食うは徳川」といった狂歌がありますが、苦節の年月を耐え抜き、幾多の戦乱を生き抜いてこその勝利だったことは言を待ちません。

 そんな家康には、実に多くの子どもたちがいたことが知られています。11男5女、側室は20人以上とも伝わっています。しかし豊臣秀吉のような「女好き」のイメージはあまり強くなく、むしろ自らの遺伝子を残すという原初的な目的を感じさせるのが家康という人物の凄味かもしれません。現に徳川幕府約260年の歴史を支えたのは、家康に連なる血脈の始祖によるところも大きく、「徳川一族」とも呼べる系譜を築くことに成功しているのです。

 家康の女性観とはどのようなものだったのでしょうか。正室や側室との関わりから、そのことについて考察してみたいと思います。

家康の二人の「正室」

 家康には、その生涯において正室の座にあった女性が二人いました。一人目は「築山殿」。家康がいまだ今川氏の人質であり、「松平元信」と名乗っていた頃の縁組で「今川義元」の血縁者でもありました。

 しかし、築山殿は息子の「松平信康」とともに甲斐・武田家に通じたという嫌疑をかけられ、徳川家安泰のため斬首されてしまいます。

 信康も連座して自害に追い込まれますが、同時代の史料には武田家との内通を示す証拠は見当たらず、冤罪による政治的な粛清だった可能性が指摘されています。

 家康は、人質時代の自身の意思とは関係のない婚姻だったにしろ、自らの正室を処断するという選択をした過去があったのです。


 二人目の正室(継室)は「朝日姫」と呼ばれる女性でした。

 この人物は豊臣秀吉の妹にあたり、家康懐柔の切り札として政略結婚に投入されました。しかも当時朝日姫には夫がおり、秀吉はこれを強制的に離縁させて家康のもとに送り込んだことが伝わっています。

 このとき家康46歳、朝日姫は44歳でした。かくして家康と秀吉は義理の兄弟となり、徳川と豊臣は姻戚関係となりました。

 しかし結婚から2年後に実母の見舞いとして朝日は帰郷、いったんは駿河に戻りますがその後再び聚楽第に身を寄せ、それ以降家康のもとには帰らなかったとされています。

 家康にとって二人の正室は、いずれも政略のための婚姻であり、そこに情愛を示すエピソードを感じ取ることは困難かもしれません。いずれにせよ、「家」のために非情な決断を強いられる、苦渋の結婚生活だったと言えるかもしれませんね。

年代と共に変化する側室の傾向

 一方、側室との関係は良好だったのか、先述の通り多くの女性を迎えて子宝にも恵まれています。

 家康は当初、側室を選ぶのに出産を経験した女性を優先していたことがわかっています。これは、子どもを産むのに問題のない身体状況であることの証明でもあり、確実に自分の子孫を残すための選択だったと考えられています。

 なかには前夫との間の子どもを連れて側室になった人物もおり、二代将軍「徳川秀忠」の母である「お愛の方」もそうでした。

 しかし家康は50歳を過ぎる頃から、側室には若い女性を選ぶ傾向が強くなります。

 例えば紀州徳川家の初代となった「徳川頼宣」の母、「お万の方」は16歳のとき、聡明で知られもっとも家康の寵愛を受けたといわれる「お梶の方」は13歳の時それぞれ側室となっています。

 当時の女性は12~13歳くらいで成人して結婚することも珍しくなかったようですが、家康自身が老境に差し掛かってきたことが影響したのか、このように側室の若年化が認められます。

 お梶の方に至ってはもし男に生まれていれば将器だったと評されるほど聡明で、家康は陣中にも伴ったというほどですので、単純に若さだけでははかれない魅力があったのでしょう。

 そこに個人的な女性への好みが作用したかどうかはさだかではありませんが、少なくとも年代ごとに側室の選択基準にある種の傾向があることは確かなようです。

「子孫を残す」という目的を遂行した

 家康が征夷大将軍に就任したのは61歳の頃ですが、60代で3人の子をもうけています。

 自身の健康管理にも細心の注意をはらっていたことがよく知られており、健康状態への造詣には深いものがあったと思われます。女性を側室として迎える際にも、何はともあれ無事に丈夫な子どもを産めること、これを最も重要視したものと考えられています。

 もちろんそこまで機械的なものではないにせよ、家康は女性の容貌うんぬんよりも、健康で自身の気に入る気立ての人物であれば積極的に側室として迎えたようです。そこには「子孫を残す」という重要命題への、シンプルなまでの答えがあったのです。

おわりに

 苦難の人生を歩み、やがて天下を統一した徳川家康。その道中では正室すらも処断せねばならないという過酷な運命もありました。

 男女の仲も好き・嫌いだけでは生き残ることができなかったのもまた戦国の世のならいですが、辛い経験の反動のように、女性の存在に憩いと安らぎを求めたのが家康という武将だったのではないかと思えてなりません。


【参考文献】
  • 『日本史諸家系図人名辞典』 監修:小和田哲男 2003 講談社
  • 『歴史群像シリーズ 45 豊臣秀吉 天下平定への智と謀』 1996 学習研究社
  • 『秘密の国史』 小笠原省三 1923 国史講習会

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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