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意外なことに子だくさん、そして細やかな気配りメール?織田信長の女性観について

  • 織田信長
 2020/06/04
織田信長の女性観イラスト

戦国武将の人気ランキングといえば、やはり「織田信長」が圧倒的に支持され不動のナンバーワンといっても過言ではありません。 「第六天魔王」などおそろしげな異名をもち、天才的な軍政能力をもつ一方で残虐な独裁者といったイメージもまた、つきまとっているのではないでしょうか。

しかし近年、研究の進展や多角的な人物評などから、一概に強権的ともいえない複雑な人格が浮き彫りになりつつあります。 そんな信長の実像に迫るヒントの一つに、「女性観」があります。

戦国武将は後継者となる子孫を確実に残し、自らの血筋を絶やさないためにも正室・側室の多妻制を取り入れるのが一般的でした。 信長もその例にもれず、やはり幾人かの側室を娶っていますが、意外なことにたいへんな子だくさんでもあったのです。

現代的な恋愛感情とは様々な面で異なる点が考えられる当時の婚姻制度ではありますが、記録や伝承から信長が女性たちにどう接してきたかをひもとき、その知られざる人物像に迫ってみようではありませんか!
(文=帯刀コロク)

信長の正室

信長の正室、つまり第一夫人とも呼べる正式な妻は「濃姫」または「帰蝶」などの名で知られています。

美濃の「斎藤道三」の娘であり、政略的な婚姻ではあったものの、これを機に信長が道三に見込まれて美濃の権益を譲渡する遺言が残されたというエピソードは有名です。

ところが、この濃姫は知名度の割には正確で信頼性の高い当時の史料がほとんどなく、後世の軍記物などに記述される部分が多いといいます。

戦国時代当時はたとえ正室であっても、その人物の履歴が記録されることはむしろ稀有な例とされるため、信長正室であってもそれは同じのようです。信長と濃姫との間に子はなかったとされており、婚儀以降の記録も乏しく濃姫がどのような人生を送ったのかもほとんど判明していません。

しかし、本当に信長の正室であったのならば、天下人に最も近いとされた男を支えたことは想像に難くなく、記録がないこともむしろ深刻な事件に遭遇せず健在であったことの裏返しかもしれませんね。

信長が天下へと手を伸ばすことができたのも美濃という重要なステップがあったからこそで、その契機となった濃姫をおろそかにはしなかったと考えたいものですが、いかがでしょうか。

信長の側室たち、そして多くの子どもたち

多くの戦国武将同様、信長にも多数の側室がいました。

一般に「六妾」といわれるように、六名の側室の名がよく知られていますが他にも数人の存在が考えられ、信長の子どもたちはすべて側室との間にできた子たちです。

記録されているだけで11男11女という人数で、意外にも子だくさんだったことがわかります。 また、側室には侍女や乳母などの職分だった者もおり、いわゆる「お手付き」によって側室に迎えられたパターンが多いようです。

信長は女嫌いだった、というようなイメージも流布しているようですが史実ではそうでもなく、むしろ艶福家としての側面が目立つのではないでしょうか。

秀吉の妻・ねねへの温かな手紙

さて、信長が実際に女性に対してどのように接したのか、確たる証拠はありませんがそれを推し量るヒントになる史料が残されています。それは安土城にいた時代、秀吉の妻・ねねに宛てた手紙です。

1576年(天正4年)頃のものと考えられている書状で、これは信長のもとへ土産持参で挨拶に来たねねへの、とても丁寧な「お礼状」でした。 そこにはねねが来訪してくれたこと、素敵なお土産をいただいたこと等へのお礼に始まり、返礼の品を迷って決められず、次回会った時に直接何か贈り物をしたい、といった可愛げのあるコメントが並んでいます。

また、ねねが以前よりもさらに美しくなったという称賛の言葉が綴られている点も注目です。 文面から、おそらくねねが信長に謁見した際に夫・秀吉への不満などを相談したことがうかがえ、この書状ではそれに対する応答のメッセージが込められています。

秀吉には過ぎた女房だとフォローしつつ、奥方らしく堂々と構えて嫉妬などせず、しっかりと夫を支えてやってほしいと述べています。

また、この手紙は秀吉にも見せてやるように言い添えるなど、実に優しげな心づくしの言葉が並んでいます。 秀吉を「はげねずみ」と呼んだのもこの書状で確認でき、ユーモアと配慮に満ちた温かな文面であることがわかります。

信長の書状というのは数が少なく、こういった文面が異例であるのかどうかは判別できませんが、少なくとも信頼する部下の妻に対して人間的な配慮を尽くせる人物であったことは注目に値します。

まとめ

信長は決してフェミニストではなかったようですが、家庭における女性(妻)の役割をとても重要視していたことがうかがえます。

安土城築城から三年が経った1578年(天正6年)、配下の家で出火の騒ぎがありました。信長は激怒し、それが岐阜に家族を残して来ていた単身赴任者であることを知ると、家を管理する妻が不在であることを問題視します。

家中をすべて調査し、単身赴任に該当する人数を把握しただちに岐阜から家族を呼び寄せる手はずを整えます。 それは岐阜の家屋敷を焼き払い、庭木まで伐採するという手荒いものでしたが、妻の家庭内での地位を重く見ていたことの証拠ともいえるでしょう。

ひいては戦働きをする男の能力を十分に引き出すことでもあり、夫婦が協力することを強く望んだ点に信長の「女性観」が凝縮されているのではないでしょうか。


【参考文献】
  • 『日本史諸家系図人名辞典』 監修:小和田哲男 2003 講談社
  • 『歴史群像シリーズ① 織田信長【天下一統】の謎』 1987 学習研究社


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