【麒麟がくる】第21回「決戦!桶狭間」レビューと解説

放送休止直前の21話は桶狭間の戦いです。信長の人生、そしておそらく日本の歴史をも大きく変えた戦い。また、今川義元といえば白塗りの公家かぶれイメージが強かったものですが、この義元は最後まで戦う義元で、「海道一の弓取り」は伊達ではない。かっこいい最期でした。

元康は離反せず

織田と今川の決戦間近、元康は母からの文を読んで涙しましたが、今川から離反するまでには至りませんでした。

駿府には妻子(瀬名姫/築山殿、信康)を置いてきているし、この時点では織田方が勝つ見込みはありませんでした。三河を思うからこそ、もし離反して今川が勝ったときのことを考えると動くことができなかったのです。

総勢2万の軍は分散されていた

桶狭間の戦いにおける今川の兵力については、実は諸説あります。

『信長公記』が4万5000としていて、『甲陽軍鑑』は一般に知られる2万余りとしています。どっちにしろ織田勢が圧倒的に数で劣る事実は変わりませんが、「麒麟がくる」では2万で計算していましたね。

早朝、元康に丸根砦を落とされたことを知った信長は一旦「籠城する」と言い放ったものの、幸若舞の「敦盛」をうたうと、今川本軍の兵力が実はかなり分散されていて少ないのではないか、というところに勝機を見出します。

鷲津砦、丸根砦を落とすのにそれぞれ2000ずつ。鳴海城への援軍に3000。そして駿河に残した軍勢が7000。なんでそんなに駿河残留組がいるのか、というとそりゃ背後には武田がいますから、妥当なところでしょう。

ここで信長は簗田政綱(やなだまさつな)に、今川の手元にどれほどの兵が残っているか探れと命じています。

桶狭間の戦いの功労者といえば義元を討った毛利新介(良勝)ですが、実はこの政綱がそれ以上の功労者として沓掛城主になった、という説があります。義元本陣の場所を知らせた立役者だったとか。ちょっと印象は薄いですが、もう一人のヒーローです。

隠し子・信忠

「死のふは一定(いちじょう)」。これは信長が好んだという小歌の一節です。

人はみないつか死ぬ。たとえわずかでも義元を討つチャンスがあるなら戦う。道三が生きていたらそうしただろう。父・信秀のおかげで今川本軍の本当の兵力に気づき、義理の父・道三の精神に背中を押される。信長の中にふたりの父が生きています。

そんな信長が、「もしかしたら死ぬかもしれないから、今のうちに会わせておきたい人がいる」と帰蝶に引き合わせたのは、奇妙丸(のちの信忠)でした。

乳飲み子ではなく、もう幼児くらいの奇妙丸を見た帰蝶は呆然……。先週のレビューでちょっと生駒吉乃に触れましたが、まさか吉乃本人が登場する前に信忠が登場するとは。

こんなタイミングで隠し子に引き合わせる信長はやっぱりちょっとズレていますが、黙っていたことはさすがに気まずく申し訳なく思っているようでした。

自分が死んだあと、織田家を託せるのは10年連れ添った帰蝶だけ。ちなみに、信忠は側室腹の子ではありますが、嫡男なのでこの後も正室の帰蝶の子という扱いになったようです。

このあと駆け付けた光秀も一瞬対面していますが、この赤子はいずれ信長とともに光秀によって討たれることになるのです……。


乱取りと元康のストライキ

砦を落として一仕事終えた元康を大高城で迎えたのは、鵜殿長照(うどのながてる)でした。

「義元様も三河守におなりになって早速のこの快挙、さぞお喜びであろう」「これで殿は名実ともに三河の主じゃ、ワッハッハッハ」と、今川の下でたった今まで働いてきた三河勢の前でそれを言うのですから、この人は周りが見えてないのか、ただ浮かれているのか……。

その後も鵜殿は矢継ぎ早にあっちへ行け、違う今度はそっちへ行けとあれこれ命じます。最後には今川本軍に合流しろと命じますが、先ほどの一件で頭にきている元康はこれを拒否し、「今日はここから一歩も動かない」と宣言します。

今川に留まることは決めたものの、あえて今川のために力を尽くしてやることもない。鵜殿のいらん一言のおかげで、今川本軍は三河勢の兵力を失ったのでした。

また、義元は信長の兵300が中嶋砦に来るとの知らせを受けます。この程度なら鷲津砦の兵を向かわせればよいと考えますが、しかし兵はまだ鷲津砦に留まっている。兵たちは乱取り(乱妨取り/※略奪行為)を行っているというのです。

これは『甲陽軍鑑』に書かれているもので、乱取りで油断している今川の隙を突いて信長は急襲した、という説があります。

略奪行為に激怒する義元は、自分たちは野盗などとは違う、と武士の誇りを持った人物であることが強調されています。最後の最後になって輝きを増す義元。

ともかく、乱取りで兵がぐずぐずしていることで、織田300のために今川本軍から1000の兵を出すことになり、さらに本軍の兵力が削がれたのでした。

今川義元の最期

信長は、義元が中嶋砦対応の兵を1000人以上も出したことを知ると、嬉々として立ち上がります。残るは5000余り、これなら勝ち目はあります。

タイミングよく雨が降り出し、今川本陣はめちゃくちゃ。『信長公記』には、今川方には前から顔に降りかかる雨で、織田方には後方から降りかかった、とあります。

この雨で塗り輿に乗った義元はいい標的です。輿に乗ることを許された義元は自分の権威を示すために乗っていたようですが、戦場ではどこに大将がいるのか一目瞭然。信長も塗り輿を目指せと命じています。

空が晴れたころ、毛利新介らが攻めかかり、義元はまず服部小平太(春安)に膝口を斬られ、毛利新介によって討ち取られました。このあたりは『信長公記』に拠っているようです。

高く飛んだ新介が迫りくるのが義元の瞳に映り、ほんの一瞬の出来事のはずなのに死が迫るまでが長く感じられました。瞳に映る新介はVFXで表現されたそうです。雄叫びを上げて名乗りを挙げる毛利新介。ものすごいラスボスを倒した感がありますね。

早朝から時間刻みで描かれた桶狭間の戦い。優勢だった今川がどんどん兵を分散し、劣勢に向かう様は臨場感がありました。

義元左文字(宗三左文字)

輿に乗ったままなすすべなく討ち取られる印象が強かった義元ですが、自分の刀を持って最期まで戦いました。

義元がこの時持っていた刀はおそらく義元左文字で、戦いの後は信長が召し上げ、常に持つようになったと言われています。義元左文字は持ち主によって名を変え、義元の前には三好政長(宗三)が持っていたことで「宗三左文字」と呼ばれた名刀です。

信長は大きな国をつくれる者か?

今回も光秀は間に合いませんでしたが、勝利して凱旋する信長を迎えます。

勝利を讃える光秀に、今まで父にも母にも褒められなかった信長は喜びます。褒めてくれるのは唯一、帰蝶だけ。ここで信長は「あれは母親じゃ」と言っています。そうだろうなとは思っていましたが、なるほど本人にそう言わせてしまうか……。信長の中で、帰蝶は母親にカテゴライズされているんですね。

「この次は何をなされます」と畳みかけるように尋ねる光秀は、信長が「大きな国」をつくる者かどうかを見定めているのでしょうか。今川を倒した後は美濃をとる。その後は……?

美濃斎藤氏を倒したあと、信長は「天下布武」を掲げ、足利義昭を奉じて上洛をめざします。道三が予見したとおり、信長は「大きな国」づくりに舵を切っていくことになるのです。


【参考文献】
  • 奥野高広・岩沢愿彦・校注『信長公記』(角川書店、1969年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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