「どうする家康」桶狭間合戦直後の家康、岡崎入城の経緯とは?

大樹寺(愛知県岡崎市鴨田町広元)の三門(出典:写真ACより)
大樹寺(愛知県岡崎市鴨田町広元)の三門(出典:写真ACより)

 大河ドラマ「どうする家康」第2回「兎と狼」では、主人公・松平元康(後の徳川家康)が、桶狭間合戦(1560年5月19日)により、主君の今川義元が織田信長に討たれたことで、窮地に陥る様が描かれていました。ドラマにおいて、元康らは、信長軍に包囲されるも(実際には、元康軍が信長に包囲されるということはなかった)、信長はなぜか急に撤退命令を下し、元康を見逃すことで、危機を脱することができたのです。

 しかし、直後にまたもや元康を危機が襲います。何者か分からぬ者が率いる軍勢が現れたのです。元康は最初「織田軍」かと思ったようですが、そうではなく、大草松平家の松平昌久(演・お笑いトリオ東京03の角田晃広さん)が率いる軍勢でした(大草松平家は、十四松平の1つ。三河国額田郡大草郷=現在の愛知県額田郡幸田町の出)。昌久は味方を装いつつ、元康らに近づき、いきなり、元康軍に鉄砲で襲いかかったのです。元康らは、松平家の菩提寺・大樹寺(松平親忠により、1475年に創建されたと伝わる)に逃げ込むという話の流れでした。元康らがこの時、大樹寺に入ったのは事実(『三河物語』などの記載)ですが、松平昌久に追われてという事情からではありませんでした。

 岡崎城には未だ「駿河衆」(今川方の将兵)がいて、元康らは岡崎城に入ることができませんでした。いや、元康自身が、今川氏真(義元の後継者)に義理を立てて、(岡崎の今川方から要請があっても)城に入ることを拒否していたのです(『三河物語』や『徳川実紀』などに記載)。氏真の命令なく、勝手な行動をすることを慎んだのでしょう。が、岡崎城にいる今川勢としては、一刻も早く、城から退却したい気分だったのです。織田軍により、追撃を恐れたからでしょう。彼らは、とうとう岡崎の城から退いてしまいます。つまり、空き城となったのです。

 「捨て城ならば拾おう」と元康は述べ、ついに、父祖の城に入城することになったのでした。ですので、松平昌久の襲撃があり、寺に逃げ込んだわけではないのです。しかし、昌久自体は、後の三河一向一揆(1563〜1564年)に乗じて、元康に刃向かっていたようです。一揆鎮圧後の昌久の動静を『三河物語』は大草の松平七郎(昌久)はどこへ行ったのか分からない」と記しています。行方知れずとなったのでした。

 そうしたことがありましたので、ドラマにおいては、桶狭間合戦直後の松平昌久による元康襲撃を盛り込むことにより、両者対立の伏線としようとしたのかもしれません。

 それにしても、第2回においては「弱虫」だった家康が少し「覚醒」したように思います。大樹寺を包囲する昌久の軍勢の前に堂々と出ていき「そなたたち(元康家臣)のことは、この儂が守る!儂が守るんじゃ」「道を開けい!」と絶叫した元康。元康の一喝により、畏れ、道を開く昌久。元康に当主としての自覚が、家臣団との絆が芽生えた瞬間だったのではないでしょうか。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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