「天下布武」とは?信長の野心と願い!?その真意を深掘り考察!

 「織田が搗き 羽柴がこねし天下餅 座りしままに食うは徳川」こんな狂歌を一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。

 天下を餅になぞらえ、信長と秀吉が作ったものを最後に家康が手にしたという風刺的な内容で、おそらく幕末あたりの落首がもとになっていると考えられています。「織田が搗き」と最初にあるように、天下平定への先陣をきったのが信長とされ、現実に限りなく天下人へと近づいた武将でもありました。

 織田信長といえば最も人気のある歴史上の人物の一人でもあり、実に多くの英雄的なイメージをもたれています。なかには「専制君主」や「魔王」などといったネガティブな印象もありますが、治世・外交・軍事のいずれにおいても斬新で柔軟な行動力を発揮したことが知られています。

 そんな信長の覇業を表す言葉として、「天下布武」の四文字が広く知れわたっています。印章として用い、信長の隠すことのない天下統一への野心の証拠という文脈でも語られるこの言葉。今回はそんな「天下布武」について、その概要をみつつ真の意味を深掘り考察してみたいと思います。

「朱印」と「天下布武」

 そもそも信長の「天下布武」印とは何だったのでしょうか。これは「朱印」といい、書類へのサインの代わりとして捺印したものを指しています。

 個人を示す独特の手書きサインは「花押(かおう)」であり、花押の代わりに朱印を捺した文書を「朱印状」と呼んでいます。特に東国を中心とした有力大名が用いたことで知られ、甲斐武田氏は龍の紋様を彫り込んだもの、後北条氏は「禄壽應穏」の印文と頂点に伏せた虎を配したものを使っていました。

天下布武の印章
天下布武の印章(出典:wikipedia

織田信長の朱印状(兵庫県立歴史博物館蔵)
織田信長の朱印状(兵庫県立歴史博物館蔵)

 信長の「天下布武」印もまさしく同様のものですが、印文の響きから強烈な野心を感じさせるものとこれまで理解されてきました。

 「天下に武を布(し)く」と読めることから、自らの軍事力を背景として天下統一を達成する意思表示と解釈され、永禄10年(1567)頃から使われだしたと考えられています。

 この年は信長が美濃の「稲葉山城(現在の岐阜城)」を攻略し、城下を「岐阜」と改名したタイミングでもありました。美濃の支配権を確立した信長は、この時すでに「天下」を視野に入れていたといわれています。

円徳寺所蔵の岐阜城図
円徳寺所蔵の岐阜城図

 なお、「天下布武」の言葉を考えたのは、信長のブレーンとされる禅僧沢彦(たくげん)です。

 沢彦については史料が少なく、その実像ははっきりしませんが、信長の父・織田信秀の代より織田家とは深く関わりがあったようです。また、中国の故事にならって岐阜の地名を考えたのも沢彦と言われています。

 美濃を平定した翌永禄11年(1568)、信長は越前に逃れていた「足利義昭」を奉じて上洛を果たし、室町幕府15代将軍として擁立することに成功します。まさしく「天下」への大きな布石となり、印文の字義を着々と実現させていくかのようでした。

「武」の持つ本来の意味とは

 旧来、武力をもって君臨するという意味に解釈されてきた「天下布武」ですが、近年ではまた異なる見解が示されるようになっています。

 そもそも信長のいう「武」とは、攻撃的な軍事力だけを指すわけではないというのがその骨子で、古代中国の『春秋左氏伝』を出典とする言葉と考えられています。そこでは「武有七徳」、つまり武には七つの徳性があると説いているのです。すなわち、「暴を禁じ」「兵をやめ」「大を保ち」「功を定め」「民を安んじ」「衆を和し」「財を豊かにす」という効果を「武」は有している、というものです。

 一見矛盾する考えのようではありますが、現代的に「軍事」を「防衛」と置き換えてみるとわかりやすいかもしれません。

 戦国の世では各地で紛争が相次ぎ、自国を侵略される危険と常に隣り合わせでした。攻撃される前に周辺を侵略し、さらなる国力増強を図ろうという悪循環に陥っていたのです。戦火にさらされる民衆は被害者となり、徴兵や掠奪によって疲弊していき、いくつもの国が滅んでいきました。そんな世の中に終止符を打つ、という名目こそが「天下人」の大義でもあったといえるでしょう。

 「武」という字の成り立ちも、示唆に富んでいます。武の字を分解すると長柄の刃物である「戈(ホコ)」と、「止める」という字が合わさってできていることがわかります。これはつまり、「戈をもって争っている人を止める」というのが本来の意味であるとされています。

「天下」の意味は日本全国というワケじゃない?

 一方、天下布武の「天下」の意味についても、歴史学者の神田千里氏がその著『織田信長』の中で、とても興味深い見解を示していますので、その概要をみてみましょう。

 普通に考えたら「天下」=「日本全国」を意味するものと考えられますよね。しかし、その意味で捉えると、信長は「日本全国を武力で統一する」全国の戦国大名らに宣戦布告したようなものです。よくよく考えてみると、「天下布武」印を使い始めたころの信長は、まだ尾張と美濃の2か国しか領有していません。周りには武田や上杉、浅井・朝倉・本願寺勢力などの強敵がひしめいています。

 そのような状況でわざわざ周りの諸大名たちを刺激する行動というのは、なにか矛盾を感じないでしょうか。実際、信長は毛利元就や上杉謙信宛てに「天下布武」印を使っていますが、内容的には友好的なもので、宣戦布告というような雰囲気ではありません。

様々な一次史料から「天下」と書かれた部分を検証してみると、意味は以下のように限定的でいくつかのパターンに推測できるようなのです。

  • 将軍自身や将軍の政治
  • 中央政権に対する世論の主体
  • 日本全国ではなく限定的なエリア

 結論から先にいうと、神田千里氏は「天下」=「京都を含む五畿内」を表現しているとのこと。上記リストでいう一番下ですね。五畿内とは山城国・摂津国・河内国・大和国・和泉国の令制5か国を指します。


 信長は義昭を奉じて上洛したと同時に、畿内平定戦を展開しています。つまり、信長は畿内の秩序をめざし、将軍の威勢をいきわたらせるのが目的だった、いうこと。ちなみにこの目的は、諸大名たちの利益を損なうものではなかったらしいです。

 そういうことなら一次史料と従来の「天下布武」の意味の矛盾もなくなりますよね。ただ、そうなると、「じゃあ信長に天下統一の野望はなかったのか?」というギモンも生じてくるのですが・・・。

おわりに

 こう考えてみると、信長の描いた「天下布武」とは武徳によって戦乱の世を終わらせ、平和な時代を実現するという決意とも解釈できるでしょう。もちろんその真意は今となってはわかりませんが、少なくとも単純な軍事力だけを頼りに全国を支配しようとしたわけではないのは明白です。

 「天下布武」を標榜し、天下人目前にまで迫った信長でしたが、本能寺で明智光秀に討たれるという最期を迎えます。この事件は歴史上の大きな謎としていまだに話題となりますが、側近中の側近ともいえる光秀は、信長の「天下布武」をよく理解していたはずではなかったでしょうか。

本能寺非道阻止説のイラスト

 信長に心酔し、心からの恩義を感じていたという光秀をそこまで駆り立てたものは何か。これも研究の進展が待たれる問題ですが、光秀とて平和な時代を望まなかったはずがありません。いわば信長にとっての「天下布武」と光秀にとっての「天下布武」、その両者に修復不可能な食い違いが生じてしまったのでは。「天下布武」とは、そんなことを考えさせるキーワードではないでしょうか。



【参考文献】
  • 『織田信長』 神田千里 2014 筑摩書房
  • 『日本史諸家系図人名辞典』 監修:小和田哲男 2003 講談社
  • 『考証 織田信長事典』西ヶ谷恭弘 2000 東京堂出版
  • 『歴史群像シリーズ① 織田信長【天下一統】の謎』 1987 学習研究社
  • 『近世日本国民史.[第1](織田氏時代 前篇)』 1918 民友社

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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