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明智光秀はナゼ謀反を起こした?本能寺の変の理由(動機)について、諸説をまとめてみた

東滋実
 2019/12/02

現在の京都 本能寺
現在の京都 本能寺

明智光秀が主君・織田信長を討った「本能寺の変」は、日本史最大の事件・ミステリーとして人々を惹きつけています。暗殺事件で本能寺の変に匹敵するのは、坂本龍馬暗殺事件くらいではないでしょうか。

「誰が誰を討ったので歴史が変わった」だけならば、単なるクーデターとして片づけられる話ですが、多くの人の興味を引く所以はやはり「謎」があるからでしょう。
(文=東 滋実)

本能寺の変の謎

天正10(1582)年6月2日、本能寺の変が起こりました。

この直前、信長は中国攻め真っ最中の羽柴秀吉からの援軍要請を受け、自身が出陣することを決定しています。光秀も毛利攻めに加わるよう命じられ、本能寺の変直前まで出陣の準備をするために国許へ帰っていたのです。

「敵は本能寺にあり!」と言ったかどうかはわかりませんが、2日の午前4時ごろ、桂川を渡った明智軍は中国方面ではなく、信長のいる本能寺めがけて奇襲をかけました。小姓衆などわずかな手勢しかいなかった本能寺は、あっという間に光秀優勢に。本能寺は炎上し、信長は自害して果てました。

信長は死んだ、とされているのですが、証拠となる遺体は発見されずじまいでした。これもまた本能寺の変がミステリーたる所以のひとつで、実はどこかから脱出して生き延びた、なんていう説もあります。

実際は炎上する本能寺の中で遺体も残らないほど燃えてしまったのだと思われますが、証拠となる信長の首を見つけられなかったことは、このあとの光秀の運命に大きく影響しました。もし見つかっていたなら、光秀の味方につく武将はもっと多く、あんなにあっけなく散ることはなかったかもしれません。

動機が見えないのはなぜ?

さて、光秀が信長を討ってから死ぬまでは「三日天下」なんて揶揄されたりしますが、実際は12日間でした(それにしても短い)。信長を討った光秀があっという間に死んでしまったために、「なぜ信長を討ったのか」という動機はいまだ謎に包まれています。

光秀自身が細川親子に送った書状には「忠興に天下をあげようと思ってやったんだよ、だから出陣してほしい」なんて書いていますが、援軍要請に応じようとしない態度に焦っておべっかを使っただけでしょう。

所詮、光秀は歴史の上では敗者です。光秀に賛同し従っていた者たちは、世の中の流れが変わり秀吉に傾いていくのを見ながら、自分に害が及ばないように焦って日記を改ざんしたり証拠資料を隠滅したりしました。だから、光秀が誰かに動機を語っていたとしても、それは残っていないというわけです。

これだけ多くの人の心を惹きつけながら、「動機はこれだ!」といえるほどの通説もない本能寺の変。確たる証拠がないからこそ、迷走していろんな説が次々と湧き上がるのかもしれませんね。

本能寺の変が起こった理由には、有力な説から「そんなのありえない!」という俗説まで、実に50を超える説があります。

すべてを取り上げることはできませんが、長年有力視されてきた説や、近年大河ドラマにも採用された説など、系統に分けて紹介します。

なお、説の分類については谷口克広氏の『検証 本能寺の変』を参考に似たような構成としております。

野望説

光秀だって天下が取りたかったんだ、というのが野望説です。信長の家臣として仕えながらも、密かに野心を燃やしていたというもの。

本能寺野望説の明智光秀イラスト

『愛宕百韻』の「ときは今~」【典拠:『愛宕百韻』『惟任退治記』】

この根拠となるのが、光秀が本能寺の変を起こす直前(5月24日または28日)に参加した連歌会で詠んだ句です。

光秀が詠んだ発句がこちら。

「ときは今 あめが下な(し)る 五月哉」

  • 「とき」=「土岐」(光秀は土岐氏の出身とされる)
  • 「あめ」=「天」
  • 「下知る」=「支配する、治める」

と解釈することができ、「土岐氏が天下を支配する五月となった」と読めるのです。

野望説は作られた?

信長の右腕だった光秀に天下簒奪の意志があったというのは、小説にするなら話が膨らみそうでなかなか夢があっておもしろいですよね。

ただ、テクストを確認すると「下しる」は「下なる」版もあって、その場合解釈が変わります。「土岐氏は今、降りしきる雨のような苦境の中にある五月だ」とも読めるというわけです。

「ホラホラ、光秀には野望があったんじゃないか!」と『愛宕百韻』を引用して最初に書いているのが『惟任退治記』なのですが、これを書かせたのは何を隠そう豊臣秀吉です。勝者に都合のいいようにいくらでも書き換えられるので、信憑性があるとはいいがたいのが現状です。

『愛宕百韻』について記録されている原本についても、改ざんされたのではないかという説があるので、野望説はまだいろいろと検証の余地アリでしょう。

光秀研究では誰もが読む高柳光寿氏の『明智光秀』(吉川弘文館)には、「信長は天下が欲しかった。秀吉も天下が欲しかった。光秀も天下が欲しかったのである」と、光秀に野望があったという説を立てていますが、信長や秀吉が天下を欲していたとして、だから「光秀も欲しかった」とはつながりません。いまだ、彼が天下を欲したという確かな証拠は見つかっていません。

怨恨、不満説

野望説と同じくらい根強く支持されてきたのが怨恨説です。信長が短気で怒りっぽく、秀吉や光秀に辛くあたったというエピソードは枚挙に暇がないくらい。大河ドラマや小説などのフィクション作品でよく採用されている説です。

母が磔になり、信長を怨む明智光秀のイラスト
母の磔死に信長を怨む光秀

恨みの元となった出来事をいくつか紹介してみましょう。

光秀母が磔になった一件【典拠:『総見記』『柏崎物語』】

丹波経略で波多野氏を攻めていたときのこと。光秀は八上城に籠城する波多野兄弟に開城させるために、人質として実の母を送りました(大河ドラマ「麒麟がくる」では石川さゆり演)。

光秀は波多野兄弟に「身柄を安堵する」と約束していたのですが、信長がそれを無視して兄弟を処刑してしまいました。これを知って怒った波多野方が光秀の母を磔にして殺してしまったという逸話です。

この悲劇的な逸話は、近年では創作とみなされています。信長の一代記である『信長公記』には光秀母の死なんてちっとも登場していませんし、八上城籠城戦についての記録を見る限り、人質を送らなければならないほど対等な立場ではなかったからです。

根拠となる書物も後世に書かれたもので、おそらく光秀の「調略」に想像を膨らませて作ったのではないでしょうか。

「きんかん頭」(庚申待酒宴の一件)【典拠:『義残覚書』『続武者物語』】

家臣にあだ名をつけるきらいがあったという信長は、秀吉には「禿げねずみ」、光秀には「きんかん頭」というあだ名をつけたと言われています。

庚申の夜の酒宴の席で、信長は数十人と飲んでいました。と、光秀が厠へ立ったのが目につき、それが気に入らなかったのか「いかにきんかん頭、なぜ中座したか」とののしって鑓を突き付けたというエピソードがあります。

あまりうれしくないあだ名をつけられたばかりか、鑓を突き付けるというパワハラ。羞恥と恐怖のコンボですから、恨みに思っても仕方ないのかもしれません。

酔って暴力をふるうなんていかにもありそうな話ですが、これが謀反のきっかけになったかというと疑問です。そもそも信長自身が下戸であった(フロイス談)と言われていますし、「俺の酒が飲めないのか!」とはならないように思えます。

こういうことがあったとして、「嫌だな」と思いこそすれ、殺したいほど憎む案件ではないでしょう。

「骨折り」発言で折檻(諏訪法華寺の一件)【典拠:『川角太閤記』『祖父物語』】

天正10(1582)年、本能寺の変が起こる少し前、信長は武田勝頼に勝利しています。この信長の武田攻めで諏訪郡を制圧したとき、こんなやりとりがあったとか。

「おめでとうございます。私が骨身を惜しまず働いたことが報われました」とかなんとか光秀がお祝いの言葉を述べると、信長は「骨身」という言葉が気に障ったらしく、「お前がいつ骨を折って活躍したのか」と怒って光秀の頭を欄干にこすりつけて滅多打ちにしたのです。

エピソードが詳しく取り上げられているのが江戸時代の俗書の『祖父物語』なので、どうにも創作のように思われます。同じようなエピソードが複数あるので、そこから装飾して作ったものかもしれません。いずれにしても、謀叛の動機になる出来事ではなさそうです。

腐った魚を出して折檻(家康饗応の一件)【『川角太閤記』『日本史』】

これもよくドラマなどで取り上げられる有名なエピソードです。

本能寺の変の直前、信長は家康を安土に招いて接待しました。接待責任者を務めていたのが光秀だったのですが、用意した魚が腐っていたため信長が激昂したという話です。

光秀は腐った魚を器ごと掘りへ捨てたので周囲には悪臭がただよったとか、信長に鉄扇で打ち据えられたとか、光秀が恥をかく要素が満載です。

この失敗のせいで信長を怒らせ、接待役を降ろされて中国攻めに加わるよう命じられた、さらには所領を召し上げられて「敵国の山陰を取れたらそれを領国にしろ」なんて無茶を言われたという説があります。

ただ、光秀と仲が良かった吉田兼見の日記『兼見卿記』を見ると違う見方ができます。兼見によれば、光秀はとくに目立った失敗をしたということもなく、役目を全うしていたとか。それに接待役を降ろされたのは中国への出陣のためだったと見るのが妥当でしょう。

斎藤利三を引き抜いて折檻【典拠:『続武者物語』『川角太閤記』】

光秀の腹心の部下に斎藤利三という武将がいます。山崎の戦いで主力として戦った人物です。この利三は、美濃斎藤氏の出身で、もともと稲葉一鉄に仕えていました。それを光秀が引き抜いたため、一鉄との間でトラブルが起こったのです。信長は一鉄の訴えを聞き入れて光秀に返すよう命じますが、当の光秀は応じようとしなかったため折檻したというエピソード。

『続武者物語』には、信長に折檻されて月代から血を流しながらも、「私が利三を召し抱えるのは信長様への奉公のため」と弁解したため、信長はしぶしぶ許したと伝わっています。

本能寺の変の直前に突然起こったトラブルのように言われていますが、利三が光秀に仕えるようになったのは元亀元(1570)年ごろとも言われています。別の引き抜き問題と絡んで、天正10(1582)年に表面化したようです。

実際に利三を返せ、返さない、という争いはあったようですが、これが本能寺の変の直接の原因となったとは考えにくいでしょう。

光秀の美人妻を信長が狙った一件【典拠:『落穂雑談一言集』】

ある夜、信長が近習と猥談にふけっていたとき、光秀の妻の話になります。近習が言うには、「光秀の妻こそ天下一の美女だ」と。信長は噂を確かめようと、家臣の妻を出仕させて光秀の妻・煕子を待ち伏せしました。ところが、抱きしめようとした信長を煕子は扇で打ち据えてしまいました。信長はこれを根に持ち、また光秀のほうも妻から聞いて警戒したため、恨みが残ったというエピソードです。

俗説のひとつで、下世話な芸能ゴシップのような逸話です。信長は規律に厳しく、秀吉とおねのケンカ仲裁を買って出たという話もあるくらいなので、家臣の夫婦関係にひびを入れるような行動はしないように思えます。また、この件を根に持って光秀に辛くあたるようになったなんて、信長がその程度の人物だったとは思えません。

怨恨説まとめ

怨恨説は長年有力視される説のひとつではありますが、根拠となる書物のほとんどが江戸時代に書かれた俗書であることから、信ずるに足る証拠とは言えないのが弱点です。

ひとつひとつのできごとを見ると、何かひとつがきっかけになったとは思いにくいですよね。総合的に見て恨みが蓄積して堪忍袋の緒が切れた……と考えることはできるかもしれませんが、ここまで信長の家臣としてやってきた光秀が恨みで殺すでしょうか?

元も子もないことを言いますが、もし「殺したいほど信長が憎い!!!」と思っていたとして、私ならソーッと毒殺します。信長が死んでくれさえすればいいのなら、自分が不利にならない手段を選ぶのが一番です。何も大々的に討伐する必要はないでしょう。いかにも現代的な考え方で、戦国武将のやり方としては間違いで卑怯な手だとは思いますが……。

「政策上の対立」とする説

政策上の対立説を一言でざっくりと言うと、光秀が信長の悪政に「許せない!」と立ち上がったような説です。

信長と光秀のイラスト
  • 信長が将軍任官を望んだことのが許せなかった。
  • 正親町天皇への譲位強要が許せなかった。

光秀からみた信長の非道というのはいくつかあるようですが、要するに自己神格化に走る信長を阻止したかったということのようです。


「精神的理由」とする説

これは謀反の主な要因は、光秀の精神的な部分から引き起こされたとするものです。

本能寺ノイローゼ説のイラスト

「そもそも信長と性格が合わなかった」「ノイローゼだった」というように、性格不一致・ノイローゼ説が提唱されています。

四国説

四国説というのは、実は四国の長宗我部元親との結びつきが強かった光秀が、信長による四国攻めを避けたかった、という説です。

谷口氏はこの四国説を怨恨説として分類していますが、政策上の対立説 ともとれるし、将来に対する不安(本記事のカテゴリでいう怨恨説)ともとれるため、独立した項としました。

本能寺四国説のイラスト

長宗我部元親は光秀家臣の斎藤利三の親戚にあたり、光秀は信長と元親をつなぐ役割を担っていました。

信長は当初、四国については「とれるだけ自分の領地にしたらいいよ」と元親に言っていたのですが、「やっぱり一部は返して」と言ったので関係は悪化します。光秀の説得もむなしく、対立が決定的になったので信長は四国征伐の軍を派遣することにしました。

光秀は仲介者としての面目丸つぶれで、しかも親戚(長曾我部)が危ない!ということで、救出のために兵を挙げたのだ、というのがこの説の大筋です。

実際、光秀には焦りがあったかもしれません。信長が前言撤回して阿波と讃岐を返せと言ったのは、秀吉縁者の三好康長(秀吉の甥っ子の養父)に分け与えるためだったからです。

もしかしたら自分よりも秀吉が信頼されているのかもしれない……。信長は長年使えた宿老であっても、手柄がなければ容赦なくクビにしたりしていますから、信長の信頼が薄れていることに不安を抱いた可能性はあります。

また、2014年に四国攻め説に大きく関係する史料が再発見されました。岡山の林原美術館所蔵『石谷家文書』です。

ただ、これによれば元親が信長の命令に従う姿勢を見せたことがわかり、ちょっと余計にややこしくなってきました。だって、元親が意見を曲げて折れたのに、信長は織田信孝・丹羽長秀に四国出陣の命令を出した事実は変わらないのです。

もしかしたら、元親が「降参します」と書いた書状が届くタイミングが悪く、光秀も信長も知らないまま突き進んだのかもしれません。すれ違いの結果本能寺の変が起こってしまったのだとしたら、なんだかむなしいですね。

黒幕説

野望説や怨恨説は、突発的であったにしろ虎視眈々と狙っていたにしろ、光秀単独で変を起こしたと考えられていますが、そうじゃなくて背後に黒幕がいたのだ、とする説があります。

足利義昭黒幕説【藤田達生氏】

光秀が信長に仕官する前に仕えていたのが、15代将軍の足利義昭です。当初は信長と親子のように親密にやっていましたが、対立は激化。義昭は「信長包囲網」で追い詰めようとしますが、逆に京から追放されてしまいました。

その義昭と密かにつながっていた光秀が謀反を起こした、という説です。

信長に仕えながらも幕府に属していた「光秀両属説」があります。京を追われた義昭と密かにつながっていて、彼の復権を願って謀反を起こしたというのです。

2017年、光秀が義昭の上洛戦に協力するという密書が発見されました。まだこれが本能寺の変の動機になったと断定することはできませんが、藤田達生氏の幕府再興説を補強する一材料になっています。

が、京を追われた義昭を肥後していた毛利がその件を全く知らず、秀吉とさっさと和睦を結んでしまったというのは妙な話です。

朝廷黒幕(関与)説【立花京子氏ら】

光秀は勤王派で、信長を討ちたい朝廷と結託して謀反を起こしたという説です。桐野作人氏や立花京子氏が実証的な論を組み立てて唱え、一時期は「これが主流になるのでは?」というほど勢いがあった説。

  • 信長と正親町天皇の関係がよくなく、皇太子の誠仁親王を即位させようとした。
  • さらに、信長自ら太上天皇になろうとした。

とか、天皇の権威すら恐れぬ話です。

神仏を信じないとか、古い慣習にとらわれないとか、いかにも信長らしい、と言ってしまいそうになるのですが……。

信長が正親町天皇の譲位を迫ったという事実はありませんし、自分が天皇に成り代わってやろうという考えがあったわけでもありません。

朝廷黒幕説の根拠として、ほかに暦に関するエピソードもあります。朝廷が使っている暦がどうも正しくなさそうなので、信長の故郷あたりで使われている「三島暦」に変えるよう強要した、という話です。しかしこれも、朝廷で使われていた宣明暦が間違っているとは言えませんし、信長は強要したのではなく「提案した」という程度。当時日食の問題もありましたから、信長なりに「こうしたらいいのでは?」という案を出しただけで、これが朝廷との関係に影響したとは考えにくいと思われます。

イエズス会関与説【立花京子氏】

本能寺の変を背後で操っていたのがイエズス会であり、信長の天下統一事業自体がイエズス会をはじめとする南欧勢力の指示だ、というかなり大胆な論です。

また、信長に仕えていたとされる黒人の弥助はイエズス会のスパイであったという説もあります。彼は信長のデスマスクを作っており、もしかしたらイエズス会が信長の死に関与していたのかも?と思わされます。

弥助が作ったデスマスクが信長本人のものかどうかは怪しいです。また、光秀がキリスト教に関心を持っていたというような記録もなく、イエズス会から信長暗殺を頼まれたとして、彼が素直に「うん」と言うだけの材料がないのが気になります。

立花氏の論は大胆でおもしろくはあるものの、『明智軍記』など、誤謬の多い史料からの引用が多いのが気になります。また、イエズス会が日本を足がかりに明の征服をねらったという論にも穴があり、これらを以って根拠というには乏しいのが現状です。

本願寺教如首謀者説【小林義博氏】

信長と長きにわたって対立した石山本願寺。顕如の息子・教如が本願寺の変の黒幕だったという説です。

  • 教如は父親にさらに輪をかけて信長を嫌っていた。
  • 本願寺と関係の深い雑賀衆と光秀のつながりを示す書状が見つかった(『6月12日付土橋重治宛光秀書状』)

など、信長と対立する勢力のつながりから導き出される説です。

教如が信長を嫌っており、その教如と朝廷、将軍足利義昭、雑賀の関係はすこぶる良好。そして光秀は朝廷や将軍義昭との間につながりがある。

この説は、教如単独で本願寺だけの利を求めて発案したというより、朝廷、将軍、雑賀衆、それぞれに利があって初めて強い動機となるのがポイントです。まだ「信長包囲網」は完全に崩れてはいなかったのか?

それにしても関係性から導き出すというのは相対性が強く、状況証拠で攻めていて、絶対的な証拠がないのが気になります。

秀吉黒幕説

本能寺の変で誰が一番得をしたのか?それはもちろん秀吉ですよね。主君の仇を討ったのち、天下を手にしたのはこの人ですから。

中国大返しがあまりにも早かったことから、綿密に計画を練って事に及んだのでは?と勘繰ってしまいます。

多数の歴史番組に出演していることで有名な磯田道史氏は『古館トーキングヒストリー』にて、秀吉黒幕説に手をあげています。また、BSプレミアムで放送された『ザ・プロファイラー』では、黒田官兵衛を演じた岡田准一さんが「秀吉黒幕説」ならぬ「黒田官兵衛黒幕説」を推したりもしています。実際、黒田官兵衛の関与を論じる大学教授もいるくらいなので、突飛な説ではないのかも。

フィクションにすればとても面白い説ですが、如何せん証拠がありません。が、勝者だからどのようにでも証拠隠滅はできるので、何とも言えないところです。

本能寺の変の黒幕ではなかったとしても、黒田官兵衛と、京都の吉田神社神主・吉田兼見が親しい間柄であったため、すぐに本能寺の変を察知したという見方もあります。ただ、兼見は光秀とマブダチと言っていいほどの関係だったので、どちらに味方をするかといったら光秀だろうと思われます。

家康暗殺計画を利用した説

信長は本能寺で家康を暗殺する計画を立てていて、光秀はそれを利用して信長を討ったという、明智憲三郎氏の説です。

信長は家康を安心させるためにごく少数の家臣を連れて本能寺に入りました。光秀は、信長の警護が薄くなる千載一遇のチャンスに、信長を討ったというわけです。

大河ドラマ「おんな城主直虎」が、この説をベースに本能寺の変を描いています。ただちょっと違うのは、「直虎」の信長には家康を暗殺する気はまったくなかったということ。弟のように信頼する家康が楽しめるように趣向をこらしていて、市川海老蔵演じる眼光鋭い信長ながら、めちゃくちゃいい人だったのです。

「直虎」では家康暗殺は光秀による嘘でした。光秀は「信長が君を殺そうとしてるから、逆手に取って一緒に信長を討とう!」と持ち掛けたのです。家康はビクビクしながら接待を受けていましたが、信長の様子から光秀の情報が嘘であることを悟ります。

今までにはなかった説で、明智氏は一次史料をあたって論を組み立てているので、「なるほど」と思うこともたくさんあります。

ただ、この説は光秀の「野望」ありき。土岐氏の再興をねらっていた光秀が、信長から家康暗殺計画を聞いて「チャンス!」と思い謀反を起こしたという筋書きなのですが、上記のとおり光秀に野心があったかどうかは定かではありません。

そして、なぜ家康を暗殺せねばならないのか、信長の動機もよくわかりません。

こういう説が大河ドラマに取り上げられるようになったのは興味深いことです。

まとめ

結局のところ、どの説が正しいのか、はたまたどれも間違いなのか、よくわかりません。どれももっともらしい説ですが、決定打には欠けます。

まわりまわって「あれは突発的な犯行だったのだ」という説もあります。ベストセラーとなった『応仁の乱』(中公新書)で知られる呉座勇一氏の『陰謀の日本中世史』(角川新書)でそのように述べられています。

状況から見て、穴だらけで結局は光秀自身がすぐに討たれたことから、綿密に計画ではなさそうだな、と思えるので、確かにもっとも。ただ、やっぱり動機がよく見えないのです。

どの説もありそうだしなさそう。私個人としてひとつ選ぶとしたら、最近「四国攻め」関連の史料が多数見つかったことですし、今後研究が進みそうな「四国攻め回避」の元親救援説を推したいところです。それなら怨恨や野望説よりも、「突発的犯行」と合致するように思います。

大河ドラマ「麒麟がくる」はまだ放送されていませんが、今まで散々取り上げられてきた怨恨説(四国攻め回避もやや関連しているものの)はないのでは?と思っています。


【参考文献】
  • 芝裕之編著『図説 明智光秀』(戎光祥出版、2019年)
  • 洋泉社編集部編『ここまでわかった 本能寺の変と明智光秀』(洋泉社、2016年)
  • 歴史読本編集部『ここまでわかった! 明智光秀の謎』(中経出版、2014年)
  • 太田牛一著・中川太古訳『現代語訳 信長公記』(中経出版、2013年)
  • 明智憲三郎『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫、2013年)
  • 谷口克広『検証 本能寺の変』(文芸社文庫、2007年)
  • 二木謙一編『明智光秀のすべて』(新人物往来社、1994年)
  • 高柳光寿『人物叢書 明智光秀』(吉川弘文館、1986年)

  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター ...


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