「蛤御門」の名前の由来、京都産業大学日本文化研究所特別研究員が新説発表(2016年)

幕末、「禁門の変(蛤御門の変)」の舞台となった京都御苑の「蛤御門」。この名前の由来について、京都産業大学本文化研究所の長谷桂特別研究員によって宝永の大火(1708年)以前から「蛤門」の名が使われていたことが発見され、さらに延宝5年(1677年)に、「蛤門」が開いた状態で古地図に描かれていることも突き止められました。

蛤御門は京都が大火に見舞われると、朝廷が民を思いやって内裏の惣御門を開放し、禁裏御所周辺を避難所としていたとされています。そのひとつが「蛤御門」と呼ばれる門です。この門は、火災時にまるで焼かれる蛤が貝殻を開くようであることからこう呼ばれてきました。

これまでこの門は普段は閉じられていると考えられており、開かれたのは天明8年(1788年)、天明の大火の時とされてきました。その後、湯口誠一氏が、すでに宝永6年(1709年)刊行の「内裏之図」に「はまくり門」と明記されていること、嘉永7年(1854年)に作成された「親町要用亀鑑録」には、宝永の大火(宝永5年)の後に、「蛤御門」と命名されたと明記されていることを根拠に、天明の大火は誤りで、これをさかのぼる宝永の大火によって、「蛤御門」と呼ばれたのだという新説を提出。湯口氏の説は、京都市歴史資料館のお墨付きも得て定説とされ、蛤御門の駒札解説文は「天明の大火」から「宝永の大火」へと書き替えられ、確実な説とされてきました。

ところが、長谷桂特別客員研究員は、元禄7年(1694年)頃に成立した「京都役所方覚書」の中に「蛤御門番弐人」の記述がすでにあることを確認。また公家の日記「日野輝光卿記」の宝永の大火前年の宝永4年(1707年)8月の記述の中に「祭礼通候間蛤門さし人止也」と上御霊神社の祭礼行列が通る間は蛤門の通行が一時的に止められていたことを確認しました。さらに、宝永をさかのぼる、延宝5年(1677年)に作成された古地図「新改内裏之図」には「蛤門」が開いている状態で描かれている事実も突き止め、本来の由来の謎を解く新たな発見となったということです。

▼外部リンク
歴史界の定説を覆す発見!京都産業大学日本文化研究所特別研究員が「蛤御門の名前の由来について」新説発表
https://kyodonewsprwire.jp/release/201605261023


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