「土方歳三」新選組副長。農民出身ながら最強の剣客集団を築き上げた最後の侍!

幕末の京都、そして戊辰戦争まで戦い抜き、壮絶な戦死を遂げた人物がいます。新選組副長の土方歳三(ひじかた としぞう)です。

歳三は農民の出身ながら、剣術を修行して武士を目指します。
やがて京で新選組を結成。優れた組織運営と厳しい規律によって京都の治安維持を担っていきました。
池田屋事件では京都大火計画を未然に防止。歴史的な成果を挙げて、天下にその名を轟かせます。

幕臣となった歳三ですが、時代は明治に移り変わろうとしていました。それでも歳三は、自ら決めた道を貫いて戦う道を選びます。
土方歳三の生涯を見ていきましょう。


多摩の少年時代

多摩の「お大尽」の家に誕生する

天保6(1835)年、土方歳三は豪農・土方隼人義諄の三男として、武蔵国多摩郡石田村で生を受けました。母親は恵津といいます。諱は「義豊」と名乗りました。


土方家は「お大尽」と呼ばれるほどの豪農でした。
しかし当主である父・隼人は歳三の誕生前に病没。母・恵津も歳三が六歳の時に亡くなっています。
長兄・為次郎は目が不自由であったため、次兄・喜六が土方家の家督を継承。以後は喜六夫婦に育てられました。


さぞや寂しい少年時代だと想像されますが、歳三は逞しく育ちます。
幼少時には、風呂上がりに家の柱で相撲の稽古をしたり、高幡不動の山門の上から、通行人に野鳥の卵を投げて遊ぶなどしています。


商家への奉公と剣術

十四歳になると、歳三は商家に奉公に上がったようです。奉公は二十四歳までの十年間と考えられています。
奉公先は上野の松坂屋、あるいは伝馬町の支店・亀店(かめだな)と推定されます。
奉公を終えると、歳三は実家の製造する「石田散薬」の行商につきます。
その傍ら行商先の剣術道場で教えを請い、腕前を上げていきました。


やがて歳三は、稽古場で天然理心流の近藤勇と出会います。
安政6(1859)年、歳三は同流に入門。試衛館道場では、のちの新選組の中心人物となる沖田総司や山南敬助らと盟友となります。


万延元(1860)年には、『武術英名録』が刊行されます。これは関東地方(江戸以外)の剣術家を掲載した名鑑でした。
そこには「土方歳三」の名前も載っています。この頃の歳三は、すでに一定以上の剣術の実力があったことは確かなようです。


天然理心流では、歳三は中極意目録までの記録が現存しています。免許皆伝でこそありませんが、歳三の強みは実戦で発揮されていました。路上での戦闘では、足元の砂を敵に撒いたり、隙を突いて首を絞めるといった戦術も取っています。


新選組を結成する

江川太郎左衛門との出会い

歳三は多摩で近代的な思考に触れています。
当時の多摩は、江川太郎左衛門の支配地でした。江川は伊豆韮山の代官で、当時随一の開明家として知られています。


江川は佐藤彦五郎(歳三の義兄)たち名主に農兵思想や自警運動を勧めます。結果、多摩の剣術・天然理心流への入門者が増えたことで、後の新選組につながっています。
歳三は佐藤彦五郎を通じて、江川の農兵思想に触れていました。実力主義で身分を問わない新選組は、近代的な農兵思想が根本にあるようです。

江川は「豪邁不屈、胆気非常の男」と歳三を見ています。
このことから、歳三は江川と面識があり、かなり密接な付き合いをしていたことがうかがえます。より深く農兵構想や蘭学などについて学んだ可能性さえあります。


上洛して新選組を結成する

やがて歳三たちが剣術の修行の成果を見せるときが訪れます。

文久3(1863)年、歳三と近藤たちは浪士組に加入。将軍家警護のために京都へと上ります。
歳三たちはここから分離して壬生浪士組を発足。京都守護職を務める会津藩の指揮下に入ります。
同年、八月十八日の政変においても出陣。まもなく壬生浪士組は「新選組」へと名を改めています。


当初、新選組は寄せ集めの烏合の衆でした。不逞浪士とそれほど変わらず、京の治安維持を行うには心許ない状態です。
歳三は近藤らと主導権を握るべく動き出します。


同年、歳三たちは筆頭局長である芹沢鴨らを粛清。近藤勇を局長に据え、自らは副長として新撰組を支えていきます。
歳三は組織の運営において、厳格な規律「局中法度」を制定。さらに局長と副長を頂点とする指揮系統を確立します。


幕府直参となる


モテ自慢

血生臭い日々を連想しがちですが、決して毎日が非日常だったわけではありません。
歳三は郷里に宛てて大きな荷物を送っています。土産だと思って開けた親類は、そこで驚きます。そこには歳三を慕う芸者たちからの恋文がぎっしりと詰められていました。
手紙には「報国の心わするる婦人かな」の一句が書かれていました。


歳三は端正な顔立ちだったことでも知られています。そのため、京においても大変に女性に人気がありました。
このモテ自慢エピソードは、歳三の茶目っ気を伝えています。


池田屋事件で京都大火を防ぎ、やがて幕臣へと駆け上がる

元治元(1864)年、新選組は池田屋事件で尊攘過激派の長州藩士らを捕殺。京都大火の計画を未然に防いでいます。一躍、新選組の名は天下に届きました。


しかしこの後、新選組は分裂と内紛を繰り返すようになります。
規律違反によって、山南敬助は切腹。伊東甲子太郎一派の分離独立とその壊滅という試練が続きました。


慶応3(1867)年、新選組は幕臣に取り立てられます。しかしこの半年ほど後、大政奉還と王政復古の大号令によって幕府は終焉を迎えます。


慶応4(1868)年、旧幕府と薩長新政府との間で鳥羽伏見の戦いが勃発。
歳三は新撰組を指揮して戦っています。しかし旧幕府は敗北し、総大将の徳川慶喜は江戸に逃げ帰ってしまいました。
ほどなくして、歳三と近藤たちも江戸に帰還します。


箱館政府の樹立


流山での近藤勇との別れ

江戸に帰還後、歳三は近藤が組織した甲陽鎮撫隊の援軍要請のために動きます。しかしこの間に近藤が新政府軍に敗北。歳三たちは下総国の流山に屯集します。


やがて新政府軍は流山を包囲しました。歳三は、切腹するという近藤を説き伏せて偽名で投降させます。その自らは助命嘆願のために勝海舟の下に赴きました。しかし歳三の思いも虚しく、近藤は板橋で斬首されてしまいます。


ほどなく歳三は、鴻之台の旧幕府陸軍と合流。その参謀に擁されています。
旧幕府軍はそのまま進撃して、北関東の要衝・宇都宮城を陥落させました。その後、歳三は戦で足を負傷して会津に護送されます。
療養の間、歳三は会津の天寧寺に近藤の墓を建立。近藤の無念を晴らすべく、次なる戦いに身を投じていきます。


蝦夷地に箱館政府を樹立し、陸軍奉行並の地位に就く

会津藩は母成峠で敗北を大敗を喫します。歳三は援軍要請のために庄内藩に向かいますが、庄内はすでに新政府への恭順を決めていました。


歳三は仙台に向かい、同地で榎本武揚らの旧幕府海軍と合流。奥羽越列藩同盟の軍議では全軍の総督へ推薦されています。
しかし仙台藩をはじめ、多くの列藩は降伏を決めていました。歳三は新撰組の生き残りとともに、榎本たちの軍艦に乗船。蝦夷地に向かうことを決めます。


すでにこの時、蝦夷地は新政府軍によって占領されていました。いわば日本の全土は、すでに歳三たちにとって敵地と化していたのです。


歳三たちは蝦夷地の鷲ノ木に上陸。そのまま五稜郭へ進軍します。箱館の街と五稜郭を占領すると、歳三は松前城へ進軍。敵兵を江差まで追っています。


明治元(1868)年12月15日、五稜郭に蝦夷共和国が成立。選挙の結果、榎本武揚が総裁に選出されました。これがアジアにおける初の共和制国家の誕生でもありました。歳三は陸軍奉行並を拝命。箱館市中取締と陸海軍裁判局頭取を兼任しています。いわば旧幕府全軍の最高責任者となったのです。


この蝦夷共和国は諸外国からも「事実上の政府」として認められた存在でした。


箱館総攻撃を迎え撃つ

明治新政府は、旧幕府の政権を認めてはいません。
明治2(1869)年、新政府軍は蝦夷地に向けて進軍を開始します。箱館政府は海軍力の増大を図るため、新政府の甲鉄艦の強奪を画策します。


歳三は軍艦三隻と共に宮古湾に出撃。しかし途中で軍艦の故障などの要因によって攻撃は失敗してしまいます。
同年、新政府軍は蝦夷地に上陸。歳三は二股口を寡兵で見事に守ります。しかし新政府軍はもう一方の松前口を突破。歳三たちは包囲を避けるため五稜郭へ退却することとなります。


5月11日、新政府は箱館総攻撃を開始。箱館の街は占領され、弁天台場(新選組が守備)と五稜郭は分断されてしまいます。
歳三は弁天台場救出のために出撃。一本気関門を守り「退く者を斬る」と意気込みます。
これにより、箱館政府軍は勢いを取り戻して進軍。弁天台場を目指して、兵を進めていきます。


しかし馬上にあった歳三を、一発の銃弾が貫きました。落馬した歳三が抱き起こされた時には、すでに事切れていたと伝わります。享年三十五。墓所は日野の石田寺にあります。辞世は「鉾とりて月見るごとにおもふ哉あすはかばねの上に照かと」と残されています。


歳三の死後、箱館政府は降伏。ここに戊辰戦争は完全に終結しました。戦死したとされる歳三ですが、生存説も残っています。


箱館降伏の5月17日を描いた「箱館降伏図」には、死んだはずの歳三の姿が描かれています。その後ロシアにまで落ち延びたという説も残っているほどです。



【主な参考文献】
  • 伊東成郎ら著 『土方歳三と新選組10人の組長』 新人物往来社 2012年
  • 『土方歳三』 学習研究社 2008年
  • 佐藤文明 『未完の「多摩共和国」』 凱風社 2005年
  • 『剣の達人111人データファイル』 新人物往来社 2002年
  • 鈴木力ら著 『活文字』 国立国会図書館デジタルコレクション 東京博文堂 1893年

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。