「徳信院直子」徳川慶喜の七歳上の祖母!?一橋家を守り抜いた事実上の女当主

江戸時代を通し、朝廷と幕府の関係は秩序の安定に深く関わっていました。
伏見宮の王女として生まれた徳信院(とくしんいん)は、江戸の一橋慶壽(よしひさ)に嫁ぎますが、すぐに死別。その後、一橋家には松平七郎麻呂(まつだいら しちろうまろ。のちの15代将軍・徳川慶喜)が養子に入って家督を相続します。


慶喜は将軍継嗣の候補者となりますが、安政の大獄(あんせいのたいごく)によって隠居謹慎に追い込まれてしまいます。
そこで当主不在の一橋家を差配したのは徳信院でした。


徳川慶喜の義祖母である徳信院。彼女は慶喜と一橋家をどのように支え、守っていったのでしょうか。徳信院直子の生涯を見ていきましょう。


朝廷と幕府の橋渡し


伏見宮家の王女として誕生

文政13(1830)年、直子(つねこ。後の徳信院)は伏見宮貞敬親王の十七王女として京の都で生を受けました。母は梅藻院合田愛子です。中川宮朝彦新王は年上ながら甥にあたります。


伏見宮家は、四つの世襲親王家の中では最も歴史が古い家柄です。持明院統の嫡流で北朝の第三代・崇光天皇の第一皇子である栄仁親王を祖とします。伏見御領が所領であったため、伏見宮が宮号とされました。


一橋家徳川家当主・慶壽に嫁ぐ

天保10(1839)年、直子は一橋徳川家当主・徳川慶壽と婚約します。

一橋家は徳川御三卿の一家にあたります。徳川宗家の血筋が絶えたときには、将軍を輩出することができる家柄でした。いわば御三卿の当主たちは、いずれもが征夷大将軍の候補者です。正室に迎えられる人間は、選ばれた家柄の息女たちでした。


天保12(1841)年、直子は京から江戸へと下ります。そのまま降嫁(身分の高い女性が、自分より身分が下の男性と結婚すること)という形で婚儀を挙げました。

直子は十二歳。徳川慶壽は十九歳でした。輿入れに際しては、大変豪華な調度品がしつらえられたといいます。


直子の婚儀を仲介したのは、姉の英子女王(清水徳川家当主・徳川斉明の未亡人)とされています。
英子女王は、御三卿の清水徳川家当主・徳川斉明の正室となっていました。


このことから、当時の伏見宮家と徳川家の結びつきは大変に強いものだったと見ることができます。


一橋家での出会い

夫と死別する

しかし突如として直子に不幸が襲いかかることとなります。

弘化4(1847)年、夫の慶壽が疱瘡(天然痘)にかかり、そのまま亡くなってしまいました。慶壽はまだ二十五歳という若さでした。

直子との婚礼からわずか、五年ほどのことです。ほどなく、直子は落飾して徳信院の院号を称することになります。


徳信院と慶壽の間には子供がいませんでした。そのため、他家から末期養子(当主死亡などの際の養子)を迎え入れることとなります。


同年、尾張藩主・徳川斉荘の次男・昌丸が一橋家に養子に入りました。昌丸はまだ一歳の幼児でした。
幼児の当主に一橋家を治めることはできません。このことから、実質的に一橋家の家中を取り仕切ったのは徳信院だったと考えられます。


慶喜との出会い

しかしまたもや徳信院と一橋家に悲劇が襲います。

昌丸は当主就任からわずか三ヶ月後に、病を得て亡くなりました。こうして一橋家は、再び当主を失ってしまったのです。


同年9月、一橋家に新たな養子が迎えられました。前水戸藩主・徳川斉昭の七男である七郎麻呂(徳川慶喜)です。慶喜は昌丸の養子という形で一橋家に入ります。そのため徳信院と慶喜は、義理の祖母と孫という関係になりました。


このとき徳信院は十八歳。慶喜は十一歳です。年齢はわずか七歳しか違っていませんでした。
徳信院と慶喜は、仲が良いことで知られていました。それが後々、深刻な問題を引き起こしていくことになるのです。


政治の中の女性


美賀子の自殺未遂騒動

安政2(1855)年の12月、慶喜は一条忠香の養女・美賀子を正室に迎えます。しかし婚儀から半年ほど経った翌安政3(1856)年、美賀子が自害を図るという事件が起きました。

美賀子は、かねてから徳信院と慶喜の親密な関係を疑っていたといいます。そのため、嫉妬に駆られて慶喜の謡の稽古の邪魔をする、喚き散らすということもありました。
その結果、自殺未遂という行動に発展したようです。


この醜聞は、江戸の大名たちの間でも噂になりました。越前の松平慶永や薩摩の島津も書状などで触れています。


徳信院と慶喜の関係は、真偽こそ不明です。しかし周囲は二人の関係があり得ると感じていたようです。


大奥へ慶喜を取りなす

当時の将軍・家定は病弱で実子がいませんでした。そのため継嗣問題が持ち上がります。

徳川斉昭や松平慶永、島津斉彬らは慶喜を擁立。一橋派を形成して運動を展開していきます。
これに対して南紀派の彦根藩主・井伊直弼らは紀州藩主・徳川慶福(家茂)を推して対立を深めます。


慶喜の実父・斉昭は大奥の綱紀粛正を提唱。このため大奥は反発して、南紀派を支持します。


徳信院は慶喜が政争に巻き込まれることを憂慮していました。慶喜自身、将軍になるつもりはそれほどなかったためです。実際に徳信院は慶喜と食事を共にして心のうちを聞いています。


徳信院は慶喜が外に移ることの心細さを伝えます。すると慶喜は自らが将軍になる意思がなく、安心するようにと伝えています。

徳信院はこの後、大奥老女(筆頭の侍女)に書状を認めました。それによって、慶喜に対する反発を少しでも抑えるように配慮したものと考えられます。


一橋家の女当主


当主不在の一橋家を差配する

安政5(1858)年、将軍継嗣は徳川慶福に決定します。家定の支持と大老となった井伊直弼の裁定があったためでした。

この直後、井伊は一橋派や尊王攘夷派への弾圧を展開していきます。世にいう安政の大獄です。
慶喜や慶永、斉昭らは不時登城の罪で断罪。隠居謹慎の命令が幕府から下ります。一橋派の福井藩士の橋本左内らは処刑されてしまいます。


慶喜の隠居謹慎により、一橋家は当主不在の状況に陥りました。ここで徳信院は一橋家の差配を行い、事実上の当主として振る舞っています。

家中には美賀子と5代当主・斉位の正室である誠順院がいました。しかしより一橋家を掌握していたのは、徳信院だったようです。


旧一橋派は、幕府内部から粛清された形でした。それが思いもよらぬ形で復権を遂げるときが訪れます。
安政7(1860)年3月、江戸城桜田門外において水戸浪士らが井伊直弼の一行を襲撃。井伊はあえなく討たれてしまいました。

大老の暗殺により、江戸幕府の権威は大きく揺らぎます。同時に尊王攘夷派や旧一橋派の動きは活発化していきました。その後、年号が安政から万延へと改元。9月には慶喜の隠居謹慎の処分が解除されました。


留守となった一橋屋敷に残る

文久2(1862)年、慶喜は一橋家の家督を再び相続。当主へと返り咲きを果たします。さらに慶喜は将軍後見職に就任。将軍・家茂を補佐する立場として幕府内で力を持っていきます。


このとき、幕府は公武合体政策を推進していました。すでに和宮(孝明天皇の妹)が家茂の正室として降嫁しており、将軍の上洛が待たれていた状況でした。これにより、慶喜は将軍に随行して上洛することになります。江戸の一橋屋敷は再び当主不在となりました。

一橋屋敷の留守を預かったのは、やはり徳信院でした。同屋敷には美賀子も残り、二人で慶喜の帰りを待っていたようです。


慶喜は京において朝議参与に就任。その後、禁裏御守衛総督となって朝廷を守護する役職を与えられました。すでに慶喜は、幕府のみならず朝廷内部でも発言力を増していったのです。


慶応2(1866)年、将軍・徳川家茂が大坂城において病没。長州征伐の途上でのことでした。


ほどなくして慶喜は徳川宗家の家督を相続。征夷大将軍となりました。
これらを受けて、一橋徳川家の当主は空席の状態となります。四ヶ月後、ようやく前尾張藩主・徳川茂栄(茂徳)が新当主に決定します。その間、徳信院が実質的に当主の役割を果たしていました。


新時代の住処

江戸城開城により、一橋屋敷から立ち退く

本来であれば、将軍を輩出した一橋家の権威は高まっていくはずでした。
しかし慶応3(1867)年10月、慶喜は朝廷に政権を返上。この大政奉還によって江戸幕府は終焉を迎えます。

王政復古の大号令が出されると、薩長を中心とする新政府が成立。慶喜たちは政治の世界から締め出されてしまいました。


慶応4(1868)年、鳥羽伏見で旧幕府軍と新政府軍が衝突。慶喜は大坂湾から軍艦に乗り込み、江戸へと撤退します。帰還後の慶喜は、一橋屋敷に帰ることはありませんでした。上野の寛永寺などに謹慎し、新政府へ恭順の姿勢を示し続けます。


一方で新政府軍は江戸へと進撃を始めていました。
江戸城は無血開城によって明け渡しが決定。それに伴って、徳信院も一橋屋敷を立ち退くことを決めます。


錦糸町に落ち着く

明治2(1869)年、慶喜は無事に謹慎を解除され、そのまま静岡へと移り住んでいます。

これを受けて徳信院は美賀子に慶喜との同居の取りなしを行なっています。美賀子は慶喜と10年ほども別居状態でした。結果、美賀子は徳信院の言葉を受け入れて静岡へ向かっています。


その後、徳信院は何度かの転居を繰り返します。明治9(1876)年頃には、ようやく住まいを錦糸町に落ち着かせることが出来ました。


明治19(1886)年、徳信院は慶喜の招きに応じ、汽車に乗って静岡に向かっています。慶喜は美香子とともに、徳信院に久能山東照宮や浅間大社を案内するなどもてなしています。


明治25(1892)年になると、徳信院は秋頃から体調を崩すようになります。
明治26(1893)年1月2日に危篤となり、慶喜のもとにも電報が発せられました。
しかし明けて3日、徳信院は世を去りました。享年六十四。墓所は上野の凌雲院にあります。



【主な参考文献】
  • 岩尾光代『姫君たちの明治維新』 文藝春秋 2018年
  • 上田正昭ら監修『日本史人名大辞典』 講談社 2001年
  • 永井博「祖母=一橋直子ー慶喜不在の一橋家を差配した女当主」『歴史読本1998年10月号』新人物往来社 1998年

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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