戦国北条氏家臣団・小田原衆筆頭「松田氏」とは

 御一家衆に匹敵する待遇を受けて後北条氏(ここから先は北条氏で統一します)に仕えていたのが、譜代家老の「松田氏」です。軍事面でも外交面でも重責を任されましたが、いまひとつ後世の人気は高くありません。理由は秀吉の小田原攻めに対する松田氏の行動にあるのではないでしょうか。今回はそんな宿老松田氏の歴史についてお伝えしていきます。

小田原衆寄親として重用された松田氏

松田氏の登場

 松田氏が史料で確認できる最も早い段階は、天文8年(1539)です。松田盛秀が、譜代家臣として最高となる2000貫文の知行地を有していたと記されています。

 仮名は弥次郎で、これは相模松田氏の名跡を継承したことを示していますが、その祖は備前松田氏です。室町幕府の奉公衆として、堀越公方の足利政知に従い伊豆へ下向しています。北条氏に仕えたのは、北条宗瑞(盛時)に堀越公方が滅ぼされてからのことです。

 盛秀はその2代目にあたり、宗瑞から偏諱を受けて実名を称したようです。受領名は尾張守。2000貫文の知行地の半分は、小田原城の後背にあたる苅野庄およそ1000貫文で、小田原衆筆頭として寄親を務めています。

 この時期から家臣としては別格の扱いを受けていたことがわかります。よほどの功績があったのでしょうが、その点についての記録は残っていません。また盛秀の父親の名前も不明です。

 盛秀は北条綱成の妹を正室に迎えています。もちろんそこは北条宗家の指示に従ってのことでしょう。御一門衆と譜代家臣の結束をより強くする狙いがあったのではないでしょうか。そこに誕生したのが嫡子である松田憲秀でした。


北条宗哲に次ぐ知行高を誇る

 盛秀が隠居したのは弘治元年(1555)から永禄元年(1558)にかけてのことで、憲秀が家督を継いだのは20歳から24歳ぐらいにあたります。

 『堀尾古記』によると、憲秀は北条氏4代目当主である北条氏政の3歳年上であったと記されています。受領名は尾張守、官途名は左馬助です。

 永禄2年(1559)、北条氏3代目当主北条氏康が作らせた『北条家所領役帳』によると、小田原衆寄親の憲秀の知行高は、およそ2800貫文で、これは御一門衆の北条宗哲およそ5500貫文の次ぐものでした。

 宗哲の嫡子で小机衆を率いた宗哲の嫡子北条三郎が1600貫文、玉縄北条氏の北条綱成が1500貫文ですから、松田氏がいかに重用されていたのかがよくわかります。

 小田原衆ですからまさに氏康直属の主力軍です。そのまとめ役をこの若さで任されたわけですから、氏康が期待するほどの器量が憲秀にはあったということでしょう。ただし軍事面での憲秀の活躍振りはほとんど記録に残っていません。統制力や外交力などでその能力を存分に発揮していくのです。

 憲秀が指南役を務めた先は、松山上田氏、下総臼井原氏、下総森屋相馬氏、下総府川豊島氏、上総土気酒井氏、上総万喜土岐氏、常陸江戸崎土岐氏ととても多く、さらに房総の里見氏の取次も務めていました。外交手腕はかなり卓越したものがあったのでしょう。

 北条氏が武田氏と対立してからは、駿河の深沢城を北条綱成と守りました。しかし武田勢の猛攻により深沢城は落城、元亀2年(1571)には駿東郡平山城に後退して城将を務めています。

 最前線にあってかなり厳しい状況下で戦っていた憲秀ですが、氏康が元亀元年(1570)に死去し、氏政が家督を継ぐと武田氏との同盟路線に転じていったため、平山城は元亀3年(1572)に武田氏に引き渡され、破却されています。ここで憲秀は小田原へ帰還しました。

松田氏の滅亡

秀吉への内通が発覚

 天正17年(1589)、松田氏の家督は憲秀の次子である松田直秀が継いでいます。直秀には兄がいましたが庶子だったようで、嫡男の直秀が家督を継承したと考えられています。

 兄は家老の家格では松田氏、遠山氏に次ぐ伊豆衆寄親の笠原氏の家督を継いでおり、笠原政晴と名乗っていました。

 天正18年(1590)には秀吉の小田原攻めによって憲秀、政晴、直秀父子は小田原城に籠城。勝ち目がないことを悟った憲秀と政晴は密かに秀吉に内通します。宿老の松田氏が内通するほどですから、圧倒的な戦力の違いを見せつけられおり、北条勢は意気消沈していたのでしょう。

 しかし、このとき直秀が北条氏直に密告。政晴は以前に武田勢と交戦した際にも武田方に寝返ったという過去があり、この密告が露見した当日に氏直の命令で処刑されています。おそらく画策したのは父親の憲秀だったのでしょうが、憲秀は罪に問われませんでした。

 その後、氏直は秀吉への降伏を決断。秀吉は氏直の高野山への追放を命じつつ、北条氏政には責任を取らせる形で切腹させています。同時に御一家衆を代表して北条氏照、家中を代表して松田憲秀、大道寺政繁が自害しました。直秀は氏直に従って高野山に登りましたが、その後の詳細は不明です。

 北条氏を代表する譜代の家老の最後としては、戦わずに内通が発覚し、降伏後に自害というのは残念な結果です。このあたりが憲秀の後世の評価が低く、人気がない大きな理由になるのではないでしょうか。

秀吉勢と戦い潔く散った松田康長

 ただし、松田氏の中にも秀吉勢と最後まで戦った者もいます。それが御馬廻衆の松田康長です。康長の父親である松田筑前守(康定)は、松田盛秀の弟です。康長には弟がおり、そちらが筑前守を称していることから、庶子であり、家督は継げなかったようです。

 官途名は右衛門大夫を称しており、700貫文の知行を得ていました。天正15年(1587)、秀吉との戦いに備えて伊豆に山中城を築城し、在城してこの地を守りました。しかし、天正18年(1590)の小田原攻めの際には3月29日に城を攻められ、同日に落城。康長はこのとき討ち死にしています。

 一方で松田筑前守から家督を継いだ松田康郷も共に山中城で奮闘しました。康郷は以前に上杉謙信と戦い、その豪勇ぶりが知られていましたが、善戦むなしく山中城は落城。康長は戦死したものの、康郷は生き残り、小田原城に帰還し籠城しています。

 氏直が降伏した後は越前に流れて、結城秀康に仕え、600石の知行を得ました。おそらくその武勇を買われたのでしょう。

 松田氏の面目を保ったのは、直系の宗家よりも、盛秀弟の血筋の方だったのかもしれません。ちなみに康郷の嫡男の松田定勝も父親と同じく武勇で知られるほど武功を挙げたと伝わっています。こうして松田氏は越前の地で活躍していくのです。

おわりに

 北条氏一門は結束が固かったために、北条氏では家老にスポットを当てられることが少ないのが特徴です。最も重職に就いていた松田氏ですら、それほどの活躍振りが伝わっていません。

 ただし、松田氏が御一門衆並の待遇であったのは間違いない事実です。主に内政や外交面で役割を果たしたため、華々しい活躍が見られなかったのかもしれません。

 戦国乱世の中にあって、北条氏が安定して勢力を拡大できた背景には、北条宗哲や松田憲秀のような政治に長けた人物がいたからではないでしょうか。そう考えると、憲秀などはもっと後世で評価が高くても良いような気がします。


【主な参考文献】
  • 黒田基樹『戦国北条家一族事典』(戒光祥出版、2018年)
  • 黒田基樹『北条氏康の家臣団』(洋泉社、2018年)
  • 森田善明『北条氏滅亡と秀吉の策謀』(洋泉社、2013年)

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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