「江川英龍」“お台場”の建設者!洋式砲術・反射炉・堅パン等々、幕府近代化の風雲児

 外国勢力からの圧力に直面した幕末、日本は軍備を筆頭に近代化への舵取りを迫られていました。西洋の技術や産業について見識のある人材が積極登用されるようになり、それぞれの信念と主張がぶつかり合いながらの幕政運営は困難を極めました。特に海外諸国との関係性について、開国か排除かの選択肢を巡って国内に騒乱が起きたのは周知の通りです。

 現代風には「国防」の問題としてシンプルに言い換えることもできますが、島国である日本において沿岸防備の必要性を強く説いた人々がいました。その代表的な人物のひとりが、江川英龍(えがわ ひでたつ)です。

 英龍はいわゆる「海防」を重視する立場を生涯貫き、いち地方官から最終的には幕閣にまで上り詰めた、風雲児といえます。幕府軍に西洋式砲術を導入し、反射炉の建造や洋式糧食の研究等々、近代産業への扉を開いた先駆者でもあります。

 今回はそんな、江川英龍の生涯を概観してみることにしましょう!

出生~青年期

 江川英龍は享和元年(1801)5月13日、天領である伊豆・韮山代官だった江川英毅の次男として生を受けました。幼名は芳次郎、のちに邦次郎とし、字(あざな)は九淵、号は坦庵を名乗りました。号の読みは「たんあん」ですが特に「たんなん」と発音して親しまれ、通称の太郎左衛門は江川家当主代々の通り名とされています。

 英龍は幼少のころから武術を好み、文政元年(1818)には江戸に出て、神道無念流・岡田十松吉利のもとで剣を学びました。この頃の同門として、のちに「江戸三大道場」の一角として名を馳せる練兵館の斎藤弥九郎がおり、両者の交友は生涯にわたって続くことになります。

 文政4年(1821)に兄・江川英虎が病没したため英龍が嫡子となり、文政7年(1824)には韮山代官見習に就任します。正式に代官職を継いだのは父・英毅が死去した天保6年(1835)のことで、太郎左衛門の名もこの時に継承しました。

 しかし翌天保7年(1836)には甲斐国での百姓一揆「天保騒動」が勃発し、そこには多くの博徒らが参加していました。治安の悪化と事件の影響が幕領に及ぶことを警戒した英龍は、斎藤弥九郎らとともに身分を隠して自ら甲斐に潜入。その状況を実見しました。

 天保騒動は同年に鎮圧され、その知らせを甲府代官・井上十左衛門から受け取った英龍らは、無事に帰還を果たします。

 英龍が代官に就任した当時の管轄地域は伊豆のほか、武蔵・相模・駿河の5万4千石でした。天保9年(1838)には甲斐がこれに加わり、以後も増地を重ね安政元年(1854)には実に26万石に達しています。

 英龍の父・英毅の時代から民政に尽力した名代官として知られており、商品作物を主眼とした勧農政策を実施。英龍も父にならい、倹約の奨励や二宮尊徳を招いての農地改良・生産力向上に努め、領民には融資や救荒を率先して行いました。

 また、嘉永年間(1848~55)には天然痘対策の種痘を導入して接種を推進、領民からは「世直し江川大明神」と呼ばれ慕われたといいます。

海防建議~蛮社の獄

 英龍は恵まれた環境もあってか、剣術以外にも当代随一の師について各種の学問や技芸を学んでいました。

 儒学を佐藤一斎、書を市川米庵、漢詩を大窪詩仏、絵画を谷文晁等々、そうそうたる顔ぶれです。なかでも長崎出身で6歳年下の蘭学者、幡崎鼎(はたざきかなえ)からは多大な影響を受けました。

 鼎は長崎でオランダ商館の部屋付を務めて蘭語を習得した叩き上げの学者でしたが、文政11年(1828)のシーボルト事件に連座して拘留。町預かりの途中で逃亡し無期限の指名手配となりますが、天保4年(1833)に水戸藩へと招かれ、『海上砲術全書』を翻訳、蘭学教授に就任したという波乱の経歴をもった人物です。

 この書名からも推し量れる通り、英龍が最大の関心を示したのは海上防衛に関することでした。英龍が治める伊豆や相模という国の海に開かれた立地から、外国勢力に対する沿岸防備の重要性は身をもって感じていたことだったのでしょう。

 天保8年(1837)1月に英龍は海防についての建議を行い、同年6月には日本人漂流民を載せたアメリカ商船を幕府側砲台が各地で砲撃するという、「モリソン号事件」が起こります。

日本人漂流民を乗せたアメリカの商船・モリソン号
日本人漂流民を乗せたアメリカの商船・モリソン号

 この攻撃は文政8年(1825)に発布された「異国船打払令」に基づくものでしたが、モリソン号は救助した日本人の送還や布教・通称などを目的とし、平和的交渉を前提とした非武装船でした。これが判明したのは翌年のことでしたが、外国船を無差別に攻撃する幕府の方針への批判が高まります。

 一方で、日本側の砲撃はモリソン号に大した被害を与えることはありませんでした。それというのも、当時の大砲は古式砲術によるものであり、炸裂しない鉄の砲丸を撃ち出すだけで射程も長くはなかったためです。

 こうした実情への懸念を受け、英龍は天保9年(1838)に江戸湾防備のため、相模などの沿岸警備態勢視察に派遣されます。この時正使を務めたのが、天保の改革で水野忠邦の腹心として活躍した鳥居耀蔵でした。

 しかし洋学者の協力を仰ぐ英龍と、保守思考の強い耀蔵は測量法などを巡って対立。幕府内でも蘭学・洋学の導入に抵抗する勢力があり、近代化への壁となっていました。

 英龍は渡辺崋山や高野長英ら蘭学の積極導入を図った人士らと知己を得ていましたが、海防論については結果的に意見を異にしています。崋山・長英らは翌天保10年(1839)、幕政批判への弾圧である蛮社の獄で捕縛されましたが、英龍は水野忠邦の擁護によって連座を免れたといいます。

西洋砲術習得~最期

 1840年(日本:天保11年)に勃発したアヘン戦争によって、幕府は国防への危機感を高めていきます。その時期に砲術の近代化を献策したのが、洋式砲術の専門家・高島秋帆でした。

 秋帆は天保12年(1841)、武蔵国徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)において、日本初の洋式砲術・洋式銃陣の公開演習を行いました。

天保12年の日本初の洋式砲術・銃陣演習の様子を描いたもの(板橋区立郷土資料館 蔵)
天保12年の日本初の洋式砲術・銃陣演習の様子を描いたもの(板橋区立郷土資料館 蔵)

 このことから秋帆の高島流砲術は幕府に採用され、英龍は幕命によってその門下に入り、洋式砲術の習得にも努めました。天保13年(1842)9月、英龍は高島流をさらに改良発展させ、洋式砲術の教授を許可されます。

 英龍が江戸に開いた江川塾では佐久間象山・橋本佐内・桂小五郎・大鳥圭介・伊藤祐亨など、維新にも大きく関わる人材が学びました。翌年5月に英龍は幕府軍事顧問として鉄炮方の任に就きますが、同閏9月に老中・水野忠邦が失脚すると、幕府軍制の近代化計画は一時凍結されてしまいます。

 弘化元年(1844)には鉄炮方を解任された英龍でしたが、嘉永2年(1849)に英国海軍のマリナー号が下田に入港した際にこれを応接しています。また、幕府に対して下田防備策と海防策の要を説きますが却下されています。老中・阿部正弘が実権を握っていた当時、幕府の方針が海防策には消極的だったことがその一因でした。

 しかし嘉永6年(1853)にペリー艦隊が来航すると、勘定吟味役格に昇格し、海防の議論に参画。そして江戸湾防備のための洋式海上砲台・品川台場を築造しました。これがいわゆる「お台場」です。ただ、翌年の日米和親条約締結により、当初計画の半数ほどが完成したところで台場築造は中止となりました。

 一方で鉄炮や大砲を鋳造するため、湯島大小砲鋳立場や反射炉の建造にも着手。英龍の子・英敏の代で完成した韮山反射炉(にらやまはんしゃろ)は、実際に鋳鉄を溶解した現存最古のものとして国の史跡および世界文化遺産の構成資産となっています。

韮山反射炉( 静岡県伊豆の国市韮山町)
韮山反射炉( 静岡県伊豆の国市韮山町)

 その他にも造船・砲弾開発・戦闘糧食研究など多くの企画を担った英龍でしたが、激務のため発病。安政元年(1854)末に幕命で出府するも、翌年1月16日に江戸・本所の屋敷で54年の生涯を閉じました。

 その魂は、故郷韮山の本立寺に眠っています。

おわりに

 日本近代化への先駆者ともいえる江川英龍。多岐にわたる実績がありますが、実は戦闘糧食としてのパンに着目した人物でもありました。堅パンと呼ばれるハードな乾パンのようなものでしたが、このことから日本では英龍を「パン祖」とも呼んでいます。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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