「渋沢喜作(成一郎)」彰義隊隊長にして栄一のやんちゃな兄貴分!?近代化に尽力したもう一人の“シブサワ”

帯刀コロク
 2021/06/03

渋沢喜作のイラスト

日本の「近代資本主義の父」「実業の父」と呼ばれる渋沢栄一。 数多くの近代企業創設に携わり、公益と社会福祉への還元を掲げる経営理念から近年熱視線を送られている人物ですね。

そんな栄一には親族筋にも優秀な人物が多く、後々まで影響しあう間柄となった従兄弟たちがいました。 その代表格のひとりが、栄一より二歳年長の「渋沢喜作(しぶさわ きさく)」です。(喜作は幼名で、のちに成一郎。明治以降は喜作を通り名に。以下、喜作で統一)。

喜作は栄一と兄弟同然に育ったとされ、終生その絆が切れることはありませんでした。 今回はそんな、幕末から近代を栄一とともに駆け抜けた渋沢喜作の生涯についてみてみることにしましょう!

出生~青年時代

渋沢喜作は天保9(1838)年6/10、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市)に渋沢文平(文左衛門)の長男として生を受けました。

喜作の幼少期を詳しく伝える資料は少ないものの、渋沢栄一にとって二歳年長の従兄にあたり、多くの時間を共有したことが想像されます。

血洗島では渋沢の一族が有力者として活躍しており、喜作や栄一の祖父にあたる渋沢宗助が名主を務めていました。この宗助の渋沢家は「東の家(ひがしんち)」と呼びならわされ、元々は渋沢の分家筋でした。

本家を「中の家(なかんち)」といいましたが、喜作が生まれた時代ではやや衰退しており、その立て直しのために宗助の次男・元助が入り婿します。これがのちの渋沢市郎衛門で、栄一の父にあたる人物です。その兄が喜作の父・文平であり、新たに「新屋敷の家(しんやしきんち)」という一家を興しています。

喜作は栄一とごく近い、兄弟同然の間柄だったとされ、よく似た環境で育ったことが想像されます。栄一の回顧録にも記されているように、漢学などの学問は従兄にあたる尾高惇忠からともに学びました。

武術に関しても祖父・宗助が川越藩剣術師範であった大川平兵衛の門弟であったことから、やはり栄一とともに神道無念流の稽古を積んだものとみられます。

喜作と栄一のコンビは血洗島のなかでは有名だったようで、特にトラブルの解決に手腕を発揮したことが栄一の回顧録にみられます。村内で頼りにされた、リーダー気質の人物だったことをうかがえます。

攘夷志士~戊辰戦争時代

喜作の師・尾高惇忠は、水戸学の信奉者だったことが知られています。また、惇忠の弟で剣の達人として名を馳せた尾高長七郎は先んじて攘夷活動に身を投じており、喜作や栄一が住む地域では自然に攘夷の気風が醸成されていました。

文久3(1863)年、喜作は栄一や惇忠、その他志を同じくする仲間らとともに高崎城(現在の群馬県高崎市)の攻略を計画します。ここを拠点として鎌倉街道を南下し、横浜の外国人居留地を焼き討ちすることで攘夷を決行するというものでした。

しかし、意外にもこれを阻止したのは、志士としてすでに活動していた従兄の尾高長七郎でした。長七郎は諸国を遊学して自らの目で政情を正確に把握しており、攘夷派が逆賊として討伐対象となっている状況から、決死の説得を行ったことが伝わっています。

命を賭した剣幕の長七郎に、長い議論の末やがて喜作や栄一らは攘夷の中止を決定。栄一はのちに、このことで長七郎に皆命を救われたと回想しています。

攘夷計画への追及をかわすため一時京に逃れた喜作でしたが、翌元治元(1864)年2月、栄一とともに一橋家側用人番頭でのちに家老並となる平岡円四郎の推挙で、一橋慶喜に仕えることになりました。

攘夷志士が御三卿に仕官するという意外な事態ですが、そもそも一橋慶喜は水戸・徳川斉昭の実子であり、水戸学の先鋒であることを考えると不思議ではないともいえるでしょう。

二人の気概と才を見込んだ円四郎が、人材登用のため以前に接触していたことが縁になったともいいます。 喜作は主に、自家の兵力をもたなかった一橋家の農兵徴募を任務とし、その手腕を認められて慶応2(1866)年には陸軍附調役に任命されます。

同年、慶喜が15代将軍に就任したことで、喜作は幕臣となり、奥右筆に任じられました。

奥右筆とは将軍直属の秘書・書記官のことであり、その文書の作成や管理を担う側近中の側近と言い換えることもできます。喜作は慶喜に従って京へと上っており、厚く信頼されていたことをうかがえます。

しかし慶応3(1867)年10月の大政奉還で江戸幕府が消滅、翌年に戊辰戦争が勃発します。

鳥羽伏見の戦いに従軍した喜作は、上野・寛永寺で謹慎していた慶喜の身辺警護を目的として旧幕臣らを中心とした彰義隊を結成。頭取(隊長格)に就任しました。

しかし喜作は隊の運用を巡って武闘派の隊士らと対立、一説には代々の幕臣でない喜作への反発があったともいわれています。

これらのことから喜作は彰義隊を脱退し、尾高惇忠らとともに新たに振武軍を結成。 新政府軍との戦闘で敗退するも、榎本武揚艦隊に合流して振武軍と彰義隊の残党で新生彰義隊を再結成し、函館戦争に参戦しました。

しかしここでも隊内の思想や作戦方針は一致しなかったようで、喜作は戦争終結直前の明治2(1869)年5月に旧幕府軍を脱走。その約1か月後に投降し、のちに東京軍務官糾問所に収監されました。

これは兵部省の機関であり、いわゆる軍事刑務所といえるもので榎本武揚や新撰組残党もここに収容されました。

実業家の時代~最期

喜作の収容生活は約2年に及びましたが、そこから救い出したのは従弟の栄一でした。

大蔵省に出仕していた栄一の働きかけにより、明治4(1871)年に喜作は赦免され、同じく大蔵省に勤務することになります。

喜作は近代養蚕の調査のため、翌年ヨーロッパ留学へと派遣されます。しかし帰国した明治6(1873)年には栄一が大蔵省を辞し、喜作もこれにならうかのように出仕から退きました。

以降の栄一が在野の実業家として活躍するのは周知のとおりですが、喜作もまた数々の事業を手掛けていくことになります。

大蔵省退官直後は栄一の推挙により江戸時代初めごろから続く豪商の小野組に入るも、ほどなく同組が破綻したため、明治7(1874)年に自社・渋沢商店を開きました。

東京深川では廻米問屋を、横浜では生糸売込問屋を営み、明治11(1878)年には栄一が設立した東京商法会議所に発起人の一人として名を連ねています。

しかし明治14(1881)年に米相場で、続く明治20(1887)年には銀相場で莫大な損失を出し、主に栄一からの援助によってこの危機を乗り切りました。

喜作は明治16(1883)年の時点で家督を長男・作太郎に譲っていましたが、相場での損失以来は栄一の勧告に従って米や生糸の取引からは引退。明治23(1890)年には自らが分家となり、渋沢商店の経営からは完全に手を引きました。

しかしその後も数々の企業や機関設立に関わり、明治維新後の米や生糸流通の健全化に尽力した功績から、多くの後進に慕われました。

明治36(1903)年にすべての職から引退した喜作は東京・白金台の自宅で余生を送り、大正元(1912)年8/30に75年の生涯を閉じました。

その魂は東京都目黒区の祐天寺墓地に眠り、戒名は秀徳院節誉崇義大居士といいます。

まとめ

渋沢栄一が残した喜作への評では、後先を考えないやや無鉄砲な部分があったとしています。どちらかというと、やんちゃなところがあるのが喜作の個性だったといえるかもしれません。

喜作がこうむった実業家時代の大損失についても、栄一が尽力してその補填を行っており、生涯目の離せない兄貴分だったことをうかがわせます。

しかしのちに渋沢商店の後継者となった喜作三男・義一のことを、栄一は我が子同然と語っています。血のつながった盟友として、喜作と栄一のコンビは近代史に大きな影響を与えたといえるでしょう。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 『日本人名大辞典』(ジャパンナレッジ版) 講談社
  • 公益財団法人 渋沢栄一記念財団デジタル版「実験論語処世談」

  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術に ...


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