「大姫」父・源頼朝の政争の道具にされた悲劇の女性
- 2022/03/16
源頼朝は、源義朝が平治の乱で敗れ、少年期からおよそ20年もの間を流刑地・伊豆で過ごしながら、平氏打倒のために挙兵してついには征夷大将軍となって関東の地で武家政権を樹立しました。
鎌倉幕府は元弘3(1333)年に終わりを迎えるまで、およそ150年にわたって続きます。しかし、9代続く鎌倉幕府将軍の中で初代将軍・頼朝の直系の将軍は3代の実朝で途絶え、その後は九条家や皇族が名を連ねています。
頼朝と北条政子の子の早世は頼家・実朝のふたりの男子に限ったことではなく、長女の大姫、次女の三幡(乙姫)も含めた4人全員が若くして亡くなっているのです。ここでは、早世した子のひとりである長女・大姫(おおひめ)について紹介します。
鎌倉幕府は元弘3(1333)年に終わりを迎えるまで、およそ150年にわたって続きます。しかし、9代続く鎌倉幕府将軍の中で初代将軍・頼朝の直系の将軍は3代の実朝で途絶え、その後は九条家や皇族が名を連ねています。
頼朝と北条政子の子の早世は頼家・実朝のふたりの男子に限ったことではなく、長女の大姫、次女の三幡(乙姫)も含めた4人全員が若くして亡くなっているのです。ここでは、早世した子のひとりである長女・大姫(おおひめ)について紹介します。
出生と名前について
大姫は、頼朝が伊豆に流されていたころに生まれました。生年ははっきりしませんが、治承2(1178)年か、翌3(1179)年といわれています。頼朝には政子の前の妻・八重姫との間に男子がいたとされますが、大姫は正室・政子との間の最初の子でした。ちなみに、この「大姫」というのは本名ではありません。身分のある人の長女を表す呼称です。妹の通称は「乙姫」といいますが、これも「妹姫」を表す呼称です。
平安時代の女性は内親王や天皇の后・妃など一部の人物を除いて正式な名は伝わっていません。紫式部や清少納言のような有名な人物の名も出仕する際の便宜上の名に過ぎません。家の奥で大切に守られる深窓の姫君ではなく、宮中に出仕するような者であっても本名を名乗る・呼ばれることはなかったのです。
木曾義高との婚約
頼朝と木曾義仲との和議のための婚姻
大姫が6歳になった寿永2(1183)年、木曾(源)義仲の長男で11歳の義高との婚約が決まりました。この背景には、頼朝と義仲の対立がありました。頼朝と義仲は従兄弟ではありますが、このころ関係が悪化していました。そのきっかけについて、延慶本・長門本『平家物語』や『源平盛衰記』などには、義仲の叔父の源行家が頼朝に知行地の分与を断られて義仲を頼り、また義仲に恨みを抱く武田信光が「義仲に謀反の疑いあり」と讒言したことが挙げられています。
これに加えて、頼朝と敵対していた叔父の志田義広を匿ったことも理由のひとつでしょう。
両者の戦いを避けるために義仲が頼朝のもとへ人質として送ったのが、「清水冠者」こと11歳の長男・義高でした。これによって頼朝と義高の和議が成立したのです。義高は、大姫の許婚として鎌倉に下向しました。
しかし、義仲は討伐される
ところが、挙兵して平家を都落ちさせ7月に入京した義仲は、後白河法皇と対立します。平氏とともに都落ちした安徳天皇の代わりの天皇の候補として、後白河法皇が高倉天皇の皇子(安徳天皇の兄弟)の中から選ぼうとしたのに対し、義仲は以仁王の王子・北陸宮を即位させよと口を出したのです。
結局は「御卜(占い)」によって選ばれたという形で、高倉天皇の第四皇子・後鳥羽天皇が皇位を継承しました。この一件が対立を決定づけたわけではありませんが、武士に過ぎない義仲が皇位継承に口を出したことで後白河法皇や公卿らの怒り・不興を買い、評価はだだ下がりになりました。
その後、平家追討の戦に敗れるとさらに反義仲の気運が高まり、ついにはクーデターによって政権を握り「旭将軍」と呼ばれますが、最後は頼朝による源範頼・義経の軍に敗れ、寿永3(1184)年正月に討死してしまいました。
報復の可能性を考えた頼朝は……
義仲の死により、義高は立場を失います。頼朝は「義高が父の敵討ちをしようとするかもしれない」と考え、一門の粛清を進める中で義高の殺害も決めるのでした。何といっても頼朝自身が親の仇である平氏打倒のために立ち上がった経緯がありますから、そう案じるのも無理はありません。
大姫の悲劇
義高を逃亡させる大姫
『吾妻鏡』によると、4月21日、頼朝が義高の殺害について話をしていたところを女房が聞いていて、これが大姫に伝わりました。大姫たちは義高と同い年の海野小太郎幸氏を義高の身代わりにたて、義高を女房のように女装させて逃がしました。逃亡時に馬の蹄の音がしないよう、蹄に綿を巻いて静かに送りました。身代わりの幸氏は何事もなかったかのように、いつも義高がそうしていたように双六をして過ごし、殿中の人々も義高がいつもどおりそこにいると思っていましたが、逃亡はその日の夜にバレてしまいます。
頼朝はすぐさま追っ手をやり、義高を討ち取るように命じました。
悲しみのあまり病に倒れる大姫
義高逃亡の失敗を悟った大姫は、「姫公周章周章、銷魂給」
(訳:狼狽して魂を消してしまうほど打ちしおれた)
という悲しみようだったといいます。
入間河原にて義高が討ち取られたことは、数日後の26日に報告されました。報告は内密に行われたのですが、これも大姫にもれてしまいます。
許婚を失ったことを知った大姫は、悲しみのあまり水も飲めないほどだったようで、これには母の政子も激怒しました。大姫の悲しみは終わることなく、その後病も悪化していったのです。それもすべて義高を討った郎従(武士の従者)藤内光澄のせいだとして、光澄を殺すように言ったのです。政子のあまりの怒りに頼朝も押され、6月27日に光澄は斬首されてしまいました。
頼朝も下手人さえ殺せば大姫も立ち直るだろうと考えたのでしょうが、人の心はそう簡単に割り切れるものではありません。
7歳の幼い大姫にとって、義高への思いが異性に向ける愛なのか、それとも親愛の情だったのかはわかりませんが、どうにか生かしてあげたいと考えて行動したこと、死をしって打ちひしがれ思い病にかかるほどふさぎ込んだことを思うと、本当に慕っていたのでしょう。幼い大姫にはこのような現実が受け止めきれなかったというのもあるかもしれません。
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望まぬ結婚を拒絶
大姫の悲しみや心の傷はその後も癒えることなく、生涯変わりませんでした。建久5(1194)年、大姫が17歳になったころ、頼朝と政子は大姫の従兄弟にあたる貴族の一条高能との縁談を勧めます。このころ病がよくなってきたためでした。
しかし大姫は、
「及如然之儀者、可沈身於深淵」
(訳:無理に話を進めようというなら、深い淵に身を投げてやる)
とはっきり拒絶を示します。「そんな結婚するくらいなら死んでやる!」と言われてはさすがに頼朝も無理に縁談を進めることはできなかったようで、間もなく破談になりました。
入内工作の失敗と大姫の死
あれだけの拒絶を見ながら、頼朝は性懲りもなく次なる政略結婚計画を進めました。今度の相手は後鳥羽天皇です。この計画は高能との縁談が持ち上がる以前からあったようですが、本格的に動き出したのは建久6(1195)年のことでした。この入内の計画は娘のためを思う親心と見る向きもあるようですが、本当に大姫のためを思うならばそもそも義高を殺しはしなかったでしょう。義高との婚約がそうであったように、今回も親の都合であり、妃となった大姫が生む皇子の外戚として天皇家とつながりをもつ考えがあったのではないでしょうか。頼朝は上洛してあちこちに贈り物を配り歩くほどの徹底ぶりでした。
建久7(1196)年、九条兼実が失脚する事件(建久七年の政変)があり、後鳥羽天皇の中宮であった娘の任子も内裏から退出することになりました。これは大姫を入内させようと動く頼朝にとっては好都合でしたが、大姫が入内することはありませんでした。
翌建久8(1197)年7月14日、大姫は病により20歳の若さで亡くなってしまったのです。一時はよくなってきていたとはいえ、闘病生活が長かった大姫にとって鎌倉から都への旅は大変だったでしょうし、おそらく望んでいなかったであろう入内の話が心身の負担になった可能性もあります。
こうして頼朝が手を尽くして進めてきた入内工作は叶いませんでした。それでも諦めず、今度は次女の三幡を入内させようとするのですが、女御に決まるところまでいって頼朝自身が亡くなってしまうのでした。三幡の入内工作はその後も続けられますが、結局彼女も14歳で早世してしまいます。
父・頼朝の政治に振り回され、傷つけられた大姫の生涯。頼朝は政治の天才ではあったかもしれませんが、娘にとっていい父ではなかったように思われます。
【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
- 『世界大百科事典』(平凡社)
- 『吾妻鏡』(古典選集本文データベース 国文学研究資料館所蔵 寛永3年版本)※本文中の引用はこれに拠る。
- 校注・訳:市古貞次『新編日本古典文学全集46 平家物語(2)』(小学館、1994年)
- 元木泰雄『源頼朝 武家政治の創始者』(中央公論新社、2019年)
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