「大久保利通」明治政府の独裁者!?西郷隆盛の最高の仲間にして最大のライバルだった維新三傑の一人

幕末の薩摩藩を討幕派の先頭に立たせ、近代日本の明治を築くべく影で暗躍した男がいます。
薩摩藩士・大久保利通(おおくぼ としみち)です。


利通は薩摩の郷中で西郷隆盛と出会い、生涯の盟友となり、お互いを高めあっていきました。
しかしお家騒動が勃発。父は遠島、利通は出仕が停止となり、大久保家は苦境に立たされてしまいます。
利通は国父・島津久光に接近。重用されるようになると、公武合体運動を陰で支えるように動きます。


時勢が討幕となると、利通は錦の御旗を製作。薩摩藩を官軍へと仕立て上げて勝利へと導きます。
明治政府は利通が主導し、日本の近代化へと大きく前進していきました。


しかし政府は内部での争いによって瓦解。盟友である西郷も下野し、利通とは敵対関係となってしまいます。
西南戦争が勃発すると、利通は西郷の討伐を命令。鎮圧後、思いもがけない結末が利通には待っていました。


彼は何と戦い、どう生きたのでしょうか。大久保利通の生涯について見ていきましょう。


薩摩藩で生まれ、西郷隆盛らと仲間となる

西郷隆盛との仲を育んだ幼少時代

文政13(1830)年、大久保利通は薩摩国鹿児島城下で薩摩藩士・大久保利世の長男として生を受けました。母は福です。幼名は正袈裟と名乗っています。大久保家は、御小姓与と言われる下級藩士の家柄でした。


利通は幼少時代に加治屋町に移住。その場所で出会ったのが、西郷吉之助(隆盛)や海江田信義らでした。
利通は加治屋町の郷中(教育組織)に参加。藩校・造士館で西郷らと共に学び、関係を築いていきます。


少年時代の利通はイタズラ好きな子供でした。
桜島の火口に石を投げ落としたり、温泉に滝の水を入れて客を驚かしたりしています。
一方で身体は強い方ではありませんでした。
胃が弱いために、武術は得意ではなかったと伝わります。
利通は反対に学問に力を入れ、郷中でも随一の知識を身につけていきました。


天保15(1844)年に元服。以降は通称に正助を使用しています。



父の遠島から自身の立身出世

青年時代の利通は、決して恵まれたスタートを切ったわけではありません。弘化3(1846)年、利通は薩摩藩記録所に書役助として出仕し始めます。


しかし嘉永3(1850)年、薩摩藩でお家騒動(お由羅騒動)が勃発。父・利世は連座する形で喜界島に流れてしまいます。利通も役職を罷免されて謹慎。失職したことで大久保家は厳しい生活を送ることになりました。


嘉永4(1851)年、島津斉彬が藩主に就任。利通はようやく謹慎を解かれています。嘉永6(1853)年には記録所に復帰を果たしました。


当時は黒船来航により、尊王攘夷の機運が高まっていた時代です。
若き利通らも、郷中組織を起点に精忠組を結成。尊王攘夷派との関わりを持つようになっていきました。


安政4(1857)年には、利通は精忠組の統率する立場となります。
安政5(1858)年、斉彬が死去に伴って、寵臣であった西郷は失脚することに。
安政6(1859)年、利通は同志40人余りと脱藩を画策。しかし藩主・茂久から親書が下されたことで思い止まっています。


以降、利通は国父(藩主の父)・島津久光に接近。吉祥院の住職を介して建言の手紙を渡します。安政7(1860)年には、利通はついに久光と対面を果たしています。


同年には勘定方小頭格、御小納戸役と昇進。藩政に関わる立場となり、家格も一代新番に引き上げられています。利通は久光に可愛がられていたようです。通称に「一蔵」の名を賜り、内命によって上洛しています。



国父・島津久光の寵臣としての功績を積む

寺田屋事件に遭遇する

文久2(1862)年正月、利通は久光の意を受けて公武合体運動(朝廷と幕府、および諸藩を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとした政治運動のこと。)に取り組み始めます。


和宮降嫁での行列
文久元(1861)年、「公武合体」のため、孝明天皇の妹・和宮と将軍徳川家茂の結婚が決まり、和宮一行は江戸に下向。翌文久2(1862)年2月に婚礼が行われた。

利通は公家・岩倉具視らと協力し、徳川慶喜の将軍後見職就任などを推し進めていきます。2月には帰藩し、奄美大島に流されていた西郷と再会。久光上洛について話し合っています。3月、久光は公武合体運動のため上洛を開始。一千を超える藩兵が久光に従っていました。


しかし同月、京都において悲劇が起きます。
寺田屋に藩内の尊王攘夷激派が集結。撃破の中には、郷中の仲間であった薩摩藩士・有馬新七の姿もありました。


有馬らは、尊王攘夷を実現するため、久光の武力蜂起を望んでいました。当然、久光が応じるはずはありません。鎮圧のために奈良原繁らが差し向けられ、斬り合いが勃発。有馬ら8名は斬られてしまいました。


世にいう「寺田屋騒動」です。


2つの対立軸でみた、幕末の各思想(論)の概念図
2つの対立軸でみた、幕末の各思想(論)の概念図。薩摩藩内には公武合体派と尊王攘夷派がいた。しかし、1863年の薩英戦争の後より、「攘夷は不可能」と考え、藩士らは徐々に倒幕派に移行していった。

公武合体運動の遂行

悲嘆に暮れる間もなく、利通は政治活動に身を投じていきました。
5月には勅使の関東下向を上申。下向は認められ、久光が勅使に随行することとなります。
利通は功績が認められて御小納戸頭取を拝命。下級藩士出身ながら、小松帯刀らと並んで久光の側近に列しました。


勅使の関東下向により、文久の改革が実現。公武合体運動へ大きく寄与することとなりました。しかし帰途、久光の行列は事件を起こします。薩摩藩士たちが生麦村で行列を横切ったイギリス人を殺傷。世にいう「生麦事件」です。


生麦事件を描いた錦絵『生麦之発殺』(早川松山画)
生麦事件を描いた錦絵『生麦之発殺』(早川松山画)

参内後、久光一行らは帰国の途につきます。
文久3(1863)年2月、利通は御側役に昇進。久光の信頼を一身に受け、藩政に絶大な力を持つようになっていました。


なお、同年7月には、先の生麦事件がきっかけで、薩摩藩とイギリスとの間で戦われた薩英戦争が勃発しています。



討幕での功績者

参預会議の解体と討幕

元治元(1864)年には参預会議が設立。久光はメンバーの一人に名を連ねますが、徳川慶喜と対立して辞任に及びます。
結果、参預会議は空中分解。公武合体は大きく後退することとなりました。


慶応2(1866)年、幕府は第二次長州征伐を断行。しかし利通は薩摩藩の出兵拒否を伝えています。
慶応3(1867)年、利通は西郷や小松帯刀らと協力。四侯会議の開催を実現させました。
雄藩連合により、政治の主導権を幕府から奪うのが目的です。


しかし会議内において、慶喜の優位は変わりません。むしろ久光は決定的な政治的敗北を喫してしまいます。
利通は公武合体路線を放棄。以降は武力討幕路線を掲げて行動していくこととなりました。


6月、利通は西郷や小松と公議政体派と会談。土佐藩の後藤象二郎や、浪士であった坂本龍馬らと薩土盟約を締結します。
9月には長州藩の広沢真臣、広島藩の辻維岳と三藩盟約を締結。利通らは着々と討幕への足場固めを行なっていました。


討幕の密勅

10月14日には、正親町三条実愛から討幕の密勅を降下させることに成功。討幕実行は実現間近にまで迫っていました。
しかし同日、慶喜が大政奉還を断行。密勅は立ち消えとなります。

慶喜には、新政府で自らが主導権を握るという目算がありました。朝廷はいずれ慶喜や旧幕府を頼るという考えがあり、土佐藩の建白を受けて大政奉還を行なったようです。


二条城二の丸御殿大広間での「大政奉還」を描いた図(頓田丹陵筆、聖徳記念絵画館蔵)
二条城二の丸御殿大広間での「大政奉還」を描いた図(頓田丹陵筆、聖徳記念絵画館蔵)

利通は西郷や岩倉らと王政復古の大号令を実行。自らは新政府で参与を拝命して徳川家排除を画策します。
小御所会議では、山内容堂や松平春嶽らを抑えるほどの強権ぶりを発動。慶喜の辞官納地と討伐を強硬に主張していきました。


年が開けて慶応4(1868)年1月、鳥羽伏見の戦いが勃発。薩摩と長州などの新政府と、慶喜や会津・桑名の旧幕府軍が軍事衝突を始めます。


新政府軍は五千、旧幕府軍は一万五千の兵を率いていました。新政府軍は緒戦を優勢に勝ち進めますが、いずれ劣勢になることは確実でした。


しかし利通には、戦いに勝つための準備を済ませています。
利通は長州藩士・品川弥二郎と官軍の象徴である「錦の御旗」の作成。利通の妾・おゆうに材料の調達をさせています。
戦場に錦の御旗が上がると、旧幕府軍の士気は低下。慶喜も軍艦に乗って江戸に逃亡したことで旧幕府軍の敗北が確定します。


西郷隆盛との仲違いと有司専制

岩倉使節団

旧幕府の残存勢力との戦いは、鳥羽伏見の後も続きました。
利通は戦時にあって、新しい国家の体制を模索していきます。


同年の1月23日には、京都から大阪への遷都を提唱。しかし受け入れられず、江戸(東京)への遷都が決定します。翌明治2(1869)年に参議を拝命。西郷らと協力する中で、版籍奉還、次いで廃藩置県を断行。中央集権体制を実現させていきます。


しかし懸案事項はまだ多くありました。不平等条約の改正交渉や新政府の財源確保も道半ばだったのです。
明治4(1871)年、大蔵卿を拝命。利通は一介の薩摩藩士から、国家の財政を預かる立場となりました。


同年には岩倉使節団の一員として日本を出国。欧米を歴訪して条約改正交渉に当たっています。
留守政府を預かったのは西郷隆盛らでした。

利通ら使節団とは、外遊前に大規模な改革を行わない旨を誓約。しかし西郷らは約束を反故にして、政権内で次々と政策を決定していきます。


西郷隆盛との決裂

明治6(1873)年、使節団は成果を挙げられずに帰国しました。
当時の留守政府の中で征韓論が沸騰している時期です。帰国した利通や岩倉らと、留守政府の西郷や板垣退助らは対立するようになります。同年、利通は政争において西郷らを排除。下野に追い込んで政府を掌握することに成功しました。


利通にとっては、盟友を切る行為です。しかし日本の近代化のために、実現すべき政策は山積みでした。
同年、利通は内務省を設置。自ら初代内務卿となって政治改革に力を注いでいきます。同年中には、学制の制定や徴兵令の施行、さらに地租改正も行われました。


しかし不平士族らは、利通ら政府を敵視。次第に不穏な空気が立ち込めていきます。
明治7(1874)年には、佐賀で不平士族に担がれた前参議・江藤新平が挙兵。佐賀の乱が勃発しました。
利通は鎮台兵を率いて出陣。鎮圧後は江藤らを処刑しています。


同年の台湾出兵では、戦後処理のために渡海。清国に日本の台湾出兵を認定させ、50万両の賠償金支払いを確約させました。
日本の海外進出において、利通は政府上層部にも建言します。


明治8(1875)年には、太政大臣・三条実美に海運政策樹立の意見書を提出。管船政策の先駆けとも言える政策でした。

当時の利通は、政府のほぼ全権を握った状態です。しかし、政府の権力機構は「有司専制」と批判されており、利通はその最たる存在と位置付けられていました。下野した西郷や板垣退助、不平士族らは、利通らを敵視。次第に不穏な情勢へと傾いていきました。


明治10(1877)年、西郷は鹿児島で挙兵。西南戦争が勃発します。
利通は、かつての盟友の武力蜂起をはじめは信じられずにいました。
しかし事実だと知ると、自らが京都で政府軍を指揮。西郷軍の鎮圧を担当していきます。


帰京後は、国内の産業発展にも尽力。東京の上野公園において、初回となる内国勧業博覧会を開催しています。


暗殺と功績

明治11(1878)年5月14日、利通は皇居に向かうべく馬車に乗ります。
馬車が紀尾井坂付近に差し掛かった時、島田一郎ら6名の不平士族たちが現れます。
白昼堂々の襲撃で、利通は命を奪われてしまいました。享年四十九。戒名は墓所は青山霊園にあります。


利通の死後、生前にどれほど蓄財したかが話題となりました。
生前、利通は汚職に手を染め、私腹を肥していたと噂になっていました。どれほどの遺産があるかは、世間の関心事だったのです。


しかし事実は、噂とは全く違うものでした。
利通は金銭には潔白で、不正蓄財などは行なっていなかったようです。むしろ予算のつかない公共事業に私財を投じていたほどでした。
遺産が140円(現代に換算して350万円)ほどに対し、借財は8000円(現代の2億円)に上ったと伝わります。
債権者たちは利通の志を知り、返済を求めていません。


政府は利通が鹿児島県庁に寄付した学校費・8000円を回収。さらに8000円の募金を集めて1万6000円(4億円)の大金を作りました。この大金は利通の遺族の生計が立つように取り計らわれたと伝わります。



【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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