「永倉新八」最後に新選組と決別したのは何故? 後世への語り部となった最強の剣士、新選組二番隊組長

新選組で最強の剣士と称された男がいます。二番隊組長・永倉新八(ながくら しんぱち)です。新八は上級武士の家に生まれながらも脱藩。剣術修行のために旅に出て、各道場を渡り歩きました。

江戸の試衛館道場の食客となった永倉は近藤勇や土方歳三と出会います。その後上洛して近藤らと新選組を結成。池田屋事件では、近藤とともに突入するなど死線をともにしました。やがて戊辰戦争が勃発。新選組の同志たちは、逆賊とされて次々と非業の死を遂げていきます。

新時代を生きる新八は、逆賊とされた新選組の名誉回復に向けて活動。新選組に関する記録の数々を残しました。彼は何と戦い、何を残すために戦ったのでしょうか。永倉新八の生涯を見ていきましょう。

剣術修行時代と試衛館との出会い


松前藩士の次男として生まれる

天保10(1839)年、永倉新八は松前藩江戸定府取次役・長倉勘次の次男として江戸の松前藩上屋敷で生を受けました。 母は利惠です。幼名は栄治と名乗りました。

父・勘次は150石取りの家で、松前藩内でも有数の大身でした。新八が三歳の時に、兄・秀松が夭折。新八は長倉家の跡取りとして養育されるようになります。

新八の父である勘次は、武術の錬磨を奨励していました。弘化3(1846)年、新八はわずか八歳で剣術修行を開始。幕臣・岡田十松の道場「撃剣館」に入門して、神道無念流剣術を学びます。

結果、新八の才能は早くから開花するようになりました。嘉永6(1853)年には、わずか十五歳で切紙を獲得。安政3(1856)年には、十八歳の若さで本目録まで進んでいます。

剣術に生きると決めた新八は、より高みを目指すことを決意しました。

安政4(1857)年には、住んでいた藩邸を出奔。本所亀沢町にあった、百合元昇三の神道無念流道場に住み込むようになります。藩士が所属先を無断で離れることは、脱藩行為です。家や地位を捨てることは勿論、連れ戻されれば厳罰に処されました。新八の決意がどれほどであったかが窺えます。

試衛館の食客となる

新八は以降、苗字の長倉を永倉と改姓。自らの生きる道を模索するべく、一人で歩き始めます。

万延元(1860)年には、神道無念流の免許皆伝を取得。朋輩で幕臣の市川宇八郎(後の芳賀宜道)とともに、下野地方を無視修行に回って行きました。しかし新八はまだ飽き足りません。江戸に戻ると牛込の坪内主馬の心形刀流を教える道場に招聘。師範代として門下生を指導していきました。

新八の未来を決める出会いは、この道場から始まっていました。同道場では、後に新選組に加入する島田魁と出会っています。さらに坪内道場の近くには、神道無念流の練兵館と、小野派一刀流を教える大久保九郎兵衛の道場がありました。大久保道場には、山南敬助(後の新選組総長)が修行を積んでいたのです。

当時、練兵館は市ヶ谷の試衛館道場に、道場破りの応援に赴くことがありました。試衛館では、近藤勇が天然理心流を教えています。新八も山南も近藤と出会い、道場の食客となります。

すでに道場の門弟には、土方歳三や沖田総司らが在籍していました。試衛館には他にも斎藤一や藤堂平助らも合流。後の新選組の主要メンバーは、試衛館で形成されていきました。

時期は文久元(1861)年末から翌文久2(1862)年の春頃かと思われます。

試衛館跡(東京都新宿区市谷柳町25)
天然理心流剣術の道場・試衛館跡(東京都新宿区市谷柳町25)

上洛して新選組の創設メンバーとなる

壬生浪士組への加入

文久3(1863)年2月、江戸で浪士組の募集が行われました。

浪士組は、上洛する将軍家茂の警護と尊王攘夷のために結成される部隊です。当時の京都は天誅(要人暗殺)が横行し、治安が悪化。将軍の身辺警護と治安維持は急務とされていました。

試衛館の一党は、浪士組の応募して江戸を発ちます。新八は出立にあたり、父母に「武士の節を尽くして厭までも 貫く竹の心一筋」の和歌を詠みました。新八は、浪士組加盟に壮絶な覚悟と強い意志を持って臨んでいたことがわかります。

しかし新八らの期待は、思わぬ形で裏切られることとなります。浪士組の発案者・清河八郎は、将軍警護は建前だと主張。実際の目的は尊王攘夷にあり、江戸に引き返すと宣言します。

近藤率いる試衛館一党と、芹沢鴨らの水戸派は京都残留を決定します。
3月には会津藩の御預かりとなる形で、壬生浪士組(新選組の前身)を結成。市中の治安維持業務にあたることとなりました。

※参考:壬生浪士組(新選組の前身)の主要メンバー
芹沢鴨一派試衛館一派
芹沢鴨(局長)近藤勇(局長)
新見錦(局長)土方歳三(副長)
田中伊織沖田総司
平山五郎山南敬助
平間重助永倉新八
野口健司原田左之助
佐伯又三郎斎藤一
etc…

金策と与力の暗殺

結成当初は資金繰りに困窮していました。
4月、新八は土方や沖田と共に、大坂今橋の両替商・平野屋を訪れて50両(500万円)の活動資金を借用しています。新選組の船出は、決して順風満帆ではありませんでした。

しかし新八は使命感を持って任務に取り掛かります。同月には、会津藩主・松平容保の正体で黒谷の会津藩本陣に出向。撃剣の腕前を披露すべく、御前で斎藤一と組んで稽古を披露しています。

やがて新八らの働きが本格的に認められる時が訪れます。八月十八日の政変に伴い、壬生浪士組は御所に出動。お花畑の警備を行った手柄が評価され「新選組」の隊名を拝領しています。

当時の新八は副長助勤という役職を与えられていました。副長・土方歳三の側近であり、沖田総司や斎藤一らと並ぶ位置です。厚い信任と同時に能力が高く評価されていたことを物語っています。

もちろん、新八は近藤や土方の期待に応えるように活動していきました。芹沢鴨粛清後、新八は斎藤一と共に間者の御倉伊勢武と荒木田左馬之助を殺害しています。

元治元(1864)年5月には、新選組と遺恨があった大坂の西町奉行所与力・内山彦次郎を襲撃。暗殺後に長州人名義で札を立てて犯行を偽装しています。

池田屋事件で活躍、最強の剣士として名を馳せる

池田屋事件で手柄を挙げる

同年の6月5日、新選組の名を不動のものとする事件が勃発します。

新選組は薪炭商・枡屋喜右衛門を捕縛。拷問によって、尊王攘夷派が京都大火を企てていることを突き止めました。新選組は総勢34名で出動。近藤隊10名、土方隊24名は鴨川の東西の旅籠を捜索していきます。新八は近藤隊に所属していました。

やがて近藤隊は池田屋に到着。同旅籠に長州系の浪士たちが集っていることを確認して踏み込みます。近藤隊は周囲を半数で固め、残り半数の5名で屋内に突入。突入メンバーには、新八と近藤や沖田、藤堂の精鋭でした。

池田屋事件のイラスト
新選組が 池田屋(京都府京都市中京区中島町)に潜伏していた尊王攘夷派の志士たち(長州藩・土佐藩など)を襲撃。

暗闇の中、新選組は多勢に無勢で応戦しますが、沖田が発病、藤堂が眉間を負傷して退くことに。新八も親指に重傷を負いますが、近藤と戦い抜きます。やがて土方隊が駆けつけたことで形成は逆転。浪士たちは捕らえられ、京都大火の計画は未然に防がれました。世にいう池田屋事件です。

新八は池田屋事件の後の禁門の変にも出動。九条河原から伏見、日野邸、天王山と転戦しています。戦で新八は指を負傷し、腰にも銃撃を受けています。新選組の幹部でありながら、新八は討ち死覚悟で動いていました。

戦後、新八は働きが考慮されて幕府や会津藩から報奨金を受領。金額は沖田や藤堂と並ぶ20両(200万円)でした。もはや新八らの働きは、幕府も認めるところとなっていたのです。

局長・近藤を訴える

軌道に乗ったかに見える新選組ですが、軋轢も生まれていました。手柄を立てたことにより、局長の近藤が慢心したと言われるようになります。

新八は、斎藤一や島田魁らと連名で会津藩に上書を提出。奢った近藤の姿勢を糾弾しています。通常であれば、新八らは粛清対象となる動きでした。

新八も切腹覚悟で行ったようです。しかし近藤や土方らは、新八や斎藤らを特別に咎めることはしませんでした。
最後まで反発していたとされる、末端の隊士・葛山武八郎を切腹させることで一件は収束。新八らは謹慎で済んでいます。

加えて謹慎処置も一時的なものでした。9月、近藤は隊士募集のために江戸に下向。新八の謹慎は解かれ、ともに江戸へと向かっています。江戸で近藤は老中・松前崇弘に拝謁します。

松前はかつての新八の主君でした。新八の随行は、老中拝謁のために人脈を活用する意図があったものと考えられます。流石に新八は遠慮し、拝謁の場には現れませんでした。

二番隊組長拝命と隊内での争い

帰京後、新八は新たな役職を得ています。隊士10人を預かる二番隊組長を拝命。沖田総司や斎藤一と並んで、撃剣師範も務めて隊士の指導に当たっています。近藤を糾弾したとは言え、新八は変わらず厚い信任を受けていました。

しかし元治2(1865)年2月、新選組に激震が走る事件が起きます。江戸以来の同志である、総長・山南敬助が脱走。屯所に連れ戻され、切腹の処分が言い渡されてしまいます。

当然、新八は黙っていませんでした。新八は山南と親しかったため、再度の脱走を勧めます。しかし山南は丁重に断り、粛々と切腹を受け入れて果てたと伝わります。山南の死により、新選組の規律はより厳格に運用されていきます。

新選組の崩壊は、内部から始まっていました。慶応3(1867)年元日、新八は伊東甲子太郎らと島原の角屋に登楼。三日間にわたって帰隊しませんでした。結果、新八は帰隊後に謹慎処分となります。

伊東甲子太郎は、既に討幕派の薩摩藩と接近。御陵衛士として、新選組からの分離独立を画策していました。3月には、伊東が隊士たちを引き連れて独立。江戸以来の同志である斎藤や藤堂も同行していました。しかし新八は、近藤や土方と行動を共にする道を選んでいます。

小常との出会いと別れ

血生臭い死闘が予感される中、新八は一人の女性と出会います。島原木津屋の芸妓・小常です。新八は小常を身請して自らの妻としました。いつ命を落とすかも知れない中で、新八は束の間の平穏を噛み締めていました。

10月には、将軍・徳川慶喜が大政奉還を断行。徳川幕府は消滅し、新選組も幕臣の地位を失うこととなりました。それからほどなくして、御陵衛士に潜入していた斎藤が帰隊。伊藤による近藤暗殺計画が露見します。

11月、新選組は伊東甲子太郎を暗殺。遺体を油小路に放置します。御陵衛士が遺体を回収に現れると新選組が包囲。駆けつけた御陵衛士の中には、藤堂平助の姿もありました。

新八は事前に近藤や土方に相談し、逃亡する許可を得ていました。しかし囲みから逃がそうとする中、一人の隊士が藤堂に斬りかかります。結果、藤堂は殺害されてしまいました。

江戸以来の同志を、またもや自分たちの手で葬ることになってしまったのです。

新八に辛い別れが続きます。12月、妻の小常が娘・磯子を出産。産後の体調が悪かったのか、亡くなってしまいます。しかし新八には、悲嘆に暮れる時間はありませんでした。薩長との戦いは、より本格的な様相を帯び始めていたのです。

新八は磯子を知り合いに預け、新選組と共に伏見奉行所を守備。討幕派との戦いに備えて行きます。年が明けて慶応4(1868)年1月、鳥羽伏見の戦いが勃発。新八は斬り込み隊を率いて薩摩陣営に攻撃を仕掛けています。

新八は続けて淀や八幡山と転戦。橋本から大坂へ撤退する中では、新選組の殿軍を務めています。撤退の様は「天晴れ古名将の退き口にも恥じぬもの」と称されるものでした。

新選組崩壊

鳥羽伏見の戦いの敗北後、新八たちは江戸に帰還しています。3月には近藤によって甲陽鎮部隊が組織され、勝沼で新政府軍と衝突。しかし敗れて江戸へと退くこととなりました。

やがて江戸で散り散りとなっていた近藤や土方と再会。新八は根回しをしていた新組織への協力を進言します。
しかし近藤は首を縦に振りません。むしろ「拙者の家臣となって働くというならば同意もいたそう」と返したと伝わります。

新八と同僚の原田左之助は、近藤の発言に激昂。新選組との決別を決め、脱退する道を選んでいます。

新八はかつての朋輩・芳賀宜道と共に靖兵隊(靖共隊とも)を結成。無血開城を控えた江戸を脱出しています。
途中で原田が脱退。江戸以来の同志は、もはや誰もいなくなっていました。

まもなく新八たちは旧幕府陸軍に合流し、宇都宮城に入城。この間に土方と再会したと考えられています。新八も土方も、戦闘で負傷して会津に護送。領内で療養生活を送って次の戦いを見据えていました。

漫画『ゴールデンカムイ』では、新八と土方は盟友として描かれています。二人が今後の展望やお互いの境遇について、何を語り合ったのか気になるところです。

既に近藤勇は板橋で斬首。沖田総司は江戸で病没して、原田左之助も上野で戦死していた時期です。新八は次々と仲間を失っていました。

永倉新八から杉村義衛への改名と新時代の姿

松前藩への帰参

療養した新八は、会津藩との共闘を目指します。茶臼山や今市で激戦を展開。しかし次第に味方の犠牲者が増え、旗色が悪くなっていきました。

事態を打開するべく、新八は芳賀や雲井龍雄らと米沢へと向かいます。米沢藩を抗戦に動かす意図がありましたが、同藩は新政府に降伏。新八らは潜伏生活を送ることとなります。

潜伏生活中に会津藩も降伏。12月になると、新八は江戸から改称された東京に帰還しました。幸いにも、新八は松前藩への50石での帰参が認定されます。

しかし辛い別れは尚も新八に襲いかかります。翌明治2(1869)年1月、芳賀は義兄に斬られて死亡。5月には、蝦夷地の箱館で土方が銃弾に倒れています。

杉村義衛と改名する

新時代となった明治で、新八も生きる道を模索していきます。明治4(1870)年、新八は松前に移住。同藩の藩医・杉村松柏の次女である「よね」と結婚し、婿養子となりました。以降、新八は杉村義衛を名乗るようになります。

明治6(1871)年には家督を相続。同年中に新八らは小樽へと移り住むこととなりました。

同年、新八は上京して旧幕府御典医であった松本良順と面会。同志たちを合祀する墓碑建立を画策しました。新八らの奔走は実り、翌明治7(1872)年には滝野川に墓碑が完成しています。

北海道への移住と新選組の記録を残す

新八は剣との関わりを大事にしていました。明治15(1882)年から同19(1886)年まで、新八は樺戸集治監に剣術師範として勤務。看守たちに指南を行っています。

明治24(1891)年ごろに東京に移り、同32(1898)年に戻るまで数度の移転を繰り返しました。住まいは斎藤一(当時は藤田五郎)とも近く、親しく交流した様子がうかがえます。

さらに新八は、新選組についての記録を残していました。明治の前半からは『浪士組文久報国記事』を、晩年の大正2(1913)年には『小樽新聞』において連載を持っています。同連載はのちに『新撰組顚末記』として刊行。多くの人々に新選組の真の姿を伝えていきました。

永倉新八の肖像写真(最晩年の大正2年に札幌で撮影。前列中央が永倉。)
永倉新八の肖像写真(最晩年の大正2年に札幌で撮影。前列中央が永倉。)

新選組の語り部として生きた新八は、大正4(1915)年1月に、敗血症によって世を去りました。享年七十七。墓所は小樽中央墓地、札幌の里塚霊園、寿徳寺境外墓地にあります。



【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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