「新選組」の歴史とは? 農民から武士の集団へ…傑出したメンバーと優れた編成

最後の侍、といえば新選組(しんせんぐみ)の姿が思い浮かびます。農民や町人の出身ながら、卓越した剣と組織力で京都の治安を回復。ついには幕臣にまで上り詰めました。

彼らはどのようにして生まれ、どのように組織を育んだのか。本記事ではその軌跡を追いつつ、彼らの真実の姿に迫りたいと思います。

新選組の前身集団「浪士組」と「壬生浪士組」

将軍警護のため組織「浪士組」

幕末の京都には、全国から尊王攘夷派の志士が集まっていました。

長州などの力を背景にした公卿たちが朝廷を掌握。勅旨を乱発して政治的混乱に拍車をかけており、市中においては天誅(要人の暗殺)や暴行や恐喝事件が相次ぎ、従来の京都所司代だけでは対応できない状況になっていたのです。

しかしその事態を一変させる方策が発案されます。文久2年(1862)、上洛する将軍・徳川家茂の警護のため、浪士組の立ち上げが決定。これは庄内藩の清河八郎の献策によるものでした。

この浪士組が新選組の前身です。翌文久3年(1863)2月、小石川の伝通院に浪士たちが集結。その数は230名以上にも上ったと伝わります。

浪士取締役となったのは、幕臣・松平上総介らでした。取締役こそ幕府の武士ですが、浪士組のメンバーは町人出身や侠客など、多岐にわたるものでした。

浪士たちの中には、天然理心流の試衛館から近藤勇や土方歳三、沖田総司らが加盟しています。近藤たちは豪農出身ではありましたが、身分では百姓と同じです。いずれも浪士組発足時の段階では、決して高い役職は与えられていません。

「壬生浪士組」の結成

浪士組が京都に到着後、事件が起きます。発案者の清河は、浪士組結成の目的が尊王攘夷の先陣にあると宣言。これに反発した近藤や土方、水戸出身の芹沢鴨らが浪士組から離れることを決めました。

浪士組が江戸に戻ると、近藤たちは京都に残留。壬生村に残って壬生浪士組(精忠浪士組とも)を結成します。壬生浪士組は京都守護職である会津藩主・松平容保のお預かりと決定。その指揮下で京都市中の警備を担うことになりました。同年の八月十八日の政変にも出動し、御所内のお花畑の警備を担当しています。

内部抗争を経て「新選組」が誕生

粛清と生き残りをかけた戦い

壬生浪士組は設立時から内部抗争を展開していました。筆頭局長となった芹沢鴨は、自身に近い人間で水戸派を形成。対して局長・近藤勇は、副長の土方歳三や沖田総司、山南敬助ら試衛館派と行動を共にしていきます。

※参考:壬生浪士組(新選組の前身)の主要メンバー
水戸派試衛館一派
芹沢鴨(局長)近藤勇(局長)
新見錦(局長)土方歳三(副長)
田中伊織沖田総司
平山五郎山南敬助
平間重助永倉新八
野口健司原田左之助
佐伯又三郎斎藤一
etc…

水戸派の芹沢らは数多くの問題を引き起こしていました。両替商の平野屋などから100両を脅し取り、大坂において力士たちと乱闘を起こして死者まで出しています。

さらに芹沢一派は京都の大和屋に金策を強行。これを拒否されると焼き討ちに及ぶという暴挙に出ています。これらの行いは、京都守護職としても看過できなくなりました。結局は近藤や土方らに内命が下り、芹沢派の粛清が行われることになります。

同年の9月、土方は沖田ら4名で襲撃を実行。芹沢らを殺害の上、水戸派を壊滅に追いやりました。これによって近藤や土方らが組を完全に掌握することになりました。なお、この直後には働きを評価され、「新選組」の名前を賜り、改名しています。

新選組と新撰組!?「選」と「撰」の違いとは

新選組の隊名は「新撰組」とも表記されることがあります。いずれも当時の文書に表記されていることから、どちらも間違いではありません。

隊名の由来は会津藩にあった組織に由来すると言います。江戸時代の中期に、同藩には新選組と称する藩主の親衛隊が存在していました。これは武芸に秀でた藩士によって組織されていたと伝わります。

新選組の隊名は、朝廷の武家伝奏、あるいは会津藩主・容保から貰ったという二つの説があるようです。どちらにしても、当時新選組が働きを評価され、前途を期待されていたことは確かなようです。

新選組の名が天下にとどろいた「池田屋事件」

町人や農民出身者などの寄せ集め集団であった新選組が、あるとき武士として認知される事件が起きます。元治元年(1864)6月5日、新選組は池田屋事件において肥後や長州の尊王攘夷派を襲撃。京都大火計画を未然に防ぐという大功を挙げています。

池田屋事件のイラスト
新選組が 池田屋(京都府京都市中京区中島町)に潜伏していた尊王攘夷派の志士たち(長州藩・土佐藩など)を襲撃。

同年7月には、池田屋事件を受けて長州藩の尊王攘夷派が挙兵。京都への進撃を開始します。世にいう禁門の変です。新選組はここでも出陣し、天王山で尊王攘夷派の領袖の一人・真木和泉らを自害に追い込みました。

戦後、新選組は幕府と会津藩から莫大な報奨金を受け取っています。その額は200両(約二千万円)以上にも上りました。一介の浪士の集団であった新選組は、もはや天下にその名が轟く存在となったのです。

近藤や土方は、新選組の拡大を見据えて行動していきます。
翌慶応元年(1865)には、新選組は200名以上の隊士を抱えるまでに成長。西本願寺に屯所を移転しています。


新選組の優れた組織編成

新選組は優れた組織編成を行なっていました。局長を頂点に副長、総長、参謀が続きます。副長の下に副長助勤と諸士調役兼監察、勘定方が置かれていました。


これらの役職名もそれぞれの由来は異なっています。

局長の役職は会津藩に由来します。同藩では部署を「局」という呼び名で呼んでいました。ここからは、近藤や土方たちは発足時の隊を会津藩の一部として捉えていたようです。

助勤は江戸幕府の教育機関・昌平坂学問所(東京大学の前身)が元となっています。同学問所の寄宿舎の舎監を「助勤」と称しました。

組織編成では、洋式軍制の影響も見られます。
通常、江戸幕府や藩では要職は数人が任命される複数制でした。しかし新選組は局長や副長などは、多くの場合はほとんど一人制です。
近藤や土方の故郷である多摩は、韮山代官・江川太郎左衛門の領地でした。江川は実際に多摩で農兵政策を勧めています。当時随一の開明家である江川に影響され、洋式軍制を取り入れても不思議ではありません。

沖田や斎藤一などは副長助勤に任命されています。これは10人の隊士を率いる組長を兼任する立場でした。

大河ドラマや小説などでは、一番隊から十番隊の編成が有名です。しかしこれが全てではありません。
慶応元(1865)の長州征伐直前には、出陣体制を構築。隊士たちを八つの小隊と小荷駄隊に再編しています。ここでは副長の下に軍奉行の役職を置くなど、実戦さながらの部隊編成が採用されていました。

隊の設立から組織の再編は幾度となく実施されています。しかし局長から副長、そして助勤相当の枠組みは最後まで残っていました。

最後の武士集団・新選組


戊辰戦争勃発により、新選組は生き残りをかけた戦いへ

慶応3年(1867)3月、隊内の不穏分子である伊東甲子太郎の一派が新選組から脱退。御陵衛士を結成して討幕派に加わります。6月には新選組は幕臣に取り立てられ、正式な武士として認められました。11月には御陵衛士の多くを油小路において殲滅しています。

栄光を掴んだ新選組ですが、喜びの時は長くは続きませんでした。というのも、同年10月に将軍・徳川慶喜が朝廷に大政奉還を行ったのです。

翌慶応4年(1868)1月には、鳥羽伏見において旧幕府軍と薩長の新政府軍が衝突。新選組も初戦に加わりますが、多数の戦死者を出してしまいます。初戦の敗北と慶喜の逃亡により、旧幕府軍は瓦解。新選組の隊士たちも江戸に撤退することになりました。

江戸に撤退した新選組は、甲陽鎮撫隊として甲斐の甲府城に進撃しますが、あえなく敗退。直後には、方針の違いで旧来の幹部・永倉新八や原田左之助らも退去しています。隊士の脱走は日を追うごとに増えていきました。

やがて近藤と土方は下総国の流山に屯集します。しかしここで新選組は新政府軍に包囲されてしまいました。近藤は「大久保大和」の偽名で投降しますが発覚。板橋において斬首されてしまいます。沖田総司もまた、持病の肺結核によって江戸で病没してしまうのです。

最後の武士集団・新選組

土方歳三は新選組を率いて国府台の旧幕府軍に合流。宇都宮城の戦いを経て会津に辿り着きます。しかし会津でも旧幕府方は劣勢に立たされていました。会津に斎藤一らが残り、土方たちは援軍を求めて庄内を目指します。

庄内が降伏を決めると、土方は仙台に転進。ここで旧幕府艦隊と合流して蝦夷地を目指すこととなりました。ほどなく旧幕府軍による蝦夷地共和国が成立。新選組はここで主力の軍となります。

明治2年(1869)、新政府は蝦夷地に進出。二股口の戦いでは、土方が指揮する新選組が新政府軍を大いに苦しめます。しかし全体的な形勢は、次第に新政府軍に傾いていきました。

箱館総攻撃では、新政府軍が箱館の街を占領。新選組本隊は弁天台場に孤立する形となります。土方はこれを救出すべく出陣。銃撃を受けて壮絶な戦死を遂げました。

これを受けて新選組は降伏。程なくして戊辰戦争は終わりを告げました。




【主な参考文献】
  • 菊池明 『新選組の真実』 PHP研究所 2004年
  • 伊東成郎 『新選組は京都で何をしていたか』 KTC中央出版 2003年
  • 中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典 近藤勇

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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