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「おまつ(芳春院)」前田利家の正妻は加賀100万石を存続させた立役者だった!

pinon
 2020/06/26

おまつのイラスト

かつては、前田利家正室である「まつ」はかなりマイナーな存在であった。 利家は加賀100万石の礎を築き、豊臣政権においてはNo.2の地位を確立した大大名であるのにも関わらずである。

そこには、有名な武将であっても、その妻の記述が史料に残されることが意外に少ないという事情もあったように思われる。 そんなまつの知名度が大いに向上したのは2002年大河ドラマ『利家とまつ』によるところが大きいのではないだろうか。

以降、私は まつ がいなければ加賀前田100万石は江戸時代まで存続しなかったであろうと結論付けた次第である。それでは数少ない史料からまつの足跡をたどってみよう。

まつ と 利家は従兄妹どうし

まつは天文16(1547)年に尾張国海東郡沖島で生まれた。父は篠原主計(かずえ)と伝わる。

まつの生後ほどなくして主計が死去したため、母は高畠直吉と再婚したという。 このため、まつは伯母が嫁いでいた前田利昌に引き取られることとなった。

この利昌が前田利家の父である。つまり、利家とまつは従兄妹同士なのだ。

永禄元(1558)年に12歳で利家に嫁ぐ。利家との年齢差は10歳ほどもあり、いわゆる年の差婚であった。

まつは子だくさんとして知られ、利家との間に2男9女をもうけているが、子だくさんが当たり前であった当時にあっても、これは稀有な数である。

しかも、5女が夭折している以外は皆成人しており、この点でも極めて珍しい。母体が並外れて健康だったのであろうか。

また、その子孫はその血脈を現代にまで伝え、皇室にもその血が入っている。血脈という点では、豊臣家よりも前田家のほうが繁栄したと言って良いであろう。

愛知県あま市の瑞円寺にある芳春院の生誕地碑
愛知県あま市の瑞円寺にある芳春院の生誕地碑(出所:wikipedia

おねとの関係

ドラマなどで、清洲城下で利家とまつが、秀吉夫妻の近所に住んでいるというシーンがよく出てくるが、どうやらこれは史実であるようだ。

そして、両家は仲がよかったのも本当らしい。というのも、利家との婚姻の際、おねが仲人となっているからである。

また、子供が無かったおねのために、まだ満1歳であった豪姫を、まつは養子に出している。おねへの並々ならぬ信頼がうかがえるエピソードである。

二人の関係は秀吉が関白となっても良好であったという。おねは秀頼の後見人を務めているが、まつも乳母を務めるなど協力して豊臣家を盛り立てていたようである。

秀吉も、まつのことは頼りにしていたと思われ、豊臣政権最大のイベントである醍醐の花見にも、出席を許されている。

また、蒲生氏郷の嫡男秀行の所領問題が生じた際も、おねに請願して会津の領有を安堵されたという。これは、利家が秀行の後見人であったことに配慮したものであろうが、おねとまつの絆の強さをここにも垣間見ることができるのではないだろうか。

賤ヶ岳とまつ

天正10(1582)年6月2日本能寺の変が勃発し、信長が横死する。

毛利攻めの最中だった秀吉はその情報を掴むや、毛利と講和を結び一目散に京に戻った。いわゆる中国大返しである。

仇敵明智光秀を破った秀吉は、清州会議で信長の後継者として名乗りを挙げることとなる。 ここで、柴田勝家との権力闘争が始まるのであるが、当時利家にとって勝家は上司であり、親友秀吉と上司勝家の板挟みとなってしまうのである。

能登の小丸山城跡にある前田利家とまつ の像
能登の小丸山城跡にある前田利家とまつ の像。

天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦いでは、当初は勝家についた利家であったが、戦いの最中に突如として戦線離脱したという。これにより佐久間盛政隊は総崩れとなり、合戦の趨勢が決することとなる。

このあまりにタイミングの良い離脱の裏に、秀吉の策略の匂いを感じてしまうのは私だけではなかろう。実際、『川角太閤記』には4月20日に中川清秀討死及び佐久間盛政侵攻の報を受け、大垣より取って返した秀吉が利家に使いをやり、次のように伝えたとある。

「合戦が始まったら、こちらに寝返ってもらいたいが難しい場合は傍観してほしい。」

これに対し利家は「中立的な立場をとる」と返答したという。

結局、利家は途中で戦線離脱し越前の府中城へ退却する際に秀吉の追撃軍と戦闘をしてしまうのである。

この後、府中城で利家と秀吉は講和するのであるが、この裏にどうやらまつの活躍があったらしい。

『川角太閤記』によると、秀吉は利家との会談の前にまつに会っている。この際、まつは秀吉に利家の赦免を請願したという説があるのだ。

この請願が効いたのか、講和は成立し利家は秀吉方として、北ノ庄城攻めの先鋒となる。結果として、佐久間盛政の旧領である加賀二郡を加増されたのである。

これ以降、これまで小丸山城だった利家の居城は金沢城(尾山城)となる。

出陣前の諫言

意外なことだが、利家は数字に強く、米の石高や兵の数などを自ら計算していたという。それを裏付けるかのように、利家愛用の算盤が現存する。

そんな利家が浪費家であるわけはなく、はっきり言って「ケチ」であったようだ。 ところが、まつは利家のあまりの吝嗇ぶりに不満を持っていたらしい。

天正12(1584)年小牧長久手の戦いの際、佐々成政の15000もの大軍に末森城が包囲された。このとき、利家が動員できる兵は僅か2500であったと伝わる。

『川角太閤記』によれば、これを知ったまつは出陣前の利家に、金子や金銀の詰まった袋を放り投げると、 「蓄財に励むよりも戦に勝つために兵数を集めるのが肝要ですのに、もはやそれは手遅れです。この金銀に槍でも持たせたらいかがですか。」と言い放ったという。

これには激怒した利家ではあったが、ここまで言われて負けるわけにはいかないとばかりに出陣し、佐々軍の背後を急襲し見事勝利をおさめたのである。

経帷子

慶長4(1599)年3月3日に利家は死去するが、その2日前のことである。夫の死期が迫っていることを悟ったまつは経帷子(きょうかたびら)を作り、利家に着せようとしたが、利家はこれを拒んだという。

『亜相公御夜話』には利家は「うるさの経帷子や、おれはいらぬ。お身が跡からかぶりおじゃれ。」と言ったとある。

まつはどうしても利家に経帷子を着せたかったらしく、臨終の際にも着るように懇願している。 ところが、利家はこれを頑強に拒み、「わしは理由なく人を殺めたことはない。また、人を助けたことも多い。地獄の鬼どももその援軍とともに蹴散らしてくれるわ。」と言ったと伝わる。

利家の死後、まつは出家し芳春院と名乗る。

自ら人質に

利家の死後、五大老筆頭の徳川家康が勢力を拡大する。家康は豊臣恩顧の切り崩しに着手するが、真っ先に槍玉に上がったのは前田家であった。

慶長5(1600)年家康は前田家に謀反の嫌疑をかける。家康お得意の「難癖」である。まだ若い2代目当主の利長は家康と一戦交えるつもりだったという。

芳春院はこのとき「あなたに家康と渡り合う度量はありません。加賀一国をお守りなさい。」と諫めたという。自ら人質として江戸へ下り、14年もの長きに渡り江戸での生活を送ることになってしまうのである。

江戸では、関ヶ原の合戦で西軍についた親族の助命嘆願などに奔走する日々を送る。金沢への帰国が許されたのは利長が死去した後の慶長19(1614)年のことであった。

芳春院は元和3(1617)年7月にこの世を去る。享年71であったという。

あとがき

武将の妻には、大きく分けて3つのタイプがあるという。それは「良妻」、「賢妻」、「悪妻」であるそうだ。

私には、まつが「良妻」と「賢妻」を兼ね備えた稀有な女性であったように思える。

利家はNo.1を目指すタイブの武将ではなかったが、それを把握した上で夫を立てつつ時に諫めるというのは中々できるものではない。

私は歴史を通じて、「この世は常に乱世である。」と思うに至ったのであるが、混沌を深める現代において、その感がより強くなったように感ずる。

まつの生き様は、家庭を切り盛りしている現代女性にとって示唆に富むものに思えてならないのである。


【参考文献】
  • 大西泰正『前田利家・利長: 創られた「加賀百万石」伝説』平凡社 2019年
  • 砂原浩太朗『いのちがけ 加賀百万石の礎』講談社 2018年
  • 川角三郎右衛門『現代訳 川角太閤記』史学社文庫

  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。
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