「トーマス・ブレーク・グラバー」坂本龍馬や薩長に協力した幕末の武器商人!明治には高島炭鉱の経営やキリンビール創設に関わった人物

「青い目の志士」と呼ばれ、幕末の討幕運動に協力した外国人がいます。スコットランド出身の商人、トーマス・ブレーク・グラバーです。

海軍軍人の家に生まれたグラバーは、幼い頃から船との関わりを持っていました。
学校を卒業後は商人を志してジャーディン・マセソン商会に入社。やがて長崎に赴任することとなります。


当時の日本は尊王攘夷運動が吹き荒れていました。住むだけでも命懸けの国で、グラバーは新しい商機を見つけます。
討幕派の長州藩や薩摩藩に接近して援助し、最新式の武器を売り捌いていきました。
維新後には、自身の商会が破産の危機に落ち入りますが、日本で継続して活動する道を選びます。
その後、高島炭鉱の経営に携わりキリンビールの創業にも参画。近代日本の商業を支える道を歩んできました。


グラバーは何を目指し、何と闘い、どう生きたのでしょうか。トーマス・ブレーク・グラバーの生涯を見ていきましょう。


スコットランドの商人、長崎に降り立つ


スコットランドで生まれる


1838年、トーマス・ブレーク・グラバーは、スコットランド北東部のアバディーン州にある小さな漁村・フレーザーバラにて、8人兄弟の5番目として生を受けました。


父はトーマス・ベリー・グラバー、母はメアリー・フィンドレー・グラバーです。父はアバディーン州の沿岸警備隊司令にして、英国海軍大尉を務める人物でした。


グラバーは12歳のとき、アバディーンの郊外に移住して少年時代を過ごしました。名門校のギナジウム(キングスカレッジ付属の中等教育校)に進学し、勉学に励んでいます。それと同時に当時から船との関わりを持つようになりました。


一等航海士でもあった父に、よく港に連れ出されていたグラバー少年。船大工の造船現場を見学したり、父から操船技術も学ぶなど、船舶に対して並々ならぬ興味を抱くようになっていくのです。


開港直後の長崎に赴任する


ギナジウムを卒業した後、グラバーは商人になる道を選びます。
1859年に清国の上海へ渡海。当時東アジア最大の貿易会社・ジャーディン・マセソン商会に入社。まもなくして、日本の長崎に異動することとなります。


当時の日本は、開国してまだ5年しか経っていません。鎖国時から日本の玄関口であった長崎での任務はまさに命懸けでした。開国後の日本各地では尊王攘夷運動が盛り上がり、外国人に対する風当たりが強い中、グラバーの身に危険が及ぶ可能性も十分にあったからです。


それでも長崎行きを決断し、同じスコットランド出身の長崎代理人・ケネス・ロス・マッケンジーの元で貿易に従事します。このときのグラバーは代理人の助手という地位でした。



武器商人グラバー


グラバー邸(園)の建築

やがてグラバーが本格的に台頭する時が訪れます。
文久元(1861)年5月、マッケンジーは中国漢口に異動することが決定。グラバーが代理人の立場を引き継ぐこととなります。同時にこのとき、ジャーディン・マセソン商会の長崎代理店である「グラバー商会」を立ち上げて独立。茶や生糸の貿易を始めます。


やがて急転する時勢の中で、グラバーの商人として卓越した才能が発揮されていきます。

文久3(1863)年8月、会津藩と薩摩藩が同盟を締結。御所から尊王攘夷派公卿と警備を担当する長州藩を追放しました。以降、会津藩と薩摩藩は公武合体運動を推進していきます。
対して長州藩は、尊王攘夷の立場から両藩への敵対的姿勢を鮮明化させていきました。


このとき、グラバーはやがて佐幕派や討幕派の間で戦争が起こると予期していました。
大きな利益を狙い、武器商人として佐幕派と討幕派の両方に船舶や武器、黒色火薬などを売り捌いていきます。


同年には長崎港に面した土地にグラバー邸を建築。本格的に武器商人として歩み始めていきます。
ちなみに同邸は国内最古の木造洋館となっており、現在もその優美な姿を伝えています。


長崎県長崎市南山手町にある旧グラバー邸
長崎県長崎市南山手町にある旧グラバー邸(出所:wikipedia

薩摩や長州と結びつきを強める


グラバーが特に深い関係を築いたのが討幕派の面々でした。
文久3(1863)年、長州藩士が藩士5名をイギリスに留学するべく、グラバーに依頼します。
当時は日本から外国への渡航が禁じられていました。密航に手を貸すことは、グラバーにとってもかなりのリスクです。


しかしグラバーは密航に手を貸しました。この時の密航メンバーは、伊藤俊輔(博文)、井上聞多(薫)、野村弥吉(井上勝)、山尾庸三、遠藤謹助らでした。後に長州五傑と称された人物となり、日本の近代化をリードしていきます。


慶応元(1865)年3月には、薩摩藩士・五代友厚の留学のために再び密航に手を貸しています。
グラバーは自身の商会から蒸気船・オースタライエン号を手配。薩摩の羽島沖から五代を乗せて欧州へ旅立たせています。


このようにグラバーは確実に討幕派と繋がりを築きつつありました。


坂本龍馬らに新式銃を売却する

グラバーは商人として様々な品を売却していました。同年4月には、大浦海岸で500メートルほどの区間で蒸気機関車を走行させます。
日本人に鉄道を紹介するため、客車2両に長崎の人々を乗せて走らせました。このほか、茶や木綿、毛織物などの貿易も行い、着実に地盤を固めています。


しかしなんと言っても、大きな商売は武器の売買でした。


慶応2(1866)年、幕府は第二次長州征伐を決定します。
幕府軍は西南諸藩に動員令を発令し、十五万の幕府軍が動くとされていました。
対して長州軍はわずか四千人ほどです。当然、誰もが長州軍が負けると思っていました。


当時は長州藩は薩摩藩と同盟。両者の間には坂本龍馬率いる亀山社中が入り、長州藩に武器購入の援助を行っていました。
ここでグラバーは長州藩の伊藤俊輔らに対し、当時の新式銃であるミニエー銃4300丁とゲベール銃3000丁を販売しています。売買価格は9万2400両という莫大なものでした。

グラバーが販売した新式銃は、第二次長州征伐において大いに活躍。奇兵隊をはじめとする長州諸隊は、幕府軍を打ち破っています。


小菅修船場の建設

このほか、同年には薩摩藩の奄美大島に製糖工場建設を支援。機械の輸入のほか、外国人技術者を派遣しています。加えて、帰国した五代友厚と共同で長崎の小菅に造船場を着工し、明治元年の12月にこの「ソロバン・ドック」を完成させています。


世界遺産にも登録されている小菅修船場跡(長崎県長崎市小菅町)
世界遺産にも登録されている小菅修船場跡(長崎県長崎市小菅町)。満潮時、船を2列のレール上にある台車に載せ、ボイラー型蒸気機関で引き上げる。


キリンビールの生みの親


グラバー商会の破産と新会社・キリンビールの設立

これまでみてきたように、グラバーは日本の発展のために、様々な事業に着手していました。


明治元(1868)年には肥前(佐賀)藩と合弁で高島(三池)炭鉱開発に着手。洋式採炭法を取り入れて採掘を進めています。


明治維新は、いわばグラバーの多大な援助が関わっていました。維新後も造幣寮の機械輸入などに携わりますが、グラバー商会の経営は危機に瀕していました。


明治2(1869)年5月には、箱館に籠る榎本武揚らが降伏。佐幕派と討幕派による戊辰戦争が終結しました。既にグラバーは大量の武器を仕入れており、戦争が短期間で終結したために、商品が売れなくなってしまいます。


加えて諸藩からの資金回収が滞ったことが、商会の運営を致命的なものとしていました。
このため明治3(1870)年、グラバー商会は破産してしまいます。


しかしグラバーは日本にとどまることを選択。高島炭鉱の経営者として活動を続けています。
かつて攘夷の嵐が吹き荒れた日本ですが、グラバーは炭鉱労働者から「赤鬼」と呼ばれて親しまれていました。
明治14(1881)年に、三菱の岩崎弥太郎が高島炭鉱を買収。以降もグラバーは炭鉱の所長として経営に関わりました。


グラバーは岩崎から経営手腕を認められていました。
明治18(1885)年、グラバーは三菱財閥の相談役に就任。岩崎に経営危機に陥っていたスプリング・バレー・ブルワリーの再建を提案しています。これがのちの麒麟麦酒(現キリンホールディングス)となります。



子孫とともに日本で暮らす


グラバーは日本で家庭を築いています。
来日間もなくして、グラバーは遊女として知り合ったお園(広永園)と結ばれました。

お園との間には長男・梅吉という男児をもうけています。しかし梅吉は生後四ヶ月ではしかに罹患。幼くして亡くなってしまいました。悲しんだお園は実家に帰ったと伝わります。


その後、グラバーは加賀マキという女性と出会います。マキとの間には、次男・倉場富三郎が誕生。しかしマキはグラバーのもとを去っていきました。


しばらくしてグラバーは、五代友厚の紹介で淡路屋ツルと知り合います。
ツルは大阪の造船業・談川安兵衛の娘で、一度武家に嫁ぎ、大阪に戻っていました。
グラバーはツルとの間に長女・ハナをもうけています。


ちなみにツルは、世界的に有名なオペラ・『マダム・バタフライ(蝶々夫人)』のモチーフとなった人物とも言われています。
劇中のピンカートンがグラバーに当たりますが、事実は違います。
ピンカートンは妻子を置き去りにしますが、グラバーは終生ともに日本で幸せに暮らしていました。


1900年頃のグラバーと家族の写真
1900年頃のグラバーと家族の写真(出所:wikipedia

明治41(1908)年、グラバーは功績が評価され、勲二等旭日重光章を受賞しました。外国人としては異例のことです。明治維新での功績が評価されたことは勿論、伊藤博文らとの繋がりも深いことが考慮されたようです。


やがてグラバーにも最期の時が訪れます。明治44(1911)年、グラバーは慢性腎臓炎により、東京の自宅で死去。享年七十三。墓所は長崎の坂本国際墓地にあります。



【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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