「岩崎弥太郎」三菱の父にして土佐藩史上異例の立身!近代実業の一大先駆者
- 2021/11/05
日本史上、その政権を長きにわたって手にしてきたのは武士たちでしたが、国家運営の根幹が経済にあったのは論を待ちません。かつて近世の身分を表現するのに「士農工商」という言葉が教科書でも使われていましたが、近代を迎えてその存在感を開花させたのが「商」、つまり商人に代表される経済人たちでした。
近世においても武家が商人から多額の借財をしたり、藩財政にすら影響したりするほどの力を持っていたことは有名ですが、明治維新によってまさしく商が歴史の表舞台に躍り出る時代が到来したといえるでしょう。そんな歴史的な経済人の一人に土佐の岩崎弥太郎(いわさき やたろう)の名が挙げられます。
幕末史において圧倒的な人気を誇る坂本龍馬の事績とも不可分なため、その文脈で語られることも多い人物ですが実は現在もよく知られている大企業の創始者でもありました。今回はそんな、岩崎弥太郎の生涯についてみてみることにしましょう!
近世においても武家が商人から多額の借財をしたり、藩財政にすら影響したりするほどの力を持っていたことは有名ですが、明治維新によってまさしく商が歴史の表舞台に躍り出る時代が到来したといえるでしょう。そんな歴史的な経済人の一人に土佐の岩崎弥太郎(いわさき やたろう)の名が挙げられます。
幕末史において圧倒的な人気を誇る坂本龍馬の事績とも不可分なため、その文脈で語られることも多い人物ですが実は現在もよく知られている大企業の創始者でもありました。今回はそんな、岩崎弥太郎の生涯についてみてみることにしましょう!
出生~青年時代
岩崎弥太郎は天保5年(1834)12月11日、土佐国安芸郡井ノ口村(現在の高知県安芸市井ノ口)に地下浪人・岩崎弥次郎の長男として生を受けました。地下浪人というのは土佐藩における身分のひとつで、40年以上郷士だった者がその資格を他者に譲って地域に定住した家格を指します。浪人なので無役ではありますが、士分であり、苗字帯刀を許されていました。
弥太郎は字を「好古」、名を「敏」とし、維新後に「寛」に改名。雅号としては「毅堂」や「東山」を用いました。幼少より学問で身を立てる志を持ち、はじめは伯母の嫁ぎ先であった儒学者・岡本寧浦(おかもとねいほ)のもとで学びました。
安政元年(1854)、江戸へ赴任する儒学者・奥宮慥斎(おくのみやぞうさい)の従者として随行し、高名な朱子学者・安積艮斎(あさかごんさい)の見山塾に入門します。艮斎は吉田松陰・高杉晋作・小栗上野介ら名だたる人物の師としても知られ、弥太郎はここで学問の研鑽を積みました。
しかし翌安政2年(1855)、父が庄屋とのトラブルの末に投獄されたという報せを受けて急きょ帰国し、奉行所に訴え出ます。しかし、その対応に不満を持ち、不正と忖度が横行しているという文意を壁に書き付けたことで弥太郎自身も投獄されてしまうのです。
このとき同じ房に収監されていた商人から商いのことや算術を教わったことが、弥太郎の経済人としての開眼だったともいわれています。
吉田東洋門下時代~慶応初年
やがて無事に出獄した弥太郎ですが、一連の責任を問われ、井ノ口村を追放されるという憂き目にあいます。
井ノ口村を出た弥太郎は寺子屋まがいのことをして生計を立て、年末には追放赦免・家名回復となるのですが、村には戻らずに土佐藩の参政(藩主に次ぐ身分の階級。実質の藩行政の最高責任者)を務めた吉田東洋の少林塾に入塾しました。
このとき、東洋は旗本とトラブルを起こして蟄居中でしたが、弥太郎はこの塾において後に参政となる後藤象二郎や、自由民権運動で名を馳せる乾(板垣)退助らと親交をもちました。
安政4年(1857)、赦免された東洋は、参政に復帰して「新おこぜ組」と呼ばれた若手藩士らを中心に藩政改革を実施。弥太郎は東洋の推挙を受け、安政6年(1859)に土佐藩に士分として仕えるようになりました。
同年10月には国際情勢、とりわけ清国の状況調査を目的として長崎へと派遣されます。しかし、弥太郎は長崎丸山の花街で遊蕩生活を送り、軍資金を使い込んでしまうのです。
翌万延元年(1860)4月に土佐へ戻り、金策に走り回るも、無断帰国にあたったため、職を罷免され、井ノ口村へと帰郷します。
その後、高知城下の姉夫妻の家に居候した弥太郎は、借金をして郷士株を買い戻し、長岡郡三和村の郷士の娘・喜勢(きせ)と結婚。弥太郎27歳のときでした。
当時の土佐藩内では下士層を中心とした攘夷派と、上士層中心のグループが激しく対立しており、文久2年(1862)4月8日に吉田東洋が勤皇党メンバーに暗殺されるという事件が起こります。
東洋暗殺の下手人探索を命じられた弥太郎は、藩主の江戸参勤に随行する形で大坂まで至りますが、申請書の不備を理由として途中で強制的に帰国させられます。これは勤皇党を率いた武市瑞山(半平太)一派の工作で、旧東洋派であった弥太郎の同僚らは大坂で粛清されています。
井ノ口村に戻った弥太郎はしばらくの間農業に従事し、慶応元年(1865)には以前より申請していた官有林の払い下げ許可が下りています。
開成館時代
慶応3年(1867)3月、東洋の甥で土佐藩参政を務めた後藤象二郎の引き立てにより、弥太郎は再び藩の職務に起用されます。
土佐では「開成館長崎出張所」という出先機関を設けており、外国との交易や樟脳・鰹節といった特産品の販売を行っていました。長崎へ赴任した弥太郎は開成館の主任に就任し、有名なグラバーら外国商人との取引も担当しています。
また、同年には坂本龍馬・中岡慎太郎の脱藩罪が赦免され、弥太郎は正式に土佐藩の外郭組織となった海援隊の残務整理も手掛けたといいます。
同年11月、長崎貿易における功績が認められた弥太郎は上士階級に相当する「新留守居組」へと昇進しました。特に階級制度が厳格だった土佐藩において、地下浪人から上士相当格まで立身したのは異例のこととされています。
維新後~九十九商会時代
明治元年(1868)閏4月、土佐の開成館長崎出張所は閉鎖されます。翌年、弥太郎は同じく開成館の大阪出張所へと異動し、責任者として経済活動に従事します。
しかし明治新政府の藩営事業禁止方針を受け、明治3年(1870)10月に私設海運業者「九十九商会(つくもしょうかい、当初は土佐開成社)」が土佐藩士らによって創設。この九十九商会は旧海援隊士・土居市太郎と長崎商会の中川亀之助が代表を務め、弥太郎は藩の側から事業を監督するという立場でした。
翌明治4年(1871)の廃藩置県後、弥太郎は9月15日に九十九商会から独立する形で新会社を旗揚げしました。大坂の旧土佐藩屋敷を買い戻して拠点としたこの会社は「三川商会(みつかわしょうかい)」と名付けられました。
のちに「三菱商会」「三菱汽船会社」などと改称されていることからもわかるように、現在の三菱グループの直接の祖型となる企業にあたります。
三菱創設~最期
弥太郎が三川商会を「三菱商会」と改称したのは明治6年(1873)のことで、翌年には本社を東京・日本橋の南茅場へと移転しました。同年の台湾出兵で政府から軍事輸送を引受け、明治8年(1875)には内務卿・大久保利通は政府の海運新興政策に弥太郎の会社を起用。郵便物の受託や外国定期航路の開設、海事要員の育成などを一手に依頼し計30隻の船舶と年額25万円(当時)の助成金を支給するなど国策としてこれを庇護しました。
国内最大の汽船会社となった三菱は明治10年(1877)の西南戦争でも軍事輸送を請け負い、いよいよその地位を盤石のものとしました。
莫大な利益をあげた傍ら、明治11年(1878)には、東京に以下3つの大きな屋敷を購入しています。
- 高田藩榊原家江戸屋敷(旧岩崎邸庭園)
- 深川清澄の屋敷(清澄庭園)
- 駒込の庭園(六義園)
しかし、その独占的な海運業への批判も強く、やがて政府関係者のうちにもそうした方針を明示する動きが表れます。明治14年(1881)10月に大隈重信が失脚すると、政府は一転して三菱への抑圧を強めるようになり、翌年に反三菱勢力が投資して「共同運輸会社」を設立。以降、三菱との海運業の覇権を巡る熾烈な商戦が繰り広げられました。
弥太郎はその中途、明治18年(1885)2月7日に満51年の生涯を閉じました。その魂は東京都豊島区駒込の染井墓地に眠っています。
おわりに
弥太郎が永眠したその同年9月、政府の勧告によって三菱は共同運輸と合併し「日本郵船会社」が設立されました。また、弥太郎が創設した商船学校は、現在の東京商船大学の前身となった学校です。幕末土佐の英雄としては真っ先に坂本龍馬の名を想起しますが、群雄割拠の時代において岩崎弥太郎も間違いなく、風雲児と呼ぶにふさわしい人物のひとりだといえるのではないでしょうか。
【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
- 『日本人名大辞典』(ジャパンナレッジ版) 講談社
- 三菱グループHP 岩崎彌太郎年表
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