「保元の乱(1156年)」武士が活躍!朝廷内の混乱が軍事衝突へ
- 2021/12/08
保元元(1156)年に勃発した保元の乱(ほうげんのらん)は、3年後の平治の乱と併せて、教科書にも載る有名な事件です。どちらも政治抗争を発端として軍事衝突にまで発展し、貴族たちは源氏や平氏をはじめとした武士の力を借り、ようやくこの紛争を収めました。そのため貴族政治の限界を示し、武士の時代の到来を告げる事件とされます。
先に起こった保元の乱は平安京周辺で起こった兵乱としては史上初で、武力抗争にまで至った政争は実に数百年ぶりでした。平安時代は戦乱がほとんどなかったのに、なぜここへきて勃発したのでしょうか?
先に起こった保元の乱は平安京周辺で起こった兵乱としては史上初で、武力抗争にまで至った政争は実に数百年ぶりでした。平安時代は戦乱がほとんどなかったのに、なぜここへきて勃発したのでしょうか?
乱の背景
保元の乱では各勢力が後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれて争いました。その背景には皇位継承問題や摂関家の内紛など朝廷内の様々な要因がありました。皇位継承問題 ~鳥羽法皇と崇徳上皇~
栄治元(1141)年12月7日、院政を敷く鳥羽法皇は崇徳天皇を退位させ、体仁親王(なりひと、近衛天皇)が即位しました。崇徳・近衛はどちらも鳥羽法皇の子ですが、鳥羽法皇は崇徳天皇の系統ではなく、寵愛する藤原得子(美福門院)との子である体仁に皇統を継承させようとしたのです。当時は退位した天皇である「上皇」が天皇以下の人事権を握っており、天皇に代わって政務を主導しました。いわゆる院政です。これは上皇・法皇が「院」と呼ばれたことに由来します。ちなみに上皇が出家すると「法皇」と呼ばれます。
院は政務はもちろん私的な武力までも一手に掌握し、絶大な権力を有しましたが、上皇なら誰でも院政ができるわけではありません。在位中の天皇の直系尊属であることが院政の必須条件でした。
そのため弟に譲位した形となる崇徳には院政が不可能で、近衛の系統が続けば崇徳に院政のチャンスはほぼ回ってきません。この譲位は崇徳にとって大きな遺恨となりました。
摂関家の内紛
摂関時代には藤原道長・頼通らが天皇の外戚として摂政や関白の地位に就き、政治の実権を握りました。しかしその後、院政が開始されると、権力は “院政を行う上皇・法皇” に集中したため、摂関家の力は大きく弱体化してしまいます。勢いの弱まりつつある摂関家を継いだ藤原忠実は子・忠通へ家督を譲ります。この忠通には実子がなかったため、弟の頼長を養子にし、後継者とする予定でした。
しかし後に忠通に実子が誕生すると、忠通は我が子への摂関継承を望み、頼長への継承を拒否しはじめます。政治的なトラブルも相次ぎ、両者の関係は修復不可能なほど悪化してしまいます。
怒った忠実は家長の権限で忠通を義絶して財産を没収、それを摂関家嫡流の地位と共に頼長に与えます。しかし、家庭内の問題は解決できても仕事のことまでは口出しできません。摂政の地位は依然忠通が保ったままでした。そのため対立する忠通・頼長兄弟が、それぞれ力を有したまま朝廷内で並立するという危険な状態となったのです。
近衛天皇の早世
久寿2(1155年)年7月23日、近衛天皇が17歳の若さで崩御します。会議の末、皇位を継いだのは鳥羽法皇の第四皇子・雅仁親王(まさひと、後白河天皇)でした。後白河はいわば傍流で、皇位継承とはほぼ無縁の立場だったので、周囲は驚いたといいます。これは会議を主導した美福門院が守仁親王(後の二条天皇)を後継に推していたことと深い関係があります。守仁は雅仁の実子ですが、美福門院の養子となっていました。つまり後白河の後、スムーズに守仁へ皇位を継承するための抜擢であり、後白河の即位は最初から中継ぎ目的だったのです。
ギリギリの朝廷内
王家と摂関家、それぞれの内部対立は周囲を巻き込み朝廷全体が危険な状態でしたが、圧倒的な権威を有する鳥羽法皇が取りまとめることで、どうにか均衡が保たれていました。鳥羽法皇の崩御
保元元(1156)年7月2日、鳥羽法皇が崩御します。残されたのは中継ぎのため権威の無い後白河天皇と、一旦皇統を外されながらも唯一の上皇である崇徳上皇です。一応、正式に国家権力を有するのは後白河天皇ですが、権威もなく不安定な情勢下では崇徳に皇統を取り返される可能性がありました。これまでトラブルを抑えてくれた鳥羽法皇はもういません。政治的な脅威は実力で排除するしかないのです。後白河天皇VS崇徳上皇の衝突は目前まで迫っていました。
動員された武士たち
当時京では様々な勢力の武士が活動しており、保元の乱ではその多くが動員されました。ここでは有名どころの平清盛や源為義・義朝親子の去就について見てみましょう。伊勢平氏の嫡流・平清盛は着実に業績を挙げて鳥羽法皇の信任も厚く、一門は当時京で最大の武門となっていました。そのため乱に際して彼らがどう動くかは注目されていました。鳥羽法皇と密接でありつつも、崇徳上皇とも関係が深かったのでギリギリまでその去就は不明瞭でした。しかし最終的には後白河陣営に付きます。
一方、河内源氏の嫡流・源為義は政治的に低迷していました。一族や家人が度々トラブルを起こし、彼自身も失態が相次いでいたからです。
そんな為義を救ったのは摂関家の忠実でした。忠実は河内源氏の武力を摂関家の私兵にしようとしたのです。為義は忠実・頼長の摂関家主流と主従関係を結んで活動し、その繋がりで乱では息子らと共に崇徳陣営に参戦します。
しかし為義の長男・義朝だけは後白河陣営に付きました。義朝はある時期から為義と袂を分かち、独自に行動して鳥羽法皇や美福門院に接近していました。彼らの下で義朝は急激に出世を遂げ、乱の直前には父・為義の官位を追い越すほどになっていました。政治的にも敵対し、源氏親子は戦場で敵同士として相まみえることになるのです。
対立構図をまとめると以下のようになります。
◆ 上皇方
- 崇徳上皇
- 藤原頼長
- 平忠正
- 源為義
- 源為朝
VS
◆ 天皇方
- 後白河天皇
- 藤原忠通
- 平清盛
- 源義朝
戦闘勃発
鳥羽法皇崩御から3日後の7月5日、「崇徳上皇と頼長が手を組んで反乱を起こそうとしている」という噂への対策を名目に、後白河陣営は警護の武士を招集します。後白河陣営による崇徳陣営への明らかな挑発でした。開戦前夜
後白河陣営に先手を打たれ、謀反人の烙印を押されてしまった崇徳と頼長に残された道はただ処罰を待つか、武力による挽回しかありません。追い詰められた者同士提携するため、10日に頼長は崇徳と合流します。その下に為義や清盛の叔父・忠正など摂関家と縁の深い武士たちが集まりましたが、彼らは摂関家の私兵のようなもので、後述するように後白河陣営よりその数は劣っていたようです。
一方、後白河陣営は戦闘に早くから備えており、清盛や義朝らをはじめとした有力武士も味方つけて準備は万端でした。権威をこそ欠けているものの、後白河はれっきとした天皇です。国家権力によって正式に武士の動員ができたことも大きく、その下には多くの武士が集まっていました。
10日の晩は両陣営で軍議が開かれました。このときどちらの陣営でも武士たちは先制攻撃による奇襲を提案したとされますが、それを採用したのは後白河陣営のみで、崇徳陣営はこれを却下、援軍を待つことになりました。
戦闘の経過
11日未明、後白河方の先制攻撃によって戦いの火蓋が切って落とされます。数に勝る後白河方でしたが、為義の子で豪勇を誇る為朝の活躍により予想以上の苦戦を強いられます。為朝は強弓を用い、相手を鎧ごと射貫くほどの凄まじい武勇の持ち主だったといいます。彼の弓の前に清盛軍は蹴散らされ、続く義朝軍も撤退に追い込まれます。
攻めあぐねた後白河方は援軍を派遣し、崇徳・頼長の籠る建物周辺に火を放ちます。奮戦していた崇徳陣営も火攻めには敵わず総崩れとなります。崇徳と頼長は脱出して行方をくらまし、武士たちも敵の追撃を逃れて各地に潜伏しました。なお頼長は逃走中、敵の放った矢を顎に受け重傷を負ったといいます。
激闘の果てに
戦後処理と敗者たち
乱からしばらくして各地に逃れていた崇徳陣営は続々と投降します。崇徳上皇は匿われていた先で保護され、為義は義朝の下へ、忠正は清盛の下へ出頭しました。親族を頼ることで処罰の軽減の狙ったと考えられます。しかし処罰は厳しく、崇徳上皇は讃岐へ配流、為義や忠正らはそれぞれ義朝、清盛の手によって斬首となりました。先に述べたように、政局が不安定な状況下で政敵の徹底的な排除が必要でした。敵に復活のチャンスを与えるわけにはいかなかったのです。
大怪我を負いながら逃げ延びた頼長は奈良にいた父・忠実を頼りますが、面会を拒否され、程なく息を引き取ります。息子をあっさり見捨てた忠実の判断はあまりに冷酷ですが、ここで手を差し伸べたら親子もろとも罪人です。忠実の荘園はすべて没収され、摂関家の経済基盤は崩壊してしまいます。忠実は摂関家を守るためやむなく頼長を見捨て、敵である息子・忠通に天皇との取り成しを頼みます。
忠通としても荘園の没収は何としても避けなければなりません。忠実と協力して交渉し、忠実の処罰と荘園の没収は免れることができました。しかし、罪人・頼長の所領は没収され、為義をはじめとした摂関家の武力は解体、加えて摂関家内の人事を天皇に握られ、自立性を失ってしまいます。
燻る戦乱の火種
摂関時代から弱体化していたとはいえ、独自の経済基盤を有し、国家権力とも渡り合えるほどの武力も有していた摂関家の勢いは大きく衰退してしまいました。忠通が勝利者となり、朝廷内での地位を保てたとはいえ、この乱で最も大きな打撃を受けたのは摂関家であったといえるでしょう。保元の乱は武士の台頭というより、摂関政治から院政への移り変わりの中で起きた政治的混乱が直接の原因といえます。この混乱に加え、摂関家という大勢力の衰退は、平治の乱というさらなる兵乱の火種となるのです。
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【主な参考文献】
- 本郷恵子「院政論」大津透ほか編『岩波講座 日本歴史6 中世1』(岩波書店、2013年)
- 野口実『源氏と坂東武士』(吉川弘文館、2007年)
- 元木泰雄『保元・平治の乱を読みなおす』(日本放送出版協会、2004年)
- 元木泰雄『河内源氏 頼朝を生んだ武士本流』(中公新書、2011年)
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