「平治の乱(1159年)」混乱は続く。院近臣の争いが生んだ兵乱

平治元(1159)年に勃発した平治の乱は、3年前の保元の乱と併せて、教科書にも載る有名な事件です。どちらも政治抗争を発端として軍事衝突にまで発展し、貴族たちは源氏や平氏をはじめとした武士の力を借り、ようやくこの紛争を収めました。そのため貴族政治の限界を示し、武士の時代の到来を告げる事件とされます。

平治の乱では平清盛と源義朝が敵同士となって争ったことが有名です。彼ら2人の対立と貴族の争いが絡み合って乱が勃発したように説明されることも多いように思います。先の保元の乱では同じ陣営で共に戦った2人、それがどうして敵対することになったのでしょうか。

乱の背景 ~保元の乱後の政界~

王家の皇位継承問題と摂関家の内紛が絡み合い、朝廷全体を巻き込み兵乱へと発展した保元の乱。乱は終息したものの、王家と摂関家の力は大きく低落してしまいます。強い政治力を持っていた両者の後退は、政界に新たな混乱を呼びました。


信西の政治主導

保元の乱で勝者となった後白河天皇でしたが、彼は元々守仁親王(後の二条天皇)への中継ぎ目的で担ぎ上げられたので、政治的権威に欠けていました。そのため、乱後の政界を主導したのは後白河側近の信西(藤原通憲)という人物でした。

信西は元々中級貴族程度の家柄でしたが、抜群の学才と実務能力で後白河の父・鳥羽法皇を補佐し、その信任を得ていました。後白河の擁立や鳥羽法皇の葬儀、保元の乱の戦後処理など、重要な局面で才覚を発揮し、後白河の治世下で大きな発言権を有したのです。

信西は政治改革を積極的に推し進め、彼の一門は急激に昇進していきました。さらに自身の息子と平清盛の娘を婚約させ、当時京で最大の武門となっていた平氏一門との提携関係も築き上げます。

院近臣たちの台頭

当時は上皇・法皇(退位した天皇、院と呼ばれる)が、在位中の天皇に代わって政務を行う院政が政治の主流でした。そして院との関係を元にして政治的に力を持った人物のことを院近臣(いんのきんしん)と呼びます。

院近臣は院の縁者や政務補佐官に加え、男色の相手なども含まれました。彼らは院によって本来の家格以上の高い身分を得て、院を経済的・政治的に補佐しました。
しかし、いくら有能な院近臣でも本来は院の補佐役に過ぎなかったのですが、保元の乱で王家と摂関家の力が衰えたことで状況は変わります。上からの圧が減った院近臣らは自立し、独自の行動をとるようになったのです。中流貴族に過ぎない信西が国政を主導する立場にまで昇りつめたのには、このような理由がありました。

反信西の動き

院近臣らが群雄割拠している状況で、新興ながら急激に地位を上げる信西一門。彼らの台頭によって地位を脅かされた貴族たちは次第に信西に反感を持ち始めます。

反信西の筆頭となったのは藤原信頼でした。彼は保元の乱後、後白河の下で急激な昇進を遂げていた院近臣の1人です。後白河とは男色関係にあったとされますが、実務官僚としても優秀な人物であったようです。
さらに信頼は源義朝と提携関係を結んでいて、義朝の武力を自由に行使できる立場にありました。自前の武力に乏しい後白河や摂関家のニーズに、信頼はちょうどマッチする人材だったのです。信頼は義朝の武力と摂関家の権威を背景に朝廷内で存在感を増していきました。

出世街道を進む信頼の障害となったのは、やはり信西一門です。同様に信西を疎ましく思う貴族らと結託し、信西の排除に乗り出します。

◆ 信西方

  • 信西
  • 後白河上皇
  • 平清盛
  • 平重盛
  • 平経盛
  • など…
VS

◆ 藤原信頼方

  • 藤原信頼
  • 源義朝
  • 源義平
  • 源頼朝
  • など…

乱の勃発 ~信西を倒せ!~

平治元(1159)年12月9日の深夜、信頼率いる義朝の軍勢が信西のいる院御所・三条殿を襲撃します。事前に襲撃を察知していた信西は脱出しますが、逃亡先で発見され自害へと追い込まれます。

一方、信頼は襲撃時に後白河上皇(1158年に二条天皇に譲位)の身柄を確保、内裏に幽閉します。内裏には元々二条天皇がいたので、天皇と院の両方をその支配下に置いた信頼は一気に政務主導の立場へと躍り出ます。

信西追討の最大の功労者である義朝は上流貴族一歩手前の地位を、その嫡男・頼朝は有力な院近臣の子息なみの地位を手に入れました。

勝者となり権力を握った信頼と義朝でしたが、彼らの栄光の日々はある人物の登場によってあっけない終わりを迎えることになります。乱勃発時に京を留守にしていた平清盛が帰京してきたのです。

乱の第二段階 ~平清盛の参戦~

清盛と政界

信西襲撃事件の時、平清盛は熊野詣に出かけていました。上述の通り、清盛は信西と提携関係にあり、京最大の武力を有していました。そのため反信西派からはその動向が注視されており、信西襲撃も清盛の留守を狙って決行されたと考えられています。

一方で清盛は信頼とも提携関係にありました。その他の人間関係も考慮すると、清盛は上記の政治抗争から一歩距離をおいた、中立的な立場であったようです。院近臣たちの争いを冷ややかな目で見ながら熊野詣に発ったのかもしれません。

しかし京で戦闘があったとなっては我関せずではいられません。信西襲撃の報を聞いた清盛は急いで京へ駆け戻ります。元々京近郊に多くの郎等を抱えていたため、帰路の清盛の下には多くの武士が集まりました。

帰京した清盛はある計画を知ります。六波羅への天皇行幸(清盛宅へ二条天皇を脱出させる)計画です。この計画には信西襲撃事件の首謀者となった貴族らも協力していました。彼らは信西打倒という共通の目的で一時的に結託していただけで、目的が達せられた今、増長する信頼を疎ましく思いはじめていました。
「信西が偉そうにしてるのも嫌だが、信頼がデカい顔してるのも気に入らん!」といった感じでしょうか。院近臣らの政治抗争は再燃していたのです。

信頼を排除しろ!

これまで中立だった清盛はここではじめて乱に関与しはじめます。反信頼派と結び、天皇救出のために動きはじめるのです。武力を背景に急激に勢力を伸ばす信頼と義朝を、清盛も警戒したのかもしれません。

12月25日の早朝、清盛は信頼の元に向かい、彼に恭順の意を示します。清盛が味方についたことを喜ぶ信頼でしたが、これは信頼を油断させる清盛らの作戦でした。その日の夜、天皇脱出計画の実行者が内裏に潜入、後白河上皇と二条天皇を脱出させることに成功します。信頼が油断していたこともあり、この脱出作戦はあっさりと成功します。

26日の早朝、天皇と上皇が脱出したことを知った信頼らは大慌てです。天皇を奪われ、自身を正当化する根拠を失った信頼・義朝は、昨日までの栄華から一転、賊軍となってしまったからです。義朝は慌てふためく信頼を「日本第一の不覚人」と罵ったといいます。

追われる身となった信頼・義朝に残された道は、座して処罰を待つか、武装蜂起して大勢を挽回するかの2択です。義朝はわずかな手勢と共に出撃し、貴族である信頼も武装してそれに続きました。彼らは後者の僅かな望みに懸けることにしたのです。

追い詰められた信頼と義朝

合戦の様相は史料によって様々で、内裏での戦闘後、勢いを得た義朝軍が清盛宅のある六波羅に攻め寄せたとも、内裏の各門を巡って激しい攻防戦が続いたとも伝わります。いずれにせよ数に劣る信頼・義朝軍は敗北し、2人ともわずかな供と一緒に逃走します。

義朝の主力の多くは東国におり、この時の手勢はごく僅かでした。賊軍という立場のため、手を差し伸べてくれるものもほとんどいません。一方の清盛は主力も揃っており、官軍の立場で多くの武士を動員できました。最初から勝敗は決まっていたのかもしれません。

敗者を待ち受ける運命は過酷でした。信頼は逃亡先で身柄を確保され、自己弁護も空しく処刑されます。本来信頼クラスの貴族は死刑とはならないはずでしたが、義朝ら武士を率いて乱を起こし、京中を大混乱に陥れた罪は重いものでした。自身も武装していた=戦闘員として認識されたことも彼が処刑された要因の一つです。(当時の武士社会では敵の戦闘員は処刑するのが慣例)

一方の義朝は息子や僅かな郎等と共に東国を目指して逃亡します。味方の多い東国で匿ってもらい、再起を図ろうとしたのです。敵の激しい追撃により息子や郎等が次々と脱落していく中、義朝は這々の体で味方の館へと辿り着きます。しかしこの館の主人の裏切りに遭い、命を落とすことになります。生き延びのは捕虜となった嫡男・頼朝だけでした。


戦いの果てに ~義朝と清盛~

源平で敵味方に分かれた平治の乱。信西襲撃にしろ、信頼排斥にしろ、事の発端は政治抗争でした。義朝や清盛ら武士が動いたのは事件の大詰め、武力が必要になった時だけです。

こうしてみると義朝と清盛が敵対した原因は、互いへの対抗心からなどでなく、政治的な立場にあったことが分かります。特に義朝は政治にかなり振り回された印象を受けます。

乱の終息後、失脚や死去によって有力な人物が次々と政界を去っていきました。その結果、平清盛は思いがけず政治力、財力、武力ともに他から突出することになりました。

競合相手がいなくなった清盛は順調に出世を重ね、平治の乱の翌年には上級貴族の仲間入りを果たします。とはいえ、清盛はあくまで慎重な立ち回りを続けました。平氏が権力を握った平氏政権が樹立するのはもう少し先の話です。


【主な参考文献】
  • 本郷恵子「院政論」大津透ほか編『岩波講座 日本歴史6 中世1』(岩波書店、2013年)
  • 野口実『源氏と坂東武士』(吉川弘文館、2007年)
  • 元木泰雄『保元・平時の乱を読みなおす』(日本放送出版協会、2004年)
  • 元木泰雄『河内源氏 頼朝を生んだ武士本流』(中公新書、2011年)

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  この記事を書いた人
篠田生米 さん
歴オタが高じて大学・大学院では日本中世史を学ぶ。 元学芸員。現在はフリーランスでライター、校正者として活動中。 酒好きなのに酒に弱い。

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